呼吸書房

少女ドーリィ

ドーリィは、その名が表すとおり、人形だった。
 陽光を反射し、きらきらと輝く化学繊維で作られた亜麻色の髪。唇は柔らかく、指先で触れればしっとりと吸い付くよう。瞳はとても精巧なガラス細工で、網膜における血管一筋一筋まで、丁寧に造り込まれていた。瞬きすら出来た。鼻筋は華奢で、呼吸の度に小さく膨らむ。白い首筋は、声を発すれば震え、撫でられれば赤くなる。指先の関節は全く目立たず、——いや、止そう。彼女の、あまりにも人形離れした美しさは、一言書き記すだけで事足りる。ドーリィは、一級品の美女、まるで人間と見分けがつかない人形娘だった。そして彼女は、持ち主の男を、心の底から愛していた。
 人形が持ち主を愛するのは、子が母親を慕うのと同じくらい自然なことだ。しかしドーリィの愛は、子が母親に恋するような、烈しい愛だった。毎朝、男が仕事に出掛ける前の一時間、ドーリィは幸福と恍惚に酔いしれる。男は、燦々と光が差し込む窓辺に彼女を置き、毎朝、髪にブラシを当てながら、首筋を撫でてくれた。優しく甘い言葉を、雨のように降らせながら。
「愛しているよ。私の可愛い子」
「パパ。ああ、パパ。私も、貴方のことを愛しています」
 頬を染め、はにかみ、男を見上げながら、ドーリィは心から微笑み、真実の愛を囁く。
「優しいドーリィ。君は本当に、いつも優しい」
 男も微笑む。見下した、瞳の裏に嘲りを隠した、生暖かい笑み。ドーリィは、もうその笑みに慣れっこになっていたから、少しだけ、本当に少しだけ悲しそうに瞼を臥せる。そして、彼の笑みが、全く純粋な、愛情の微笑みであると今一度自分に信じ込ませてから、微笑み返すのだった。
 そんな風に笑いながらも、男は決して、ドーリィを用済みの箱入り人形のように忘却に仕舞い込んだりはしなかった。月光だけが訪れる夜闇の中に隠しもしなかった。日中、室内の埃が陽光の中で煌めくワルツを踊る時間、彼はドーリィを窓際に座らせた。夜が訪れれば、窓際のベッドの中に横たえ、布団を掛けてやり、おやすみを言った。別れ際のキスを交わし、ドーリィもまた、おやすみなさい、と囁いて、朝日が昇るまで、時を数えるのだ。男は、客人すらも、躊躇うことなく部屋に招き入れた。招かれた客は皆、窓際に大人しく無言で座るドーリィを見ては、なんと美しい人形でしょうか、と、溜息を付いて感嘆する。男は誇らしげに微笑み、ドーリィもそんな時は内心得意だった。けれど、客人が帰れば、男の表情はまた元に戻り、見下したような微笑みでドーリィを愛でるのだ。

ドーリィは、心の底から男を愛していたから、ただただ、無邪気に、奔放に、男に笑ってほしかった。心からの笑みで自分のことを愛していると言ってほしかった。
 言葉と呼吸を得ただけでは足りないのだ、と、ドーリィは考えた。ベッドに横たわるだけの長い夜と、男が仕事から帰るまで窓際に腰掛けるだけの長い昼を幾日も幾日も繰り返し、考えた。
 自分が愛されないのは、きっと、自分が人形だからなのだ。そうとしか考えられなかった。自分が人間になれば、人間にさえなれれば、男はきっと、心から自分のことを愛してくれる。
 ガラスの瞳を涙で潤ませ、決して叶わない仮定に、ドーリィは苦しんだ。ドーリィは人形だったから、泣き叫ぶことも、床を這いつくばって苦しみに悶えることも出来ない。ただ、ただ、じっと、耐えた。耐えながら、願い続けた。

人間になりたい。人間になりたい。人間に、どうか、誰か私を、人間にしてください。

何年も願い続けた。その願いは、十年にも、二十年にも及んだかもしれない。
 とうとうある日の晩、彼女の願いは成就した。魔法の力が、月光の中に蜜のように満ちていた夜だった。人形のドーリィは、ついに人間の娘となり、自身の力で立ち上がった。
 信じられない奇跡。ドーリィは、自らの意志で動かせる手足を、信じられない想いで凝視し、鏡を見た。そこには、もう作り物ではない、本物の髪と肌、網膜、瞳の煌めきを持つ若い娘が映っていた。
 自由になった両足で、彼女は駆け出す。初めて自分で、自室の扉を開け放ち、廊下を目撃する。立ち尽くしたのは一瞬。毎夜毎夜、男の足音が階段を登るのを聴いていたのだ。階段を駆け上がり、部屋を次々と開けていく。そして、見つけた。男が眠っている部屋。ベッドの膨らみに歩み寄ると、ドーリィは、震える指先で、恐る恐る毛布を摘まんだ。男の寝顔が、毛布の影から現れる。眉間に皺を刻み、疲労で老け込んだ、どこかに鈍い頭痛を抱えたような寝顔だった。
 ドーリィは、男の名前を呼ぼうと唇を震わせ、凍りついた。
 男の寝顔を見つめる。呼吸を止め、毛布を宙に摘まみ上げたままの指先もそのままに、男を凝視する。

あと数秒の後、男は目を覚ますだろう。男は、寝ぼけた目でドーリィを見つめ、一瞬は戸惑うが、すぐに気付くだろう。彼女の、変化した息遣いに。瞳に宿った知性と魂の光にも。
 男は、歓喜の涙に咽び、こう叫ぶに違いない。ドーリィ、ドーリィ、君は人間だったのか。そして、死後の再会を果たしたかのように、ドーリィの細く柔らかい、甘い肢体を掻き抱くだろう。何年も、何年も男を愛し続けてくれた魂を、やっと抱きしめるだろう。
 ドーリィは、されるがままになりながら、茫然と、中空を見上げた。窓の向こうに浮かぶ月を、彼女の願いを叶えた、魔法と奇跡の光を。

彼女は、もう男を愛してはいなかった。