呼吸書房

父の転生

父が交通事故に巻き込まれて即死してしまった、と病院から呼び出しの電話が掛かってきたのが15分前のことだ。
 病室には、ベッドが二つ並べられていた。
 片方のベッドは、私にとっても馴染み深い、真っ白なシーツと清潔な布団、患者に優しいリクライニング仕様のもの。もう片方は、ベッドの枠組みが剥き出しになっており、どちらかと言えば唯の台座に近い。
 そのどちらにも、父の身体が横たえられているのを、私はしげしげと眺めた。
 片方は、随分青白い上にほっそりとしていて、顔を見なければ父の身体とはとても思えなかった。瞼は閉じられ、静かに呼吸をしている。沢山の管とコードが突き刺さっていることを除けば、ただの健康な人間が眠っているようだ。
 片方は、ビニールシートの上に白いシーツが掛けられていて、これが本当に父なのか私には自信が持てなかった。とはいえ、血液のDNAから判断しましたと言われれば、認めざるを得ない。多分これが父の身体なのだろう。シーツのふくらみが、途中から不自然にべこんと凹んでいる。警察からの報告では、なんでも、下半身は千切れてタイヤに磨り潰されてしまったそうだ。あの脂肪で大きく膨らんだお腹のことだ、タイヤに圧し掛かられたら破裂するしかなかっただろう。リアルに想像しかけたところで、気持ちが悪くなって、やめた。
 手持ち無沙汰に、健康そうな方の父の寝顔を眺めていると、扉がノックされた。
「木之下さん、お待たせしました」
「あ、……すいません、お世話になります」
 担当の先生は、愛想良くにっこりと笑って部屋に入ってくると、壁に埋め込まれたコンピューターをきびきびと点検した。それから、一度廊下に出ると、人間の背丈と同じくらいある、真っ黒なコンピューターとハードディスクを、カートに乗せてごろごろと押してきた。
「お母様はまだいらっしゃいませんか?」
「はぁ、ちょっと、会議が長引いているそうで……終電でないと来られないと」
 私は、現れた三人目の父を眺めながらぼんやり言った。
「そうですか。……木之下さん、こちらの手続きのご経験は?」
「三年前に祖母が。結構手伝いましたので、それなりには分かってます」
「それは良かった。では、ご一緒にご確認をお願いいたします」
 手招きされるまま立ち上がり、私は巨大コンピューターの前に立った。液晶画面に、父の顔写真と名前、生年月日、最後にバックアップを取った日付が映し出されている。今日から数えて、ちょうど二週間前の日付だった。
「お父様で間違いありませんか?」
「間違いないです。私の父です」
 先生は安堵したように笑って、ちらりと腕時計に目をやった。
「お母様の到着までには終わるかと」
「……そんなに速くですか? 三年前は、丸一日掛かったのに」
「ここ三年で随分技術も進歩しましたし、今回は同一の身体に移し変えるだけですからね。お祖母様の際は、新しい身体への移動でしたでしょう?」
「ええ、はい、確かそうだったかと……」
 巨大コンピューターから、何本ものコードが引き伸ばされてゆく。その全てを壁の端子に差し込んでから、先生は私を見た。
「始めても宜しいですか?」
「お願いします」
 コンピューターに背を向け、私は父の傍に座った。液晶画面が忙しくタッチされる音が聞こえてくる。壁に灯る何色ものランプが慌しく点滅し、モーターやファンの唸る音が轟いてくる。
 私は父の寝顔をじっと見つめた。痩せ、青白く、呼吸を繰り返す以外には何の動きも無い顔。額、米神、頭頂部、とにかく頭のあらゆる部分に差し込まれたコードの電極部分が発光を始めた。
「起動は済みました。だいたい三時間で移動は完了です」
「分かりました」
「お父様が目覚めるのは、恐らく明日の明け方頃になるかと思います。お父様の意識が戻り次第、すぐに呼んでください」
「分かりました、ありがとうございます」
「最初は意識、記憶共に多少の混濁があるかもしれません。ゆっくりと現状を説明してあげてくださいね」
「はい」
「それでは、失礼します」
「ありがとうございました、先生」
 私は一度も振り返らなかった。足音が遠ざかってゆき、静かに扉が閉められるのを聴いていただけだ。
 私は、瞬きすらも惜しんで、父の寝顔を凝視し続けた。生成されてから、59年間、機械の中で成長してきた方の父の寝顔だ。真っ白なままで保存されてきた海馬に、父の記憶が、誕生からバックアップを取った二週間前までの59年分の記憶が順繰りに書き込まれていくのを、私はじっと見守っていた。59歳の父の身体の中で、私のことも、母さんのことも、自分の職務も人生も何も知らない赤ん坊が生まれ、三時間の間に59年間を経験していくのをじっと見つめた。
 私は期待していたのだ。父の表情が、私の知らない、あどけなく無垢だった頃の記憶だけに包まれ、神々しく輝くのを。最初の30分。父の記憶は10歳のはずだった。父の表情はぴくりとも動かず、ただ、眼球が微かに震えているのを、私は恨めしく眺めた。腕時計の針が進むにつれて、父は成長していく。そろそろ20歳になったろうか。個人的には、初めて恋をした時、初めて性的快感を知ったとき、初めて女性と関係を持ったときを境に、父の表情が愕然と変化するのではないかと思っていたのだが、全くそんなことはなかった。父は、安らかに眠り、長い夢を見ているだけだった。

溜息をつき、私は鞄から小さく畳んだ液晶紙を取り出すと、読みかけの小説を呼び出した。

最後まで読み終わり、顔を上げた時には、父はもう59歳になっていた。
 母はまだ到着出来ないようだった。