呼吸書房

死よりも遥かに柔く

廊下の隅っこに、クラスメイトの生き霊がいた。半透明の身体、曖昧な輪郭線。私とおなじ制服の、紺色であるはずのプリーツスカートは水面のように透きとおり、朝の日差しを反射していた。きれいだった。思わず見惚れてしまうほどに。
 私は彼女と数えるほどにしか喋ったことがなかった。名前はかろうじて分かる、たしか、柳木さん。教室を覗いてみれば、柳木さん本人の姿が見えた。机に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、楽しげに談笑している。顔色も良好、廊下に生き霊を蹲らせているとはとても思えない。
『……春川?』
 さすがに見つめすぎた。生き霊の柳木さんに気づかれてしまった。私は無表情を装って彼女の隣に座りこみ、声をひそめた。
「柳木さん。どうしちゃったの、あなたの身体、教室にいるけど。呼んでくる?」
 おそらく彼女の姿は私にしか見えていない。虚空に向かって独白するヤバいクラスメイト、と通りすがりの誰かに思われないよう、私は携帯を耳元に添え、通話中のふりをした。柳木さんは透明な袖でまぶたを擦った。
『あんた、霊感とかあったんだね』
「まあ、多少? 生き霊を見たのは今日が初めてだけど。あんまり長く身体から抜けてると良くないんじゃない」
『生き霊?』
 柳木さんは口元を歪めた。ひどく愚かな答えを聞いたときの先生みたいに。
『生き霊じゃない。私は死んでる。あんたが見てるのは幽霊だよ』
 私は押し黙り、困惑のままに教室を指差した。半透明じゃない方の柳木さんが、なにか友人のジョークがツボにハマったらしく、仰け反りながら大笑いしていた。端的に言ってとても元気だ。つまり、
「ドッペルゲンガー? 入れ替わり? 身体を取られちゃった? あっちの柳木さんは、ほんとは柳木さんじゃなかったりする?」
『違うよばか。あれも私だよ。……違う、あれは“私だったもの”……そうじゃない……あれが私であって、ここにいる私はもう“私だったもの”』
 柳木さんは混乱しているようだった。両手に顔を埋め、震えながら息を吐きだす。
『私は、今朝、私を殺したの。ある願い、ある感情、心の一角、既に長く抑圧していた私自身を、とうとう葬ることに成功した。その願いも感情も、永遠に失われ、もう二度と蘇ることはない。私に殺された私の半分、それが、今ここにいる幽霊の私。あっちにいるのは生き延びた方の私であって、もう私じゃない。わかるかな……』
 幽霊も呼吸するんだな、と私はぼんやり思った。柳木さんの声には、怪我を負った人が手当も受けずに喋っているような、生乾きの痛みが赤く滲んでいた。声音に気を取られたばかりに、私は話の内容を半分も聞いていなかった。「よく分かんないけど、」とにかく、彼女が傷ついていることは分かった。
「成仏できそう?」
『無理、わかんない』
 柳木さんは膝を抱え、顔を伏せてしまった。一限の予鈴が鳴った。教室へ入ってゆくクラスメイトに軽く手を振りながら、私は途方に暮れた。どうしよう。
『悲しい』
 柳木さんはどうやら泣いている。かぼそい啜り泣きに、教室にいる柳木さんの笑い声が重なる。そもそも私は柳木さんと親しくないのだ。彼女が何を好きで、何を話せば元気づけられるのか、さっぱり知らない。でも、このまま置き去りにしたら、今日一日とても授業に集中できないだろう。
「……放課後にスタバ一緒に行く? 話聞くくらいなら良いよ」
 破れかぶれの提案だったが、柳木さんは顔を上げた。
『……行く』
 私だけでなく、柳木さんも自分の返答に驚いたようだった。半透明の長い睫毛を瞬いて、柳木さんはしげしげと私を見た。彼女もまた、このクラスメイトとほとんど喋ったことないのにな、と考えているような気がした。
 放課後、クリスマスソングが延々と流れるスターバックスで、ホリデーシーズン限定のラテを二人分頼み、私たちはテラス席に居座った。『今年のやつ、まだ飲んでなかったのに』と柳木さんはさめざめ泣き、私は仔細な味のレビューを強請られた。
 そして私は彼女と友達になってしまった。もう苗字ではなく名前で呼びあう。遥は一向に成仏する気配がなく、卒業式にも成人式にも一緒に出席した。『振袖に着られてる』とけらけら笑う遥を無言でどつきまわしたことを、柳木さんは知らない。生きている柳木さんと私は、相変わらず親しくない。遥と同じ顔だから、時折うっかり名前で呼んでしまいそうになるけれど、柳木さんはもう彼女から分かたれていて、彼女ではない。かつての遥が好きだったものを、今の柳木さんも好きなのかどうか、私は知らない。
 成人式で見かけた柳木さんは、とてもきれいだった。幽霊の遥は、高校生のあどけなさを残したままだ。どうやら成長が止まっている。今はまだそっくりに見える二人の姿は、これからどんどん離れていくのだろう。
 私の肩に掴まりながらかつての自分を眺めやる、遥の透明な指先に、手を重ねる。柳木さん。私があなたの幽霊と友達だってこと、あなたにだけは教えない。