呼吸書房

竜の花嫁|試し読み

木立の合間、山ぶどうの蔓で編んだちゃちな罠に、仔兎が引っかかっていた。ついに、だ。花嫁は三日分の空腹も忘れて立ちつくし、罠から逃れようともがく兎を見つめた。花嫁の足音にひととき沈黙した蝉たちが、再び鳴きはじめた。
 体に力が入らなくとも、頭は冴えきっていた。この兎で何日凌げるか、何が作れるか、皮をどう役立てるか、罠の改善はどうするか——目まぐるしく考えを巡らせながら、花嫁はゆっくりと跪き、小刀の鞘を外した。
「……剣があって良かった」
 ひとりごちる。磨きこまれた刃の腹に西日が映り、きらりと光った。その眩しさに僅かに目を細めただけで、花嫁は小刀を兎の首に突きたてた。
 蝉たちが一斉に悲鳴をあげて、飛んだ。
 一拍遅れて、ごがうっ、と風が唸った。周囲の木々が、いや、山全体が、波打つような風に揺さぶられて、ざわめく。花嫁はまだ温かい仔兎を抱えると、枝葉に隠された獣道を抜け、見晴らしのよい崖に立った。風はまだ、麓から吹きあげている。そしてすこしずつ近づいてくる。
 空は真っ赤だった。日没だった。既に麓は夜に呑まれ、乾いた土も枯れた田畑もゆっくりと黒く隠されてゆく。ぽつぽつと灯りはじめた火の明かりと、立ちのぼる幾筋かの煙で、あのあたりが村だと知れた。きっと誰かが、少ない水で夕食を作っているのだろう。ここまで遠く離れては、何の匂いも届かないが。
 風に髪をかき乱されながら、花嫁は静かな目で、かつての自分が暮らした村を眺めた。そして、今、山肌に沿って空を駆けのぼってくる、彼女の夫を眺めた。
 炎を纏った風の翼、金の瞳。万にも届く赤鋼の鱗。雷鳴のような羽ばたき。花嫁はとっさに片腕で顔を覆い、両足に力をこめた。
 花嫁の視界を覆いつくす、それは巨大な竜だった。竜の通過とともに正面から激しい風が叩きつけ、花嫁はよろめいた。巨大な顎が、白い喉が、首が、胸と腹が、恐ろしく長い尾が、木々を掠めるようにして、空へと駆けあがってゆく。
 竜の飛行を見たのは、これが初めてだった。
 やがて、ゆっくりと風は途絶え、静かになった。ざわめきと入れかわるように、蝉たちの声が戻ってくる。花嫁は動けずにいた。体の震えが止まらなかった。胸に抱えたままの兎からこぼれ落ちる血が、腕を伝い、ポタリポタリと落ちつづける。この暑さだ、早く血抜きと、然るべき解体の処理をしなければ、食べられなくなってしまうのに。花嫁は唇を噛んだ。空腹に蝕まれた空っぽの胃が、痛かった。
 花嫁には分からない。
 なぜ、あの竜は、私を食べようとしないのか。

名もなき竜の宮

古い地図を譲り受けたことが、そもそもの間違いだったのだ。
 掠れた文字の間に小さく記された近道の但し書きを信じて、炎天下の山道をのこのことやってきてみれば、何のことはない、僕らを待っていたのは朽ちた看板と、草ぼうぼうの行き止まりだけ。肝心の山道は木々に呑みこまれてとっくに姿を消していた。よくよく見れば木立の合間に獣道のような名残が見えるけれども、とても人の通れるものではない。僕らは途方に暮れながら、夏の熱気と蝉たちの笑い声を一身に浴びていた。
 地図によれば、この山道の先には小さな村があるはずだった。だが、村を置き去りにして道だけが消えることはありえない。廃墟と化した山道は、この先には誰も暮らしていないことをはっきりと示していた。
「……どうする?」
「どうもこうも。進めないんじゃ引き返すしかないだろ。それに、山を回りこむとすりゃ相当な遠回りだ。馬がいないと無理だ」
「馬だって? 俺らの賃金で馬が借りれるか? 参ったな。春か秋ならまだしも、今は真夏だぞ。勘弁してくれ。前の町でもうすこし働かせてもらうしかない」
「一つの町には一ヶ月しかいられないって言われたじゃないか……」
 つまり、僕らの旅の計画はまるごとおじゃんになった訳だ。
 僕らは見習いの放浪職人だった。僕らの故郷では、陶工、鍛冶、絵師、編み細工、どんな職種であろうとも、一人前と認められるためには——そして方々の街に人脈を作り、職人同士の情報交換を行うためにも——見習い職人は最低二年、自らの手で路銀を稼ぎながら、各地を回らなければならない。
 そして僕らは全員、故郷を追いだされたばかりの新人で、旅の技術も地図の読み方もまったくの素人だった。唯でさえ読みづらい古地図の間違いなど誰も気づけるはずがない。仲間のひとり、古地図を譲り受けた張本人は責任を感じているのか、額に冷や汗を浮かべていた。
「あああ。これ、地図くれたの、鍛冶工房のばあちゃんだっけか。ひどいことするなあ。そもそもこんな山奥まで道が繋がってなきゃ、途中で気づいて引き返せたのにさあ」
 彼の嘆きに、うんうん、と僕らは深く頷きあって——すぐに揃って眉をしかめた。
 言われてみればそうだ。ここまでは、なんとか、僕らは山を登って来たのだ。踏み固められ、木々に侵されていない道を。そんな道は、人が行き来しなければ保たれない。
 僕らは好奇心に駆られ、暑さも忘れて辺りを探検してみた。
 それはすぐに見つかった。道の脇、背の高い茂みに隠されるようにして、小さな石の祠が建てられていた。祠の前には、木彫りの人形や、水盆、燃えさしのろうそくまで残っている。そこには人の気配がありありと読みとれた。
 僕は地面にほっぺたをくっつけて、祠の中を伺ってみた。石造りの暗がりに、白い影がぼうっと浮かびあがっている。それは陶製の、小さな竜の置物だった。首に巻かれた細い縄には、藍や紅で染めあげられた藁が何本も編みこんである。近ごろ換えられたばかりなのか、色彩はとても鮮やかだった。
「この山の神様かね?」
 顔を上げつつ聞いてみたが、前の町でそんな話を聞いた仲間はひとりもいなかった。
 僕らは下山前に木陰で昼食をとった。初めの話題はもっぱら祠と道の謎についてだったが、そのうちみんな我に返って、今後の働き先のことを話しはじめた。出発のとき、祠を何度も振りかえってしまったのは僕だけだった。

そろそろ夏が終わる。僕らは幸い、元の町から滞在延長を許されて、以前と同じように働いている。それぞれに職は違うが、同郷の縁だ、ときどきは集まって酒を飲む機会があった。その席で、酒に酔った仲間がひとり、いきなり長々と語りだしたことがある。
「そういえば、あの山のヘンな祠、覚えてるか? ほら、間違ってた古い地図な、用意したの俺だったろ。貸してくれたばあちゃんに文句言ったらさ、ばあちゃんもこの地図は隣ん家のじいさんから貰ったんだって言うじゃないか。私らは町から出ない、地図が間違ってても知る訳ない、って、もう、ひどいだろお? で、腹の虫が収まらないから、隣のじいさんのとこに行った訳よ。ふっるい薬屋でさあ。じいさんじいさんこの地図どうなってんだって言ったらな、じいさん、懐かしそうな目で祠のこととか村のこととか語りだしちゃってさ、もう大変だったよ。帰るに帰れないし、勘弁してくれって言いたいのを何度こらえたか! ご老人を敬った俺を誰か誉めてくれ!」
 みんなはただ笑っただけだったが、僕は妙に気になって話の詳細をせがんだ。あの小さな祠と、陶器の竜が、僕の心にはずっと引っかかっていたのだ。彼はさんざ面倒くさがって、そんなの忘れたお前が実際に聞いてこい、の一点張りだった。
 僕はそうすることにした。忙しい修行の合間を縫って薬屋を訪ねる時間を作るのは難しく、夏の終わりまで掛かってしまったが。
 夕暮れに赤く染まった道を、僕は薬屋へと急いだ。蝉の声はとっくに遠ざかり、草葉の陰で小さな虫たちが鳴いている。風には僅かな冷たささえ感じられた。
 薬屋は細い路地にあった。とても小さな店だった。壁には隙間が目立つし、戸も壊れたっきりなのか、麻布が一枚垂れ下がっているだけだ。話を聞いていなければ、ここが薬屋だとは分からなかっただろう。僕はそっと布を持ちあげて、暗い店内に顔をつっこんだ。
「もし。ごめんください……」
 薬の瓶と、薬草の束の間で、目がぎょろりと動いた。
「今日はもう閉めるんだがね」
 薬草に埋もれかかっている小さな老人が不機嫌そうに言った。
「ご店主ですか。その、今日は買い物じゃないんです。お尋ねしたいことがあって」
 僕はちょっとばかり怯んだものの、せっかく来たのだ、思いきって店に踏みこんだ。老人は咳払いし、机に肘を立てて僕をじろじろと見た。
「なんだね。そも、誰だいお前は」
「放浪職人の者です。しばらく前から、この町にお世話になっています」
「ほう。何の職人か」
「陶工をやっています」
「ふむ。で、陶工見習いが、こんな場所に何用か」
「あの廃れた山道で、小さな竜が祀られているのを見たのですが」
 老人の目が僅かに大きくなった。僕は先を続けた。
「謂われが気になっています。あなたが何かご存じらしいと職人仲間から聞きまして……お話を伺えないかと」
「……これは、これは。珍しいこともあるものだ」
 老人は懐から葉筒を取りだし、口に咥えた。火をつけるつもりはないらしく、そのまま喋りはじめた。
「そのへんに座って構わんよ。さてなあ。これはわしが、こんな小さな頃に、死ぬ寸前のばあさんから聞いた話でな。ばあさんはひいじいさんから聞いたと言っていた。いつのことだか検討もつかん。少なくともこの町が作られるよりも昔から、祠はあったそうだ」
 老人は僕にぐっと顔を近づけると、低い声で囁いた。
「昔、あの山には竜が縛られていたのだよ。いや、正しくは、人に呪われ、竜の身から墜ちた、竜の姿をしているだけの何かが。山道の先にはかつて小さな村があり、竜の怒りをなだめるため、村の娘を何百年も生贄に捧げつづけていた。しかし、ある時を境に、竜は消えた。村もなくなった。あの祠は、竜を忘れぬようにと、村の生き残りが作ったものらしい」
 老人が僕を見る。彼の黄ばんだ歯の隙間から、酸い匂いがこぼれていた。
「信じるかね?」
 僕はかなり言い表しがたい表情をしていたと思う。迷ってから、結局は正直に答えた。
「いいえ」
「そうだろうとも。わしも信じてなぞいない。竜なんぞ、歌や伝説の中の生きものだ。……だがなあ、この物語に歌われる竜の姿が、あまりに美しくてな。花嫁の生き方が、あまりにも壮絶でな。忘れられなくなってしまった。なぜ皆あっさりと忘れられたのか、わしは理解に苦しむ」
 老人は立ちあがり、茶を淹れて戻ってきた。山で採った香木を砕いて混ぜてあるそうで、明るい橙色の水面から甘く香ばしい匂いが立っていた。口をつけてみる。柑橘の爽やかな味と、微かな辛みがぴりりと舌を刺した。
「ルガ茶だ。疲れが取れるし、頭がはっきりする。さて、わしは今夜、自分から話を聞きにきた酔狂なお前に、長々と、気が済むまで物語を語っても良いんだな? 居眠りなどしたら許さんぞ」
 ははあ、と僕は思った。例の仲間に話を聞き流されて、鬱憤が溜まっていたのだろう。僕は覚悟を決めた。少しくらいの寝不足は仕方がない。

そして、老人は語った。囚われの竜、そして一人の花嫁のことを。

僕は未だに忘れることができない。
 一人の竜、そして野火のように美しい花嫁のことを。

竜の花嫁

第一章 嫁入りの日

首筋がひやりとした。
 ぴんと張った黒髪の、うなじのすぐ傍に刃が入る。ユン婆の手はまったく躊躇わなかった。上向けた刃で、ざりざりと花嫁の髪を切り落としてゆく。
 昨日まで、村の誰よりも髪が長く、誰よりも乱暴で、誰よりも嫌われていた女は、今、無言で板間に座していた。洗い晒した麻の着物から覗く肌には、てんてんと青あざが散っている。力の限りに暴れ、抵抗した彼女を、村の男たちが取り押さえた時の傷だった。花嫁を囲む女たちは、また彼女が暴れ出したらどうしようかと、緊張と恐れを顔に滲ませながら、板間へ落ちてゆく髪をじっと見つめていた。
 女の一人が、ふと口に出した。
「切り揃えなくて良いのかい」
 ユン婆は、ちょっと視線をあげただけで、何も言わなかった。返事の代わりに、花嫁の髪の最後の一房を絶ち落とすと、手早く絹の紐で結んだ。髪に呪われないためのまじないだ。花嫁はそれを横目で見て、鼻で笑った。
「どうせなら丸刈りにすりゃあいいのに。これじゃあ唯の馬鹿みたいだ」
「そうさな」
 ユン婆は笑わなかった。花嫁を囲む女たちは笑えなかった。
「婿殿は髪型なんぞ気にせん。喉に引っかからなきゃあ十分じゃ」
「じゃ、やっぱり丸刈りの方がいいんじゃないか。これ、絶対、チクチクするよ。喉越し悪そう。刈っちまえよ」
「お前の髪ごとき、何も感じないだろうさ。長い髪は牙に絡まるから切らなきゃいかんがね」
 花嫁は鼻を鳴らした。嘘だね、と声に出さず唇を動かす。女たちはこの切りっぱなしの髪を見てさぞ胸がすっきりするだろう。
 板間の戸口に、使いに出ていた子供が顔を出した。
「村長さんが来たよ。お嫁入りの外套、できたって!」
「そうか。ユギは来てるかい」
「ユギさん? どうかなあ、見かけなかったよ」
 ユン婆は、呆れと諦めの混じった溜息をついた。
「呼んできとくれ。外套を着せるのは花嫁の母親がやらなきゃいかん」
 花嫁は即座に言った。
「会いたくないんだけど」
「嫁入りの決まりじゃ」
 座したまま、花嫁はユン婆を睨んだ。ユン婆は両目をぎょろりと動かして花嫁を見返した。目は、黙れ、と告げていた。
 部屋が静まりかえると、外の喧噪がじわりじわりと滲みこんできた。花嫁の家から、花婿の元まで続く花道を、男たちが総出で作っているのだ。乾いた土に木杭を打つ音、吹き鳴らされる古い笛の音、蝉の声は、掻き消されて聞こえない。キーン、キン、カーン、と石を叩く槌の音は、山中へ向かう嫁入り階段を直している音だろう。
 ユギは——花嫁の母親はなかなかやってこなかった。やがて沈黙に耐えかねたのか、この部屋で一番年若いナラが、居心地悪そうに身動きをした。彼女はまだ少女と呼べるような年頃で、嫁入り準備の経験も知識もほとんどなかった。
「ねえ、ユン婆さま。どの嫁入りでもこうしなきゃいけないの?」
 女たちの肩が強ばった。花嫁が素早く口を開いた。
「まさか。もちろん、こんなの、私だけさ。髪なんか切るのも、殴られるのも、こんな風に取り囲まれるのもね!」
 花嫁がそれ以上を怒鳴る前に、ユン婆はぴしゃりと言った。
「黙れ、竜の花嫁《アー・ジャ・ランタ》」
「……っ、やめてよ。その呼び方。反吐が出る」
「おまえは既に人ではない。身を禊ぎ、髪を落とした。人としての縁も名も、もはや切られた。おまえは竜《アー・ジャ》のものになった。竜の花嫁《アー・ジャ・ランタ》は、これよりのお前の名であり、すべてだ」
 ユン婆は、青ざめて震えているナラにちらりと目をやって、低く言い足した。
「ナラにあたるな。馬鹿者」
 さらに怒号を重ねようとしていた花嫁は、ぐっと唇を噛んだ。俯いた。
 外が騒がしくなった。ユギの掠れた声が聞こえる。嫁入り外套が到着したのだ。母から娘へと贈られる外套には、本来、長い時間をかけて綿密な刺繍が施される。しかし、戸口に現れたユギの手にある外套には、僅かな縁取りが刺繍されているだけだった。ユギは花嫁を見ようとせず、花嫁もまた母から目を逸らしたまま、蔑むように笑った。良い死に装束だ。
 着物を脱がされ、裸身の上に外套を纏わされる。髪には花が一厘挿された。靴と化粧は許されなかった。竜に嫁いでしまえば、そんなものはもう必要がない。
 やがて花嫁の支度が整うと、男たちは笛の音を高く吹き鳴らした。
 正午の太陽に焼かれた影が短く黒々と地面に落ちる。幼い者は手を引かれ、歩けない者は背負われて、村中の人間が嫁入り行列に加わった。行列はゆっくりと山を目指した。華やかな楽の音を引きつれて歩きながら、誰もが無表情だった。悲しげな顔の者さえいなかった。花嫁は行列の真ん中にいた。すこしでも冷たい草の上を歩こうと、俯いたまま進んだ。からからに乾いた土は、裸足で踏むには熱すぎる。道ばたの草はほとんど枯れていて、あまり役には立たなかったのだが。
 ひどい夏だった。稲は穂を出せないまま萎れていた。なんとか田に水を入れても、すぐ湯に変わってしまうのだ。森の木々にも力がなかった。
 村人たちが、木立の奥に見える川を指さして、ひそひそと囁きあう。
「見ろ。ジジ川が」
「……こりゃ、また、低くなったねえ」
「この天気があと十日も続いてみろ、もうおしまいだ」
「なに、三日も辛抱すれば大丈夫さ。すぐに雨は降る……」
 花嫁はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。聞こえないとでも思っているのか、聞かせないようにするつもりがないのか。こんな奴らのために竜に嫁がされるのだと思うと、吐き気と苛立ちで頭がくらくらした。
「止まれーッ」
 列の先頭で村長が叫ぶ。嫁入りの行列は、村境へと差しかかっていた。
 山道を横切るようにして、差し渡された三重の縄。ここが境界線だった。ここより先は、人の域ではなく、竜の域となる。災いが境を越えて村に入りこまないように、縄にはいくつもの魔除けが結びつけられていた。
 行列が二手に分かれ、村長がやってきた。村でもっとも屈強な男たち四人を後ろに従えている。
「ここより先は我らだけで進む。よもや逃げようとは思うな」
「はあ」
 花嫁は丸腰だ。嫁入り外套の他には何も身につけていない。そんな女一人に対して、男五人とは。
「古くからの盟約に従い、おまえを竜に嫁がせる。おまえは竜の花嫁《アー・ジャ・ランタ》として、身をもって竜の怒りを鎮め、この地に——」
「しつこいな。もういいよ、何十回も聞いたんだ」
「……なら良い」
「村長、あんた、登れるの? この先?」
 花嫁は浅く笑いながら村長を見下ろした。村長の背は重い稲穂のように曲がっているのだ。村長は眉をしかめたが、何も言わずに踵を返した。花嫁の後ろに男が二人、さっと並んで、逃げ道を塞いだ。
 こいつらは馬鹿だ、と花嫁は笑った。逃げられるはずがないのに。そんなことをすれば、この場にいる村人たちがいっせいに花嫁を取り押さえるだろう。
 花嫁は境界の縄をくぐった。ふりむいて、呪いの言葉のひとつやふたつでも吐いてやろうかと思ったが、唇を噛んで耐えた。惨めになるだけだ。
 山の勾配は一気にきつくなり、花嫁の足はあっというまに傷だらけになった。こんな山を裸足で登れという方がどうかしている。小石や鋭い枝を踏むたびに、花嫁は舌打ちして山を罵った。真っ先に音をあげたのはやはり村長で、男たちは交代で村長を背負った。
 最後に人が通ったのはいつなのか、道はところどころ崩れて、木々に呑みこまれていた。途絶えている所もいくつかあった。鋭い岩ばかりの崖を登るときには、花嫁の足ではどうしようもなく、引き上げてもらわなければならなかった。
 さすがに息があがり、花嫁は土に片膝をついて、ぜいぜいと息を吸った。喉が痛いほどに乾いていた。
「歩けるか」
 花嫁を崖上に引きあげた男が、そっけなく訊いてくる。彼はナラの兄で、名をサジといった。返事のかわりにサジを睨みつけて、花嫁は立ち上がった。両足がじくじくと痛んだ。足裏の傷口に、小石や土が食いこんでしまっていた。
 他の男たちは、村長を崖の上へ押し上げようと、三人がかりで奮闘している。花嫁を見張っているのは今やサジだけだ。それなのに、この足では走ることもできない。
「雨なんぞ」
 花嫁は低く唸った。
「雨なんぞ絶対に降らせん」
 サジは怯んだようだった。体ばかり頑丈で、力もありながら、臆病な若い男だった。花嫁は村の人間はみんな大嫌いだったが、この図体のでかい弱虫は特に嫌いだった。
「山も死ぬぞ」
 サジはぼそりとそう呟いて、自らの着物の裾を細く裂いた。 
「足に巻けよ。おまえが歩けなくなったら、みんな困る」
「へえ。だとしても、引きずってでも竜のとこに連れていくんだろう。私としてはその方が楽でいいね」
「引きずるのも大変だ。俺はいやだ。おまえに噛まれたくない」
 裂いた布地を花嫁に放り投げて、サジは溜息をついた。花嫁はしばらくサジを睨みつけていたが、痛みにはかえられない。おとなしく、両足に布地を巻いた。
「ううっ。ひどい道だ。先代を恨むぞ」
 村長を背負った男たちがようやく道をあがってくる。
「竜の巣まで、あとどれほどだ、村長」
「もうすぐだ」
「さっきももうすぐだと言ったじゃないか」
「岩が多くなってきたからな。もうすぐ洞窟があるはずだ。岩の洞窟だ。その先に、竜の居所がある」
 そのとおり、洞窟はほどなく見つかった。村境と同じように、三重の縄が入り口に張られている。しかし縄は古く朽ちていて、今にも切れてしまいそうだった。
「こりゃあ変えなきゃいかんな……。前の嫁入りはいつだったんだ」
「わしが子供のころだ。もう七十年は前になるだろう。さ、いいからとっとと松明を作れ。洞窟は一本道だが、短くはないそうだ」
 目前に黒々と口をあけた洞窟を、花嫁はじっと見つめた。かつての花嫁は、どんな女だったのだろうと思った。自分と同じように、村から爪弾きにされた人間だったのか。それとも、村人たちに泣く泣く送り出され、使命を感じながら洞窟をくぐった、そんな立派な人間だったろうか。
「行くぞ。お前たちは笛を。竜に、花嫁の到着を知らせねばならん」
 そもそも竜なんて本当にいるのだろうか?
 洞窟の壁に、笛の音が細く高くくりかえし反響し、消えていく。その矢先だった。暗闇の奥からぬるい風が吹いたかと思うと、ぐ、がぁああああん……と、雷鳴とも地鳴りとも異なる声が轟いた。全員が竦みあがって、その場に立ち止まった。眠りを乱されたこうもりが頭上を激しく飛びかった。
「……村長。あれが、あれが竜ですか」
 村長の腕にすがりつくようにしながら、サジが呻いた。
「ああそうだ。あの声を、わしは、子供のころに、村にいながら聞いたのだ」
「どれくらい大きいんです。俺たちまで食べたりしないでしょうね」
「わしは村にいたと言ったろうが! 見たことはない。ただ、聞いた話では……いや、恐ろしくとんでもなくでかかった、としか聞いてないな……。なに、心配するな、わしらが行くのは洞窟の出口までだ。その先を歩むのは、花嫁一人だけだ。さあ、とっとと行かねばならん。婿殿がお待ちかねだ」
 松明をふりまわしながら、村長はすたすたと先へ歩いてゆく。
 花嫁は動けなかった。今まで、ぼんやりと、どこか他人ごとのように眺めていた花嫁の意味が、つまりは死が、花嫁の鼓膜を打ちのめし、両足を地面に縫いつけていた。
 あの声が、私を喰うのだ。
「おい! 早く来い!」
 村長が怒鳴る。男たちは花嫁の両脇を掴み、無理やりに引きずった。
「嫌だ……なんで、なんで私が! おまえらが死ねよ! 嫌だ死にたくない放して放せよ、でなきゃ殺してやる——!」
 花嫁はどうっと地面に倒れた。耳の中でがんがん音が鳴っている。殴り飛ばされたのだと知る前に、体に男がふたり馬乗りになり、両腕を背中で縛りあげられた。花嫁は声の限りに怒号を上げたが、口に布を噛まされて、言葉を封じられた。
「何もそこまで——」
「そこまでだって? 竜の機嫌を損ねたらどうするつもりだ、わしには責任がとれん! こいつを嫁がせて雨が降らなきゃ、村は全員が飢え死にだ!」
 ——ああ、そういえば、おまえが花嫁だと唐突に告げられた時も、こうして暴れて、そしてさんざ殴られて、諦めたんだった。硬い岩の地面に打ちつけたはずの肩はしびれて感覚がなかった。
 男たちは花嫁を立たせ、引きずりながら、洞窟を進んでいった。あの轟きのあとでは洞窟の静寂さえも恐ろしく、誰もが足を速めてがむしゃらに進んだ。花嫁は岩壁に爪を立てて抵抗しようとしたが、何にもならなかった。
 やがて暗闇はすこしずつ明るくなり、大きな岩を曲がった先に、出口の光が差した。
「さあ、あの先だ!」
 村長が叫んだ。花嫁は悲鳴を上げたかったが、口を塞がれていて叶わなかった。ただ目を細め、殺意をこめて行く先を睨んだ。恐怖の感情は今や苦い怒りに変わっていった。
 絶対に雨なんぞ降らしてやるものか。光の向こうに竜が待ち受けているようにと、花嫁は願った。男たちが怯んだ隙に逃げだしてやる。そしてこいつらが私の身代わりになれば良い。
 しかし、眩しい光に目が慣れ、外の様子が分かるようになると、花嫁は一足ごとに青ざめていった。
 出口には、またもや三重の縄が渡されていた。祭具がいくつか吊り下げられているようだが、逆光で真っ黒な影と化し、判別がつかない。そして縄の彼方に見えるのは、ただ青一色。雲一つない夏の空。出口の向こうには、地面がなかった。張り出した岩棚が空中でぷつんと途切れていた。花嫁は一瞬で理解した、これは出口などではない、崖の中腹に開いた死出の穴だ。
「楽の音を! 花嫁の到着を竜に知らせるのだ」
 村長の声に男たちが我に返り、笛を手にした。異なる二つの調べが洞窟に反響し、一つの唄として完成する。花嫁は後ずさった。笛を持たない男ふたり、そして村長が、しっかりと逃げ道を塞ぎながら、花嫁に向かってにじりよってくる。花嫁の両目が燃えあがり、身を低く屈めた時、男たちは小刀を抜いた。
「竜の花嫁。恨むなとも許せとも言わぬ。だが、実の父を殺してしまったお前を、今日まで村に置いてやったのだ。その恩のため、村の幸いのため、竜へ嫁ごうとは思えぬか。我らを救えるのはおまえだけなのだよ、どうか竜の雨を——」
 花嫁は突き飛ばされたように突進した。ひとりの手から小刀を跳ね飛ばし、ギャアッと悲鳴があがるのと、村長が「やむを得ん」と叫ぶのが同時だった。
「突き落とせ!」
 為す術もなかった。顎を強く殴られ視界が霞んだ瞬間だった。三人の男の手が小さな花嫁の体をむんずと掴み、外へと投げ飛ばした。
 花嫁の体は岩棚の縁で一度だけ弾んだ。縁を掴もうとしたものか、縛られたままの両手でもがこうとして、そのまま落ちていった。落ちる途中で口に詰められた布が外れたのだろう、かきむしるような金切り声が遙か下方から細く響き、男たちは耳を塞いだ。ただ村長だけが、岩棚に膝をついて、花嫁の行く末を見つめていた。
 やがて水音。切り立った崖の下には、深い池があった。この干魃の夏であろうと水をたたえたままの、竜の池だった。青い水面に水柱があがり、波紋が生じ、ゆっくりと静まっていくまでの長い時間、村長は決して顔をあげようとしなかった。
 サジがそろそろと村長の隣に佇み、崖下を覗きこんだ。
「……竜は見えますか。本当に竜は、あの花嫁を受けとったでしょうか」
「うむ……見ろ」
 村長は、森の一点を指さした。
 池のほとりで、小山とも見まがう大岩が、ゆっくりと動いている。
 サジはひっと悲鳴をあげて仰けぞった。
「村長、戻りましょう。いくら——あいつでも、竜に喰い殺されるところを見たいとは思わねえ。あとは竜が約束を守ってくれれば、それでいいんだ」
「大丈夫だ。竜は必ず約束を守る。そういう風にできた生きものだ。村は生き延びる。……やれやれ。わしはすこし疲れたよ」
 男たちはゆっくりと引き上げていった。
 花嫁に弾き飛ばされたはずの小刀は、どこにも見つからなかった。

第二章 金の瞳、遠雷の声

水面に叩きつけられた時、世界は一度、真っ暗になった。それが良かったのだ。気絶していなかったら、嫌というほど水を飲んで、腕を縛られたまま泳ぐことも叶わず、竜に喰われる前に溺れ死んでいただろう。
 花嫁は池のほとりに打ち上げられていた。冷たい水が体を洗い、魚や木の葉や水草の切れっぱしが足に絡まっては離れてゆくのを、うつぶせのままぼんやりと感じた。足の裏がひりひりと痛い。痛みに意識を引き戻されそうになり、花嫁は眉をしかめた。目を覚ましたくなかった。悪夢の方がまだましだ。
 地面が震えた。頬にびりびりと鈍い振動が伝わって、花嫁を覚醒させた。花嫁はガバッと顔を上げて、耳に神経を絞った。腹を揺るがすような、低い地響きが聞こえる。
「……竜だ」
 足音はまだ遠いように思えた。逃げなければ、と花嫁は起きあがろうとした。両腕が縛られていて、肘をつけない。体のあらゆる関節が軋み、咳こんだ。苦い水を吐いた。
「くそっ」
 体の力が抜け、水の中にばしゃんと倒れてしまう。花嫁は歯ぎしりをしながら、もう一度起きあがろうとした。足をめちゃくちゃにばたつかせ、水を跳ね散らした。頭上の枝が、ばきばきと音を立てた。
「……これは、これは。随分とでかい魚だな」
 頭上から降ってきたのは、轟く雷のような唸り声、そして紛れもなく人の言葉だった。だが、人は決してこんな声を持たない。花嫁は頭が真っ白になり、のろのろと視線を上げた。
 巨大な竜の頭が、木々の天井を突き破っていた。金色の目が瞬きし、蛇のような瞳孔がひらめく。あとすこし首を伸ばすだけで、竜の牙はあっさりと花嫁に届くだろう。何の感慨もなく、ただ、終わりだと悟った。
「ふむ。あいつら、まだ私を覚えていたか。執念深いことだ」
 竜はなにやらぶつぶつと呟いている。花嫁の耳には、もはや何も聞こえなかった。花嫁はゆっくりと、ゆらめくように上体を起こし、低く掠れた声で唸った。
「あのさ……。私を喰うなら、あんた、絶対に、雨なんか、降らせないでよ……」
「おまえなんぞ喰わんよ」
「命乞いなんかしない、ただ……あの村に雨を降らせないって約束してよ。そしたら大人しく喰われてやるから」
「話を聞かん娘だな。私は喰わんと言ったのだ」
「……なんだって?」
 花嫁はぎゅっと眉をしかめた。意味が分からなかった。この竜は人の言葉を間違って使っているのだと思った。
 竜はまるで笑うように鼻の穴を膨らませ、熱い息を吹いた。
「私はもう人間を喰わない。しかし約束は果たそう。おまえは雨を呼ぶために捧げられた、そうだな? 三日のうちには降らせてやる。安心して村に帰れ」
 そう言うなり、竜はぐうっと首をもたげ、花嫁の視界から消えてしまった。ばきばきばきと音を立てながら折れた枝々が降ってくる。竜が顔をつっこんだ木立の天井には、大穴が空いていた。
 花嫁は何が起こったのか全く理解できなかった。池のほとりにぺたんと座りこんだまま、竜の言葉を反芻しようとした。頭と心が痺れたようになり、考えがまとまらない。分かっているのは、竜に「喰わない」と宣言されたことだけだった。
 ふと、水草の間で何かが光った。花嫁はゆっくりと立ち上がり、縛られた腕で慎重にそれを拾いあげた。落ちる間際に跳ね飛ばした、小刀だった。一緒に打ち上げられていたのだ。とたん、凪いでいた心に、ひどく苦い怒りがどっとよみがえった。
「……生贄の必要なんかなかったと?」
 ならば、なぜ、私はここにいるのか。
 花嫁は小刀を逆手に持ち、手首が傷つくのも構わずに、腕の縄をぶちぶちと切り落とした。そして自由になった腕を思いきり振りかぶり、小刀を木の肌に叩きつけた。
 怒号を轟かせ、喚きちらし、嗚咽をあげながら、花嫁は若いブナの木を殴りつづけた。木はびくともしなかった。やがて花嫁はずるずると地面に崩れ落ちて、そのまま眠ってしまった。両手の皮はめくれあがり、滲みでた血が、木の肌に赤く線を引いていた。夢も見ない、疲労にすべてを飲みこまれた眠りだった。

その日の夜、ふもとの村人たちは、山の中腹から天へ向けて吹きあがる、真っ赤な炎の柱を見た。そして、山を根本から揺るがすような地響き——竜の遠吠えを聞いた。村人たちは恐ろしさに身を寄せあい、あれは竜からの返答か、それとも怒りか、喜びの声か、と囁きあった。
「ナラ姉ちゃん。うるさくて眠れないよ」
「そうだね……でも寝ないと駄目だよ。本当に、竜がやってくるかもしれないじゃない」
「やめてよ。ますます眠れないよ」
 昨日までは、どこか半信半疑で聞いていた「夜更かしする子は竜に喰われるぞ」という呪文が、今夜はひどく恐ろしいものに思えた。ナラは小さな弟たちをなんとか寝かしつけてから、そっと外へ出た。
 村長の家には明かりが煌々と灯っていた。村中の大人たちが集まって、嫁入りの報告に耳を傾けているのだ。村長とともに嫁入りを見届けたサジ兄は、きっと今頃、さんざん質問責めにされているだろう。早く帰ってきてほしかったが、期待できそうになかった。
「あっ」
 山の中腹で、再び火の柱が噴きあがった。山から空へ流れる赤い流星のようだ。ナラはいつのまにか道を外れ、ふらふらと山の方へ引き寄せられていた。村の外れには全く人の気配がなかった。月の光に照らされて、乾いた田畑が広がるばかりだ。田畑の縁には森が迫り、フクロウが鳴きかわしていた。
「ナラ!」
 唐突に頭上から声が振り、ナラはびくっと身をすくませた。
「ここだ。やぐらの上だよ。あがって来なさい」
 いつのまにか、村の縁、山を臨む見張りやぐらが立つ一角まで来てしまっていた。ナラは慌ててやぐらに駆けより、はしごを上った。
「ユン婆さま! どうしてここに」
「それはこちらの台詞だ。お前なんぞはとっくに眠っているべき時間だぞ。こんな村はずれまで、若い女が一人ふらふらと出歩いとるとは」
「その、ごめんなさい。竜の声が、すごくて、眠れなかったもんですから。ちょっと外の様子を見るだけのつもりだったんですけど……いつのまにか……」
 ユン婆は溜息をつき、しばらく黙っていた。疲れているように見えた。
「あの……、ユン婆さま。大丈夫ですか」
「ナラ、この光景をしっかり覚えておいで」
 ユン婆の骨ばった手が、山の中腹を指さした。
「あの竜を。我らが縛った守り神を。あの竜の怒りを、しっかりと覚えておいで。そして我らが送りだした花嫁の怒りも、死ぬまで覚えておくのだよ」
「……」
 花嫁の名前が喉まで出かかったところで、ナラは慌てて口を押さえた。彼女の名は、もう村の中で口にしてはいけないのだった。
「……覚えておきます。でも、竜の花嫁のことは、忘れてしまうかもしれない。名前も、きっと」
「それでも良いよ。子供らは、今日のことを覚えていられない。大人たちは先に死んでしまう。花嫁の嫁入り支度を目にした女たちの中で、一番に若いのがお前だね、ナラ。お前は一番先の未来まで、竜と嫁入りのことを伝えていかなければならない」
「ユン婆さまは、前の花嫁さまの嫁入りも見たのですか?」
「ああ、見たとも。今回と大して変わらん、大修羅場だったさ」
「どんなお人だったのですか」
「……ほとんど話したこともなかった。私はそのとき、九つだった」
 ふと、ユン婆は言いやめて、やぐらから身を乗り出すようにした。ナラも同じ方向へ目をこらした。細いあぜ道を辿って、誰かがふらふらとこちらに歩いてくる。ユン婆が呻いた。
「やれやれ。竜の火は、女を呼ぶのかね。ナラ、ユギを迎えに行ってくれ。そのまま家まで送ってやりなさい。私はここで、これ以上、変な気を起こした女が山へ迷い込まないよう、朝まで見張ることにしよう」
 ナラは頷き、急いでやぐらを降りた。手を振りながら走った。
「ユギさあーん!」
 大声で何度か叫んで、ようやっとユギが立ち止まった。こちらを見つめたまま、ぼうっとしている。娘を竜の元へ送りだした母の顔は、月明かりでも分かるほど真っ青で、自分がどこを歩いているかもよく分かっていないようだった。
「ユギさん、帰ろう。こっちは危ないから」
 手を引くと、ユギは大人しく体の向きを変えて、ついてきてくれた。ナラはユギがあまりに気の毒で、胸が痛くなった。夫も亡くして、娘もいなくなって、この人は、本当にひとりぼっちなのだ。
「ねえ、今夜はうちに泊まっていって。弟たちが竜を怖がるから。ユギさんがいてくれたら、安心すると思うの」
 ユギはうっすらと微笑んだが、何も言わなかった。
 村へ戻る道々、一度、竜が大きく吠えた。ナラは思わず耳をふさいだが、ユギはじっと聞き入るように山を見上げた。竜の轟きが山々にぶつかって幾重にも反響し、ゆっくりと消えていく。ふうっと息をついて、ユギは呟いた。
「すごい声ね」
「これじゃとても眠れないなあ。弟たちも起きちゃったかも」
「あの子をもう食べたのかしら」
 ナラはあっけにとられてユギを見た。ユギは、泣くでも笑うでもなく、ただ気の抜けたような顔で、ぽつりとそう言ったのだった。
「……その。それは、どうかな、もしかしたら、まだ」
「早く雨が降るといいわね」
 ユギが、やっと思い出したように笑顔をうかべる。ナラは口をつぐみ、微笑みかえすしかなかった。
 空には膨らんだ月が輝き、雲の気配はなかった。ナラはユギを半ば引っぱるように、家への道を急いだ。村はまだざわざわと浮ついていて、村長の家からは、ときおり、笑い声さえ響いた。花嫁が竜に嫁いだことを——彼女が竜に喰われたことを、誰も疑わなかった。

花嫁が目を覚ましたのは、次の日の夕暮れのことだった。
 花嫁は、橙色の木漏れ日をぼんやりと眺め、首を巡らせて上を見た。黒く影になった木の葉の隙間で無数の赤い光が揺れている。風が強かった。葉ずれの音が、ざあ、ざざあと打ち寄せている。花嫁は目を閉じ、まだ夜が明けたばかりなのだと思った。手のひらに緩く力を込めようとして、とたん、激痛が走った。
「……痛、つう」
 べろりと向けた皮に血が滲み、そのまま固まっていたのだ。花嫁は情けない顔で起きあがり、池に向かった。
 池のほとりは静かだった。竜の折った木々の枝がそのまま転がっている。花嫁は目を細め、ゆっくりと辺りを見回した。
「朝……違う。もう暮れ方だ」
 木立の彼方には、見慣れた山の稜線が透けて見えていた。西に広がる広大な尾根だ。山際を赤く染めた西日が、木の合間からまっすぐに差し、水面を輝かせていた。風を受けて細波立つ水面に、花嫁の姿が映る。何気なく目をやって、花嫁はそのまま動けなくなった。
 剥きだしの両足は青あざでまだら、嫁入り外套はあちこちが破れ、擦りきれ、泥にまみれている。髪に挿されたはずの花はとっくにどこかへ行ってしまっていた。視界が霞んでいたのは目の際が腫れていたせいだ。唇は切れ、髪もぼさぼさ、まるで幽霊のように、眦を吊りあげた自分が水の中から花嫁を睨みつけていた。花嫁はとっさに首筋に手を当てた。指先に脈動を感じる。——大丈夫だ、まだ、ちゃんと生きている。
「……まだ、生きてる」
 声に出して、自分に言い聞かせようとした。それはとても不自然なことのように感じられた。
「なんで生きてる」
 だらりと両手を落とし、花嫁は、森に目を向けた。昨日、竜の頭が現れた場所。折られた枝がまだ生々しく散乱し、枝葉の天井には大穴が空いている。花嫁は走り出していた。
 最後の西日が山の向こうに消え、森は急速に闇に包まれつつあった。道なき夜の森に踏みこむなど、正気の沙汰ではない。花嫁は森の恐ろしさをよく知っていた。けれど今は、脛を傷つける下草も、髪にからまる蔓も、道をふさぐ灌木も、獣たちの唸り声も、花嫁を止めることはできなかった。
 森には竜の痕跡がありありと刻まれていた。根こそぎに倒れた山桑の木、真ん中からぼきりと折れた椎の木、踏みつぶされた倒木。これなら迷う隙もない、と花嫁は思った。森のあらゆるものが、竜の元へ案内してくれるだろう。
 その油断が、足下を留守にした。あっと思う間もなく、花嫁は急な落差を滑り落ちた。
「しまった……」
 慌てて元の場所に戻ろうとしたが、深い闇の中ですぐに方向感覚を失った。目印となる竜の痕跡も、このあたりには見あたらない。花嫁は首筋にじっとりといやな汗を感じた。逸る鼓動を押さえ、暦を数える。今夜の月は日没からそう立たぬうちに上がるはずだ。そうなれば、枝葉の隙間から月明かりが差し、獣道のありかを照らし出してくれる。方向も把握できる。花嫁は木の根本にうずくまって、深呼吸を繰り返した。
 やがて月が出た——森がうっすらと明るくなった。花嫁が注意深く立ち上がった時、突然、轟くような雷の音が降った。花嫁はとっさに空を仰ぎ、白く輝く月を見た。木立の隙間から見る空には、ひとかけらの雲もない。これは雷ではない、そうだ、この音を、昨日も聞いたじゃないか。
「竜!」
 音が聞こえた方角へと、花嫁は突き進んだ。木の間隔がすこしずつ広くなり、唐突に木立が途切れ、草地が現れた。花嫁は、転がるような勢いで、草地に飛び出した。
 竜はそこにいた。体を丸め、尾を巻きつけて、首だけを空に向かって伸ばしている。竜の頭は、木々の梢の遙か上にあった。大岩と見紛いそうな体には苔や土がまとわりつき、小さな花さえ咲かせ、しかしその下にはびっしりと並んだ鱗が透けて見えていた。首はニレの大木のように太く、大人三人が手を回しても届くかどうか分からない。花嫁は声もなく竜を見つめた。こんな生きものが、山に住んでいることが信じられなかった。
「……なんだ、何かと思えば、昨日の娘ではないか。まだ帰っていなかったとは」
 竜がぐっと首を下げて、頭を近づけてきた。月明かりに牙が光る。——なんて瞳だ。人間の頭よりも巨大な金の瞳に見つめられ、花嫁は立ちつくした。気づけば、喉を震わせていた。
「なぜ、喰わない。私を」
「なぜだって? 娘、おまえは喰われたいのか?」
「違う!」
「……ふむ。聞いていた話と違う、そういうことかね。私は、先代の花嫁を最後に、もう人を喰わぬと決めたのだ」
「なんでだ! それなら、じゃあ、なんで私が、こうして殺されなきゃいけなかった!」
「まだ生きているだろうよ。心配せずともよい、娘。おまえは村へ帰っていいのだ。雨は必ず降らせてやる」
「いいかげんにしろ!」
 花嫁は叫んだ。この花婿が人であれば、殴りかかって首を締めてやりたかった。
「私が死ぬようにと願った、そんな人間がひしめく場所に帰れだって!」
 竜のまぶたがぴくりと動いた。花嫁は拳をぎりぎりと握りしめ、震えながら息を吐きだした。
「違う……もう……いい、そんなことは、どうだっていいんだ。竜、おまえが私を喰おうが、喰わなかろうが、どうでもいい。でも、雨はやめろ。雨を降らさないでくれ。私は、あんな奴らの役に立って死ぬなんて、絶対にごめんだ」
「なるほど。理解した。しかし、すまないな、娘。これは約束なのだ。私は約束を——契約と言ったほうが良いかな、破ることができない」
 花嫁の瞳から力が抜けた。竜はじっと花嫁を見つめ、問うた。
「おまえ、名は何という」
「ない。消えた。竜の花嫁《アー・ジャ・ランタ》」
「では、アージャ。私はおまえを喰わない。村に帰らぬというなら、池のほとりに彼女が暮らしていた穴がある。ずいぶんと昔のものだが、まだ使えるはずだ。ひとまずは、そこで休むと良い」
 花嫁は僅かに眉をひそめた。
「……誰?」
「おまえの先代の花嫁だ」
 竜の口の端が持ちあがり、並んだ牙がぞろりと姿を現した。それが竜の笑顔なのか、威嚇なのか、花嫁には分からない。もう話は終わりだと告げるように竜が首をもたげていく。遠ざかる頭を見上げながら、花嫁は叫んだ。
「おまえは、これまでに何人の人間を喰った?」
 遠雷のような轟き。それは、竜が喉を鳴らすことで立てる、笑い声だった。
「この体の鱗を全て足しても、数えきれぬほどに!」