父が交通事故に巻き込まれて即死してしまった、と病院から呼び出しの電話が掛かってきたのが15分前のことだ。病室には、ベッドが二つ並べられていた。片方のベッドは、私にとっても馴染み深い、真っ白なシーツと清潔な布団、患者に優しいリクライニング仕様のもの。もう片方は、ベッドの枠組みが剥き出しになっており、どちらかと言えば唯の台座に近い。そのどちらにも、父の身体が横たえられているのを、私はしげしげと眺めた。
ドーリィは、その名が表すとおり、人形だった。陽光を反射し、きらきらと輝く化学繊維で作られた亜麻色の髪。唇は柔らかく、指先で触れればしっとりと吸い付くよう。瞳はとても精巧なガラス細工で、網膜における血管一筋一筋まで、丁寧に造り込まれていた。瞬きすら出来た。鼻筋は華奢で、呼吸の度に小さく膨らむ。白い首筋は、声を発すれば震え、撫でられれば赤くなる。指先の関節は全く目立たず、——いや、止そう。彼女の、あまりにも人形離れした美しさは、一言書き記すだけで事足りる。
冷たい風がきんきんと吹き荒ぶ、冬のある夜のことでした。田舎の冬は、風景が息を潜めるかわりに、星が煌々と輝く季節です。けれど、都会の冬は、凍えるばかり、夜空にはぽつりぽつりと、置き忘れたような二つ三つの星しかありません。その寂しさを埋めるように、都会はきらきらと光を灯します。その輝きがさらに星を遠ざけると分かっていても、光が減ることはありません。
あっ、ウィスキー割れた。転倒しながら、里沙はぼんやりと思った。なんてことだ。せっかく奮発して良いヤツを買ったのに。いや、そもそも、こんな年になって玄関前で転ぶとか……! 埃っぽいアパートの廊下に転がってさえいなければ、里沙はそこそこに綺麗で実年齢より数段は若く見える女性だった。だが、長い睫毛も、流行をしっかりと把握した髪型も、シンプルだが手を抜いていない服装も、砂埃にまみれてしまえば一様に魔法が解ける。
遠い未来、水は密猟の対象になった。宇宙に散らばる地球移民の子孫たちが、こぞって母星の水を欲したためだった。数光年の距離を越えて運ばれる地球の水は、たとえつまらない雨水でも、水たまりから掬ったような泥水でも、黄金以上の高値がついた。人工的に生成した水分では駄目なのだ、と彼らは口を揃えて言う。あの青い星、あの小さな青い星を満たしていた水でなければ駄目なのだと。それだけが本当の水なのだと。
骨董品屋の片隅で、わたしはその時計を見つけた。一目で芸術品だと知れた。埃にまみれ、蜘蛛の巣を纏い、それでも輝きを失わずに、ゆっくりと振り子を動かしつづけている。持ち上げてみれば、若い猫のような重みが腕に掛かった。優美な短針と長針を十二色のステンドグラスが彩り、時計盤の円周には飛び立つ鳥の姿が彫りこまれている。それは、こんな小さな町の小さな骨董品屋ではなく、異国のお屋敷か、小国の城に飾られているべき時計だった。
とある高名な作家が死んだ。地獄へ落とされた後、彼に科された刑罰は、火の味を描写せよというものだった。「火の味ですって?」「然り」地獄の官吏は作家の眼前に立ち、厳粛な面もちで頷いた。作家は呆れ混じりの微笑を浮かべた。椅子に拘束されていなければ、この生真面目な官吏の肩を叩き、もっとましな冗談を言うようにと諭すこともできるのだが。
天国の片隅には秘密のプラネタリウムがある。小ぶりなテントの中に設えられた座席の数は全部で六つ、上映回ごとにいつもあっという間に満席になる。プラネタリウムがオープンするのは、太陽の出ている間だけだ。夜明けとともにテントの入り口は開き、日没とともに閉じる。空に星が灯りはじめる頃には、テントは跡形もなく消えてしまう。
胸に抱えたままの兎からこぼれ落ちる血が、腕を伝い、ポタリポタリと落ちつづける。この暑さだ、早く血抜きと、然るべき解体の処理をしなければ、食べられなくなってしまうのに。花嫁は唇を噛んだ。空腹に蝕まれた空っぽの胃が、痛かった。花嫁には分からない。なぜ、あの竜は、私を食べようとしないのか。
寒い日には南国の物語を、暑い日には北国の物語を読みたいと思う。それはごく自然な願望だ。燃えあがる図書館の階段を上へ上へと登りながら、わたしは壁面書架に並ぶ本たちの背を撫でていった。もしかすると人生最後の一冊になるかもしれないのだから、最高の偶然が必要だ。
猫という生きものは、その毛先一本に至るまで、自らが自らの主である。誰の命令も聞かないし、誰の意思も通用しない。たとえ幾万の兵と家臣を従える広大な帝国の王であっても、一匹の猫を足元に侍らせることはできない。人の側が跪いて猫のご機嫌を取るか、殺して楽器の皮にでもするか、それ以外に、猫に言うことを聞かせる手段はない。
千年の昔から聳え続けていた眠り姫の茨の城が、過日の地震でとうとう崩壊したので、僕らの国は空前の観光ブームに見舞われていた。近隣諸国からの純朴な観光客はもちろん、歴史学者、民俗学者、考古学者、魔法学者、各国首脳、各国王家の末裔、どこぞのお忍びの王女様までが、現在に息づくお伽噺の化石を見ようと詰めかけた。
昨日伐採した梅の木が、変わらず庭に立っている。丹羽《にわ》は己の目を疑い、門扉に手を掛けたまま、夕星の灯る薄闇に滲み出る梅の枝振りを数えた。それは見紛うはずもない、丹羽が生まれる前からここにいた樹齢四十三年のあの梅と、そっくり同じ形だった。
夜が砂丘を登ってくる。追いつかれる前に登頂しようと、私は足を速めた。夜の歩幅は広い。高さ数百メートルに及ぶこの大砂丘も、まもなくすべて夜に沈むだろう。一足ごとに、美しい風紋を踏み崩す。安定を失った砂は音もなく斜面に沿って流れ落ちる。初めは急速に、やがて緩やかに、遥か下まで。それは小川のようにも見え、けれども入日の深い茜に照らされた今は、むしろ出血を連想させた。一呼吸のあと、振り返って見下ろせば、砂漠の底は既に夕闇に包まれていた。
妙に温かな洞窟だった。外は吐息が凍る寒さだというのに、春の夜のような暗闇がひたりと肌に触れてくる。緩く傾斜した滑りやすい地面に足を取られないよう、旅人は洞窟の壁面に手を沿えた。やはり仄かに温かい気がした。カンテラの光輪越しに、空気中の塵がゆっくりと移動するのが見える。洞窟の奥に向かって風が流れているのだ。外気を吸い込むように。吸い込まれるように、と旅人は自らに語り直し、風下へ、洞窟の奥へと降りていった。
周知の事実として、情動は伝染する。だから、彼らの狂乱がいったい誰から始まったのか、今となっては確かめようがないし、仮に分かったところで何の慰めにもならない。もはやどうでもいいことだ。唯の事実として、今このとき、群衆は狂気に呑まれた。人々はあらゆる武器を携え——拳銃、手斧、チェーンソー、猟銃、鉈、鋤、マチェーテ、包丁、納屋から引き出された工具に農具——破壊を尽くしながら一散に路上を駆けた。
ベンチに樹木が座っている。もちろんそんなはずはない。瞬きをして見つめれば、そこに見えるのは一人の青年だ。歩き疲れたように脱力し、膝に乗せたミネラルウォーターのボトルを手慰みに揺らしながら、正面の噴水を眺めている。ベンチはちょうど日向と木陰の狭間にあり、ボトルが角度を変える度、青年の指先に屈折光の淡い虹が散った。
旅先へギターを連れてゆくのが好きだ。それも一人旅のときに。海を見たい気分だった。仕事帰りに思い立ち、その場で宿を押さえた。海沿いにある小さなホテルだ。バルコニー付きのシングルルームが運良くひとつ空いていた。手早く旅支度を済ませ、車にギターを積んだ。日頃弾いているものよりも一回り小さなアコースティックギター。それと、数日分の着替えをおざなりに詰め込んだバックパック。車に乗せるべき荷物なんてこれだけあれば充分で、あとはもうどこにでも行ける。
人間は扉が好きだ。扉の向こうに物語を夢見る。輝かしい夏への扉、魔法の国に通じる衣装箪笥の扉、扉の先にあるかもしれない、此処とは異なるどこかの世界。そんなものは存在しないと分かっていても、夢を見ずにはいられない——いいや、違う、そんなものは存在しないと分かっているから、安心して物語を託せるのだ。もし、万が一、天文学的な確率だとしても、世界に存在する扉のどれかがランダムで異なる場所へ繋がってしまうとしたら、落ちついて風呂にも入れやしない。下着姿でくぐった脱衣所のドアが、真っ昼間のサン・マルコ広場に通じていたらどうする?
廊下の隅っこに、クラスメイトの生き霊がいた。半透明の身体、曖昧な輪郭線。私とおなじ制服の、紺色であるはずのプリーツスカートは水面のように透きとおり、朝の日差しを反射していた。きれいだった。思わず見惚れてしまうほどに。私は彼女と数えるほどにしか喋ったことがなかった。名前はかろうじて分かる、たしか、柳木さん。教室を覗いてみれば、柳木さん本人の姿が見えた。机に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、楽しげに談笑している。顔色も良好、廊下に生き霊を蹲らせているとはとても思えない。
物語は、とうとう最後の一曲に差し掛かった。西日の梯子が降りそそぐ小さな教会の壇上で、ひとりのリュート弾きが、ささやかなアリアを奏でようとしている。その一曲を奏で終えたら、物語には幕が降りる。彼もまた、物語とともに、読者の前から退場する。もし、この物語が書籍として綴られていたなら、残りページはほんの僅か。左手に感じる重みは薄れ、右手にばかり過去が重なり、窓から吹きこむ風のちょっとした悪戯で最後のページの最後の一行が露わになってしまう、そんな地点で、作家は続きが書けなくなってしまった。
透明な街、うつくしい街、ちょうど日付が変わる頃のこと。休日を前に、人々は浮き足だっていた。ショーウィンドウを楽しげに覗く二人連れ、大声で笑いあう仕事帰りの酔っ払い、クラクションに追い散らされる行儀の悪い学生たち。穏やかな夜風がビルとアスファルトと雑踏の匂いを運び去る。群衆の声に掻き消され、足音はよく聞こえないかもしれない。ただ、その音に土の気配がないことだけは分かるはずだ。