呼吸書房

すべての樹木は光|試し読み

以前には、この他人への心配りこそが彼の誇りだった。
フランツ・カフカ『変身』

どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきっとこういうことになる
きみたちとけふあうことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになって遁げなくてもいいのです
宮沢賢治『小岩井農場 パート九』

現在

透明な街、うつくしい街、ちょうど日付が変わる頃のこと。
 休日を前に、人々は浮き足だっていた。ショーウィンドウを楽しげに覗く二人連れ、大声で笑いあう仕事帰りの酔っ払い、クラクションに追い散らされる行儀の悪い学生たち。穏やかな夜風がビルとアスファルトと雑踏の匂いを運び去る。群衆の声に掻き消され、足音はよく聞こえないかもしれない。ただ、その音に土の気配がないことだけは分かるはずだ。舗装された道々に奏でられる無数の声、それは革靴、ブーツ、スニーカー、サンダル、釘を打つように硬質なヒール、ローファー、パンプス、また革靴、履き潰されたミュール、裸足以外のあらゆる足音を、幾千と重ねた声だった。
 こんな心地よい夜に立ち止まっている者は目立つだろう。座っていれば尚更のことだ。ユハは、注意深く脚を揃えて斜めに捻り、往来の邪魔にならないことを願った。そもそも此処は座るべき場所ではない。植えこみの縁石に、彼女は既に四十分も座っていた。電話の向こうで友人が泣いているからだ。
 相槌を打つことが、ユハの数少ない特技の一つだった。たとえ何を考えているか分からない相手であっても、求められている感情の温度だけは、いつも瞬時に把握できた。それは音感のように自明だったので、ユハは一切の躊躇なく、望まれる形に整えた相槌を差し出した。何十分でも、——あるいは何時間でも。
 背中にチクチクと枝葉が当たり、きついパンプスの中で爪先が痛みはじめても、ユハは身じろぎもせず、友人の泣き声に耳を傾けつづけた。注意深く身を縮めていたおかげで、道行く群衆の誰も、彼女の足を踏みつけることはなかった。そうして、長い嗚咽に掠れた友人の声に、ようやく、笑いが混じった。
「ありがとう、ユハ。あなたってほんとに優しいのね」
 あたたかな安堵がユハの胸に満ちた。「そうだったら良かったけど」小さく苦笑を返す。攻撃性や緊張や疲労を一切取り除いた声色に、肯定、喜び、労り、友情を乗せて囁く。
「もう、大丈夫? 眠れそう? ……うん、ちゃんと布団で寝てね。その飲みかけのワインは冷蔵庫にしまって、そう、床で寝るの止めなきゃ駄目だよ。わかった? うん。うん……おやすみ。また明日メールするね」
 通話を終える。こういう場合、普段は二十四時間営業のファストフード店などに入るのだが、今日は移動するタイミングが無かった。終電、と頭の冷静な部分が考える。まだ走らなくても間に合うはずだ。携帯を確認すると、メッセージの未読通知がずらずらと並んでいた。なぜ彼はこんなに心配性なのだろう。メッセージのすべてを眺め、返信を打つ。「今から帰ります。遅くなってごめんなさい」。
 送信する直前で、ぱっと手の中から携帯が消えた。
「やっと追いついた。迎えに来たよ、ユハ」
 懐旧の込もった穏やかな声は、人の携帯をいきなり奪うという場面にはあまりにも不釣り合いだった。ユハは呆気に取られて、いつのまにか眼前に立っていた男を見上げた。ずいぶん小柄で、帽子を目深に被り、表情がよく分からない。シャツの襟元から覗く首筋ははっとする程に細く、幼ささえ感じさせる。男の指先で、ストラップを摘まみ上げられたユハの携帯が振り子のように揺れていた。
 知り合いだったろうか。声に聞き覚えはなかった。誰かと間違えられている訳でもないらしい。ユハはおずおずと微笑を浮かべた。
「ごめんなさい、あまり驚いたものだから。お久しぶりです。前にお会いしたのはいつでしたっけ?」
 男は答えず、ユハの携帯を胸ポケットへ滑りこませて、ゆったりと歩きだした。その動作はとても自然で、違和感もなく、何かが起きていることに道ゆく誰も気づかなかった。ユハも一瞬、理解できなかったほどだった。男は振り返り、不思議そうに帽子を上げてみせた。
「どうしたの。早く行こうよ」
 街の光に照らし出された男の顔立ちは、ユハによく似ていた。まるで弟のように。あるいは兄のように。親戚の誰かだろうか——顔を見てもさっぱり年齢が分からない——華奢な三十代のようにも、大人びた十代のようにも見える。ともかく携帯を返してもらわなければと、ユハは立ちあがった。とたん男は群衆に紛れた。
 あっ、と声が出た。泥棒です、引ったくり、捕まえて、と叫ぼうとして、言葉にならなかった。雑踏の中から男の呼び声が聞こえた。
「早く!」
 人混みを掻きわけて、ユハは走りだした。あくまでも小走りで。こんな靴で全力疾走はできない。ヒールをカッカッと高く鳴らし、人と人の間を危なっかしく摺り抜けながら、ユハはまだどこか呆然としていた。
 すぐに見失ってしまうかと思ったのに、男はときどき雑踏の合間から姿を見せ、こちらを振り返った。決して追いつかせず、かといって引き離しもせず、一定の距離を保ちながら駆けてゆく。男の足取りが、駅に続く大通りから脇道へと逸れたとき、ユハは躊躇った。だが、この先の公園を抜ければ、交番がある。後は警察に任せよう。男の特徴を伝えて、その場で盗難届も出せる。終電には間に合わないだろうが、幸い鞄は無事なのだし、タクシーを拾って帰ればいい。
 夜の公園はしんとしていた。人影もまばらで、もう男を見失う心配もない。ユハは、公園の奥へ走ってゆく男の特徴を今一度見定め、交番へ向かおうとした。できなかった。
 このときになって初めて、ユハは、自分の意思で足を動かせないことに気づいた。恐怖が背筋を舐めた。何が起きているのかわからない。ユハの足は走りつづけ、止まることも、方向を変えることもできなかった。悚然として辺りを見回すと、前方で男が手を振っていた。
「早く! ユハ!」
 両足が勝手に速度を上げ、ユハはパニックに陥った。思考が止まり、声が出なくなり、感覚が世界を認識しなくなる。音も匂いも風景もぼやけて遠ざかってゆく。脈絡のない悪夢のように、より人の気配がない方へ、より外灯の少ない方へ、暗がりへと、男の後を追う足を止められない。
 それでも、公園に併設された植物園へ駆けこんだところまでは、まだ世界にいくらか現実味があった。なぜ深夜に鍵が開いているのだろう、と戸惑うこともできた。大温室を通過する。温かく湿った空気が植物たちの呼気を帯びて纏わりつく。巨大なシダの葉、シュロ、ソテツ、サゴヤシ、影絵を思わせるカラテア、ドラセナ、ブルグマンシア・ウェルシコロル、頭上の月と非常誘導灯を光源に黒々と浮かびあがる人工密林で、板張りの遊歩道を駆けてゆく二人分の足音はひどく耳に障った。ユハの足は完全に本人の意思を離れ、前方に障害物があろうとなかろうとそのまま突き進み、モンステラの葉にしたたか額を打たれてユハは両手で顔を覆った。どうせ自分では避けられないのだ、視界に何の意味があるだろう?
 ようやく足が止まったときには、靴も無くなってしまっていた。ユハは息も絶え絶えに、手近な若木に掴まり、がくがくと震える膝を押さえた。四肢のあちこちが痛む。吐き気もひどい。目には涙が滲み、耳の奥で血流が脈打っている。
 辺りは真っ暗だった。枝葉の間からかろうじて月が見えるものの、他に光源はない。帰らなければと思ったが、どう戻れば良いのか見当もつかなかった。そもそも此処は大温室の中なのか、それとも、別の温室か展示室に迷いこんでしまったのか——
「ユハー」
 名を呼ばれて、ユハはふたたび凍りついた。直感が、あれに見つかってはいけないと告げる。きっと恐ろしいことが起こる。既に散々な目に遭っているけれど、きっとそれ以上に。また勝手に動きだしては堪らないと、ユハは手探りで地面に這う蔓を掴み、足首を倒木に括りつけた。土は冷たく濡れている。なにか硬質な無数の足が、さっと手の甲を走り抜ける。悲鳴を堪え、息を潜めているうちに、混乱の中でぼやけていた思考と感覚が、徐々に焦点を結びはじめた。
 暗闇は無数の音に満ちていた。それは甲虫の羽音、それはコウモリのはばたき、それは夜鳴き鳥のつんざくような金切り声、それは幾万の木々を揺らす風の唸りだった。どれも温室に響いて良いような音じゃない。此処は外だ。でも、あの透明なうつくしい街のどこにも、こんな恐ろしい森はなかった。じっとりと湿った赤土の匂いも、卵と魚を甘く腐らせたような花の香りも、なかったはずだ。
「懐かしいでしょう」
 瞬きの間に、黒い影がユハの前に立った。
「ここは故郷のすぐ近くだから。きみがこの国に居るのはいったい何年ぶりだろう、十年、いや、もっとかな。乾季の間に会えてよかったよ。大事な話の途中でスコールに邪魔をされたくはないものね」
 無音のうちに、携帯のバックライトが点灯した。人工的な白色光に照らし出された鎖骨と首筋、顎と口元、そして骨ばった両手が優雅な蛾の群れと戯れるようにひるがえったかと思うと、ガラスとアルミニウムと精密回路とその他数えきれないほどの鉱物で形作られていたはずのユハの携帯は見る間にくるりと捻られてその形を失い、細やかな飴細工と化して、幾千のメールもメッセージも通話記録も写真も何もかも道連れに、噛み砕かれ、嚥下された。血に溢れるだろう彼の口と喉と内臓のことを思って、一瞬、ユハは恐怖を忘れた。戦慄と狼狽がユハを捉えた。ここが森の中でなければ、助けを呼びにすら行ったかもしれない。男は朗らかに声をあげて笑った。
「ユハ、やさしいユハ。愚かなユハ。きみの中の樹木に命じる。きみは、もう逃げることはできない。きみは、もう走ることも、歩くこともできない。きみは、もう疑問を呈することも、拒絶することも、否定することもできない。きみはもう何にも抵抗できない。きみは屈服する」
 それは呪文だった。砂糖のように暖かな声で紡がれた呪いの言葉はすぐに効力を表した。ユハは四肢の先から熱が失われてゆくのを感じ、震えながら、残された意思を振りしぼって声を発した。「どうして」。「あなたはいったい誰なの」。それはもはや言葉にも満たない呻きでしかなかったけれど、男は幼子の駄々に手を焼くような苦笑いで応え、やさしくユハの頬を撫でた。
「わからない? ほんとうに? 僕はきみが今まで殺してきた憎悪だよ。あるいは森と雨の夢、温室に囚われた赤道の木霊、あるいは鬼、精霊、魔物……なんでもいいけど。なんでもいいでしょう、きみにとっては」
 闇の中で、わずかな月明かりが男の手の甲に反射していた。なにかを差し招くような手つきに、その先に起こることを正しく予感して、ユハは首を振ろうとした。できなかった。首は縦にしか動かせず、押さえつけられたように項垂れると、喉の奥から最後の懇願がこぼれた。
「わたし、何もしてない」
 こんな仕打ちを受けるに値するようなことは、何も。
「そうだね」
 それきり人間としての聴覚は失われた。ただ、真夜中の熱帯雨林だけが、これから起こることに耳をすませていた。
 小柄な人間の男の形をしたものが、中空の糸を摘まむような手つきで静かに腕を差し伸べると、ユハの身体は震え、天を仰ぎ、弓のように反りかえり、オレンジの皮を剥くように内側から反転した。
「そして人間としての表皮は樹皮に、骨は芯材に、骨髄は導管に、すべての神経はゆたかな根に、主根は赤土に奥深く降り、側根を巡らせ、この森のあらゆる椰子、シダ、ラワン、マンゴーの根と結びつき、瞳は千々に分かれ、引き伸ばされ、葉緑体の光を帯びて、肺と胃に連なり、ほどかれた血に紡がれた葉脈、人に内包された海は眠れる百の花芽の中に、人に内包された土は新たな百の言葉の中に」
 唱えられる呪文に従ってユハの身体は人間の形を失ってゆき、引きずりだされるようにして、一本の樹木へと変じていった。人の背丈とほとんど変わらない、細っそりとした幹が生え、中空の虚を埋めるように形成を進め、たちまちに枝葉を茂らせた。人間の形のまま根元に残され痙攣していた両腕もやがてそれぞれ枝と根に落ちついた。そして最後に、樹木と人間のまぜこぜのような赤い虚の内側からもがく両腕が突きだされ、身を食い破られる激痛におそらくユハは悲鳴を上げたのだが、樹木に声はなく、震わせる肉体もなく、人間の身体には存在しない化学物質がその全身をすばやく駆けめぐり枝葉の味をわずかに変えただけだった。
 ユハの内から這い出た新たな人間は、血まみれで、ひどく消耗していたものの、顔立ちも髪も身体も、まったくユハと同じ姿をしていた。ただ瞳だけが異なっていた。彼女の瞳はうつくしかった。狭い檻に何年も監禁された獣のように傷つき損なわれていたというのに、自由を理解する力は残っていた。喉に詰まっていた血のかたまりが溢れ、気道を開いた。声が生じた。
 そして、かつてユハという名前の人間だったものは、かつてユハと呼ばれていたすべてのものを置き去りに、振り返ることなく、一散に走り去った。かつてユハという名前の人間だった樹木は、もう、人間だったころの五感をすべて失っていたけれども、かつて自分の中にあったものが立ち去ってゆくのを確かに理解して、泣いた。その涙は出口を探して樹木の身体をしばらく彷徨った後、かすかな諦めとともに、気孔から抜け落ちていった。
 そして静寂が残った。
 沈黙。
 ここには言葉もない。
 いずれは心も消える。
 ただ、解けゆく記憶の光だけが、夢のように瞬いている。


夢、あるいは記憶

第一章 歌う雨の町

1. いつか帰る場所

古い換気扇に、二人分の食器。
 塗装の剥げかかった小鍋。
 金色の西日が差す小さな窓。
 失われた生家を思うとき、いつも台所のことを思い出す。狭い借家の窮屈な台所は、火を使うとすぐに熱が篭り、暑くて仕方がなかった。平日の夕食を作るのはユハの役目だった。学校帰りに惣菜と食材を買い、冷蔵庫の中身をやりくりしながら、できるだけ温め直しても味が落ちにくいものを作った。母の帰宅はいつも遅かったから。
 けれどその日は、スープを火に掛けてすぐ、玄関の鍵が回った。帰宅した母は、「ただいま」の一言もなく、疲弊した様子で椅子に座り、ユハを呼んだ。聞く前から悪い知らせだとわかった。母は掠れた声で言った。
「ここから出ていかなくてはいけない」
 ガクン、と激しく機内が揺れた。
 気を紛らわせるのももう限界だった。墜落のイメージが、ふたたび鮮明さを増して、頭の中に広がっていく。不規則な振動と浮遊感はかれこれ十五分近く続いていた。いやな音を立てて機体が軋み、ユハはぎゅっと目を瞑った。
 固く組んだ両手を唇に押し当て、じっと時が過ぎるのを待つ。墜落なんて考えるから余計に恐ろしく感じるのだ。何も考えないためには、目覚めたままで眠るように、心を空にすれば良い。そうすれば、怯えた子供の泣き声も、機体の振動音も、遠く隔てられたようにしか聞こえなくなる。
 激しい揺れは五分ほど続いた。長い五分だった。ほとんど一時間以上に感じられた。それでも、ピークを越えると振動は徐々に弱まっていった。
 長い間を置いて、やがて、ポーン、と柔らかなチャイムが響いた。
「みなさま、ご不便とご心配をおかけいたしました。まもなく、機内サービスを再開いたします……」
 飛行機が乱気流を抜けたのだ。シートベルトの着用ランプが消え、機内に張りつめていた緊張も解けて、あちらこちらで笑い声が上がった。長い不安に耐えた乗客を労わるため、ワインとジュースを満載したワゴンが、通路の間をゆっくりと進みはじめた。
 ユハは指先をさすりながら、手に食いこんだ爪痕が薄れてゆくのを眺めた。飛行機がこんなにも恐ろしい代物であると、なぜ母は教えてくれなかったのだろう。たぶん、とユハはすぐに自答した。母にとっては大したことではないのだろう。実際、引越しの支度で疲れ果てていた母は、離陸してすぐにアイマスクと耳栓で守られた眠りに落ち、乱気流の不快な揺れでも微動だにしなかった。
「白ワインを——ああどうも。いや、ずいぶん揺れましたねえ。やはり赤道を越えるのは大変ですな」
 母のとなり、通路沿いの席に座る老人が、プラスチックのカップに注がれたワインを嬉しそうに受けとり、一息に飲みほした。このあたりでは珍しい白い肌にたちまち赤みが差した。客室乗務員の女性が柔らかく微笑み、窓際で縮こまるユハに「ご気分は悪くございませんか?」と尋ねた。ユハは反射的に笑い返した。
「大丈夫、だと思います、大丈夫です。オレンジジュースはありますか?」
「ええ、ございますよ。お母さまのお飲みものはいかがいたしましょうか」
「いまは大丈夫です。母さんが起きたら聞いてみます」
「何か必要でしたらいつでもお声がけくださいね。エチケットバッグでも、お水でも」
 ゆっくりと、舐めるようにジュースを飲み、ユハは窓の外を見やった。オレンジの酸味はいくらか気分をましにしてくれた。国内線とはいえ、首都から四時間も飛んでいれば、空の眺めにも飽きてくる。ふと焦点をずらすと、窓に映る自分と目が合った。不安に濡れた瞳、血の気が引いた唇。褐色の肌も普段より濁って見え、明らかに具合が悪そうだ。窓を見るのはやめにして、ユハは機内雑誌をめくった。国内旅行の特集に混じって、これから自分たちが住む町のことがすこしだけ書かれていた。およそ半ページほどの短い記事だ。「素朴」だとか「のどかな町並み」だとか「美しい森」だとか、そんな曖昧な言葉ばかり並び、掲載写真も切手ほどの大きさで、何度読んでも町の姿がちっとも見えてこない。唯一、ユハの注意を引いたのは、記事冒頭に書かれた町の名前の解説文だった。聞き慣れない音の短い連なりは、現地の古い言葉で〈歌う雨〉という意味を持っているらしい。これだけは少し素敵だ、とユハは思った。
 かつて母はこの町に住んでいたのだ。どんな町なのかとユハが問うてみても、母はぽつりぽつりとしか語らなかった。「何にもない町」とか「迷信深い人ばっかり」とか。これなら何も聞いていないのと変わらないと、ユハは早々に質問を諦めた。昔から、母は説明が苦手なひとだった。「向こうでは、わたしの親代わりだった人の家でしばらく一緒に暮らすから」と知らされたのも、たった三日前のことだ。
 ユハは溜息をつき、機内雑誌を閉じた。引越しなどしたくなかった。けれどそれは間違いなく母も同じだった。職場と居住資格をいっぺんに失った後、首都へ留まるために母が奔走したのを知っている。退去勧告を手に、苦しそうに項垂れる母の背中を見てしまっては、とても、行きたくない、とは言えなかった。
 結局、飛行機が着陸態勢に入るまで、母は目を覚まさなかった。
 小さな空港の、ひとつだけの滑走路に飛行機は慎ましく着陸した。太陽は既に天高く昇り、南半球の北の空から白々と光を注いでいた。
 乗客たちは、機体に横付けされたタラップを降りながら、まず機内と地上の温度差に、次に水分を重く含んだ空気に、そして空港の外壁を輝かせる強烈な日差しに直面し、顔をしかめる。けれどもすぐに身体を動かせる喜びが勝り、嬉しそうにターミナルへと歩いてゆく。
 本当に小さくておんぼろな空港だった。設備が貧弱で、荷を下ろすにも時間が掛かる。身軽な人間はさっさと荷物受取場に辿りついてしまうので、自分の荷物が出てくるまで長いこと待たなくてはいけない。おまけにバゲージレーンはところどころ故障している。運の悪い鞄やスーツケースは、歪んだカーブを曲がりきれず、ベルトコンベアからぼたぼたと落下する。整備が行き届いた首都の空港とは大違いだ。唖然とするユハを見て、母は眠気の残る声で笑った。
 長い待ちぼうけの後、バゲージレーンに現れた荷物を二人がかりで手押しカートに運び、ようやく一息つけた。母が昼食を買いに出て、荷物番を任されたユハはベンチに縮こまり、カートの傍にぴったりと身を寄せた。周囲で交わされている会話は、ユハの耳に馴染んだ音とは抑揚もリズムも異なり、同じ言語であるはずなのに、遠い異国の言葉のように聞こえた。音割れしたスピーカーから響く自動アナウンスの抑揚だけが懐かしかった。次の借り手に渡ってしまった首都の家、いつも日陰だった学校の狭い廊下、友人が話していた長期休みの計画のことをユハは思った。それはとても遠く感じられた。
 ふいにベンチが大きく軋んだ。ユハの隣に座った若い女性は、円やかな手のひらで額の汗を拭うと、鞄から文庫本を引っぱりだした。ページを無作為に捲っては閉じ、また開き、落ちつかないのか周囲を見回して、またページに視線を落とす。その繰りかえしの何度目かで、ユハと目があった。ユハはすぐに顔を伏せたが、彼女はじっとユハを見つめ、覗きこむように身を乗りだしてきた。
「あの、人違いだったらごめんなさいね。あなた、首都からの便で来たのよね? お母さんの名前はジェンだったりしない?」
 ユハは目を瞬き、頷いた。とたん、彼女は顔を輝かせ、満面の笑みで両手を打ち鳴らした。
「ああ! やっぱり! 姉さんにそっくりだと思った! のっぽなところも、その目元も、あの頃の姉さんそのものなんだもの。びっくりしちゃった。ここで待ってれば会えるだろうと思ってたけど、まさか姉さんより先に、娘のあなたを見つけるなんてね。あなた、そう、あなたがユハちゃんよね? わたしはキアウィというの、みんなはキアと呼ぶけど。あなたたちを迎えに来たのよ」
 母さんに妹がいるなんて聞いたことがない。ユハは目を白黒させながら、カートのハンドルをぎゅっと握りしめた。キアウィのお喋りは早口な上に鈍りが強く、集中していないと聞き落としてしまいそうだった。
 ちょうどそこに母が戻ってきた。キアウィは、ベンチに伏せた文庫本もそのままに勢いよく立ちあがり、走りだした。すごい足音の疾走だった。母は昼食の包みを慣れた所作でカフェのテーブルに置き、一歩下がった。歓声をあげるかと思ったのに、キアウィはほとんど無言で母に飛びついた。母は苦笑いを浮かべ、キアウィの背中を軽く叩いた。
「ああ、もう、キア、ほどほどにしてちょうだい。暑苦しいったら! それに、そんなに太っちゃって! 一瞬、誰かと思ったじゃないの」
「十七年ぶりの再会で言う台詞がそれ? そんな昔の私と比べられたってどうしようもないでしょ!」
 キアウィは今にも子どものように地団駄を踏みそうだった。通行人の視線をひとりじめだ。ユハはうろたえつつも、二人の傍までカートを押していった。キアウィの言葉は留まることなく、さらに速度を増した。
「姉さんったら、いくら誘っても帰ってこないんだもの。もう私たちに会う気はないのかと思ってた。この十七年、ときどきの電話だけで、本当に一度も帰らないなんて! ——まあでも、帰ってきてくれたんだから、もう何でもいいか」
 キアウィはようやく静かになり、気が抜けたのか、カフェの椅子にぺたんと腰を下ろした。
「そう。結局、帰ってきたの」
 呟いて、母はユハに紙袋を手渡した。
「中にジュースも入ってるから気をつけて……もうキアとは話した? これからしばらくは、キアの家に居させてもらうことになるから」
「姉さんも住んでた家でしょ、そんな他人行儀に」
 キアウィは笑って頬杖をつき、ユハを見上げた。
「改めて、よろしくね、ユハちゃん。姉さんとは子どものころ一緒に暮らしてたの。血は繋がってないんだけど、叔母さんと思って仲良くしてちょうだい」
 ユハは自己紹介を返しながら、そっと二人を交互に見た。電話、と聞いて思いあたる節があった。年に一度か二度、母は普段と違う声音で電話をかける。いつもは長電話なんてしないのにと不思議に思っていたが、あれはキアウィと話していたのかもしれない。
 血縁はないという言葉どおり、二人はたしかに似ていなかった。母は背が高く、細身で、どこか人を寄せつけないような鋭さがあったが、キアウィは顔も体つきも丸っこく、ふわふわに縮れた短髪がよく似合っていた。背丈もユハとほとんど同じか、すこし低いくらいだ。柔らかな目元のせいか、母よりもずっと若く見える。良い人なんだろうな、とユハは思った。
 〈歌う雨〉の町はまだ遠く、ここから車で二時間ほど掛かるらしい。冷房のきいたターミナルから外に出ると、蒸し暑さが一気に肌を塞いだ。数分も歩かないうちに、汗ばんだシャツがぺたりと背中に貼りついてきた。
 首都もそれなりに暑い街だったが、赤道至近のこの辺りは、暑さの性質がまったく違う。年間を通して日の長さは変わらない。雨季と曖昧な乾季との反復を淡々と繰りかえす、時間を止めてしまうような暑さだ。「懐かしい」と、隣を歩く母が小さな声で呟いた。
 キアウィの車は駐車場の奥に停めてあった。おんぼろな小型車で、黄色の塗装はところどころ剥げ落ち、タイヤにもフレームにも乾いた泥がこびりついている。小さな車の小さなトランクにはスーツケースがひとつしか入らず、残った荷物のうち軽いものは屋根の荷台に括りつけられ、重いものは後部座席にむりやり押しこまれた。かろうじて残った窓際の狭い空間に、ユハはなんとか体を落ちつけた。炎天下に停められていた車内には息苦しいほどの熱気がこもり、うっすらと黴のような匂いも漂っていた。キアウィは空調をつけたままで四方の窓を全開にした。助手席に座った母が、胸元を手で扇ぎながら呻いた。
「キア、この車、買ってから何年目?」
「少なくとも十年かな? 安い中古だったし、実際のところは謎。空調もほぼ飾り! でも良い子よ、なんだかんだ言って、ちゃんと走るもの」
 キアウィは笑ってエンジンをかけた。ラジオから流行歌が流れだし、歌声に押されるようにして車は滑らかに走りだした。車内に風が流れこんできた。
 空港のゲートを出てすぐ、一般道に入った。すれ違うバス、タクシー、あらゆる車たちは埃に汚れていた。それというのも、道路が汚れているせいだ。舗装道路の左右に残されたままの赤土が、雨の降る度に流れ出てアスファルトを泥で覆ってしまう。そして雨は毎日のように降る。
 道沿いには熱帯の木々が茂り、枝葉の合間を縫うようにして、蔓にびっしり覆われた旧式の木製電柱が電線を渡してゆく。ぽつりぽつりと家屋が現れる。焼き物の欠片で築かれたささやかな塀にブーゲンビレアが咲きこぼれ、鮮やかな紅色が目に眩しい。森を抜けると、一面に田園が広がった。遠く山の稜線を背負い、青々と揺れる水田の畦に、灯台のように椰子が生え、大きな葉を風に揺らしている。ユハは知らず知らず窓の縁に手を置いて、流れゆく風景に見入っていた。
「姉さん、電話でも言ってたけど、ほんとうに明日から仕事に出るの? それも川向こうの街まで、わざわざバス乗り継いで。片道一時間半は掛かるよ」
「前の職場の伝手なんだもの、贅沢言えない」
「しばらくのんびりして、近場で別の仕事探したら?」
「近場って、大して求人ないでしょ、今も」
「まあそれはそう……でもせめて、数日くらい遅らせても。引越しの荷物を解くだけでも大変でしょうに」
「もうぎりぎりまで出社日を調整してもらったから、これ以上は……ああもう」車が弾んだ拍子に、アイスコーヒーのこぼれる音が聞こえてきた。「相変わらずひどい道ね」
「これでもだいぶマシになったよ。わたしらの町は相変わらずだけど、隣町への街道はすっかり綺麗になったし、二輪もいっぱい走ってる。姉さんは免許持ってたっけ」
「持ってはいるけど、最後に運転したのがいつか覚えてない」
「あー、あー、これだから都会暮らしの人は」
 機嫌よく、なじるように片手を振って、キアウィは勢いよくハンドルを切った。遠心力とともにスーツケースの角がユハの腕に食いこみ、車窓見物どころではなくなったユハは荷物を押しかえすことに集中した。
「そういや、ユハちゃん、学校は? まだ学生だったよね?」
「町の学校に転入します。長期休みが明けたら……」
「ああ、あそこか。こっちは新学期が始まるのも遅いから、ゆっくり過ごすと良いよ」
 ラジオの音楽が止み、天気予報に切り替わった。淡々と、知らない地名が読みあげられていく。『……の最低気温は二十三度、最高気温は三十二度の予想です。夕方から東風が強まる見込みで、山沿いでは急な雷雨に……』ユハは窓枠にもたれ、予報士の単調な声をぼんやりと聞き流していたが、ふと目を瞬いた。地名と気温の合間からひそやかな歌声が響いている。ハンドルに添えた指先でとんとんとリズムを取りながら、キアウィが鼻歌を口ずさんでいた。信号待ちが終わったとたんに聞こえなくなるほどの声量だったけれども、ユハには新鮮な驚きだった。記憶にある限り、母はユハの前で一度も歌ったことがなかった。
 助手席の母が振り返り、ユハの膝上で手付かずになっている紙袋を見て、呆れ混じりの声で笑った。
「ユハ、それ、悪くなる前に食べちゃいなさいね。どうせまだまだ着かないんだから」
 表皮に皺の寄ったパンは、中に挟まれた野菜とソースの水分でふやけて、味がよくわからなかった。
 それからの道中は眠ってしまっていたらしい。どこか不安な夢の暗がりでけたたましいクラクションが鳴りわたり、ユハはびくっと身を震わせて目を覚ました。隣の車線を強引にトラックが追い抜いてゆく。キアウィが車内鏡越しに、気遣わしげな視線を向けてきた。
「起こしちゃった? ごめんね」
「あ、いえ……あとどれくらいですか」
「もうじき、あと十五分くらいかな。姉さんも爆睡してるし、まだ寝てて大丈夫よ」
 車窓の風景はすっかり様変わりしていた。森と田畑は姿を消し、舗装された道沿いに小さな店舗が重なりあって並んでいる。路肩に並ぶ自転車、二輪タクシー、木陰でまどろむ客待ちの運転手たち、屋台の呼び込み——吹きこむ風に冷たさを感じて、ユハは窓からすこしだけ顔を出した。天頂近くから空の半分が黒い雲に覆われていた。進行方向の彼方は明るく晴れているのに、と思う間もなく、熱帯の雨がどっと落ちてきた。大粒の雨はアスファルトの路面を駆け抜けるように染め上げ、視界を白く塞いだ。激しい水しぶきの中、キアウィはまったく動じずに、慣れた様子でワイパーを動かした。
「ちょっと窓閉めててね。すぐ止むから」
 窓ガラスに走る水流の向こうで、屋台が次々にパラソルを開いた。この雨量では小さな傘は役に立たない。道ゆく人もみな、雨宿りに駆け出していく。
 ふと、人の流れに逆らって、いくつかの人影が雨の下へ飛び出してきた。小さな子どもから腰の曲がったお爺さんまで、手に手にボウルやバケツを掲げ、全身ずぶ濡れになりながら雨を集めている。「ああ、初雨の人がいるねえ」キアウィがしみじみと呟いた。ユハは窓に頬を寄せて、遠ざかってゆく彼らを見つめた。
「姉さんから聞いたかもしれないけど——いや、姉さんなら言ってないかな。ここらのひとはね、死んだひとは雨になるって信じてるんだ。死んだひとは二十七日掛けて天を巡り、そのあと初めて降る雨と一緒に、わたしたちの元へ帰ってくる。あ、全部じゃないよ、そのひとの欠片がね。それからはずっと雨の中にそのひとがいる」
 首都では見たことも聞いたこともない風習だった。そうなんですね、とユハはできるだけ平静な声で相槌を打ったが、表情を隠せていなかったらしい。キアウィは車内鏡をちらりと見上げ、笑いだした。
「驚いた? わたしもね、大人になってから、首都じゃ誰もそんなこと信じてないって姉さんに聞いて、びっくりしたよ。子どもの頃は、首都なんて遠い世界の彼方だったし……ああやって集めた初雨は、庭に撒いたり、料理に使ったりするんだよ」
 さっと窓の外が明るくなった。雨を抜けたのだ。
 窓を開けると、雨音と入れ替わりに、鳥のさえずりが響いてきた。家々の軒先に吊るされた鳥籠からだった。気づいてみると、どの家にもひとつふたつと鳥籠が吊るされ、色鮮やかな小鳥が止まり木に羽を休めている。
「鳥が好きなひとが多いんですか?」
「うん? ああ、そうかも、大体どの家でも飼ってるね。インコとかオウムとか、文鳥とかカナリアとか……庭付きの家なら鶏を買うし。毎朝すっごくうるさいよ!」
 町外れでキアウィはハンドルを切り、細い脇道へ車を進めた。道の舗装状態は悪く、いくらも進まないうちに車は軋みながら左右に揺れはじめた。目を覚ました母が気怠そうに頭を振った。「もうすぐ着くよ」とキアウィ。住居はまばらになり、路肩にはふたたび木々が茂り、森の勢いに押されてか、ちょっとした畑や庭たちはどこか肩身が狭そうにしていた。

2. 相槌と挨拶

とびきり古く見える大きな家の前で、キアウィは車を停めた。運転席と助手席のドアが開け放たれる。ユハは一息遅れて、用心深く帽子を被り直してから、外に出た。
 太陽は北の空でわずかに傾きはじめていた。日差しが一番きつい時間だ。雨上がりの、濡れた土と草木の匂いが甘く押し寄せてきた。「古い家でねえ!」キアウィが、車の屋根から荷物を降ろしながらぼやいた。「その癖、だだっ広くて、いくら掃除しても追いつきやしないんだ。これでも昔はゲストハウスみたいなことをやってたんだよ。あの頃はここらの脇道ももうちょっと活気があって、それなりに忙しくて……でも、もう十年以上前に廃業してね。学生向けの下宿とかにもしてみたんだけど、うまくいかなくて。もう跡形もないね」
 視界を塞ぐバナナの葉をユハは片手で軽く押しあげ、錆びた門のあいだから中を覗きこんだ。雑草だらけの広い庭、敷地を囲む木立、板張りの小さな納屋。三角屋根の母屋は二階建てで、外壁はピンク色に塗られていた。明らかに周囲の景色から浮いている。もしかしたら、ペンキが褪せてそう見えるだけで、昔はもっときれいな色だったのかもしれないが、うまく想像できなかった。
 庭は先ほどの雨に濡れていて、スーツケースを転がすには不向きだった。持ち上げたままで運ぶしかない。門から母屋まで伸びる不揃いな飛び石を伝って、慎重に足を進める。チチチ、と鳥の囀りのような音を立てて、手のひらほどもある巨大なバッタが雫を散らして足元から飛び立っていった。
 玄関のドアは開け放されていた。眩しい太陽に満たされた外に比べ、室内の暗さはほとんど夜に近い。目が慣れるのを待って立ち竦んでいると、キアウィがふうふう言いながら追いついてきて、ユハの隣に勢いよく荷物を降ろした。
「はあ、やれやれ、何往復かかるやら。夜まで車に積みっぱなしでも誰も盗りやしないのに」
 キアウィは肩越しに振り返り、おどけるような明るい眼差しをユハに向けた。母は車のトランクからスーツケースを引っ張り出そうと悪戦苦闘していた。
「あれね、無理に詰めこんだから、上手いこと斜めに捻らないと角が引っかかってどうしようもないの。って言ったんだけど」肩を竦めて、「言って聞くひとじゃないからね。ユハちゃん、しばらく部屋でゆっくりしてて」
「え? でも、まだ荷物が」
「良いの良いの。あとは大人の仕事。それに、ちょっと具合悪そうに見えるし、休んでた方がいいわ。奥の階段登って、手前から二つ目の部屋を空けてあるから、好きに使ってね」
 そんなに分かりやすく疲労が顔に出ていただろうか。ユハは俯き、早口でお礼を呟いて、暗い廊下へ足を踏みいれた。
 ゲストハウスをやっていたという頃の名残なのか、廊下にはルームナンバーを打たれたドアがいくつも並んでいた。数字のひとつひとつは影に沈んで読み取れない。ふと、視界の隅、天井近くの埃っぽい暗がりに何か黒いものが走るのを見たように思って、ユハは首を竦めた。気のせいだ。と思いたい。急いで通り抜けようとすると、キアウィの声が背後から追いかけてきた。
「ごめん、言い忘れてた! 一階の台所、たぶん父さんと兄さんが居ると思うんだけど、もし鉢合わせてもびっくりしないでね。ふたりとも、ちょっと——そのう——なんというか、変わってるけど。悪いひとたちじゃないから」
 はあい、と声を返しながら、台所には近づくまい、とユハは思った。
 突きあたりの階段には手すりがなかった。壁に危なっかしく片手を付き、一段ずつ、自分の身体とスーツケースを持ちあげてゆく。途中から怖くなり、階段に尻をつけて横を向いたままずりずりと登った。
 二階の廊下には天窓があり、熱帯の日差しを木漏れ日の形に変えて家の中に注いでいた。風が吹くたびに光は細波のように揺れて、樹木が踊る様を映し、どこかで窓が開いているのか、それとも壁が薄いのか、枝々が擦れあうカチカチという音がとても近く聞こえた。
 キアウィに告げられた自室、手前から二番目の部屋へと、ユハはスーツケースを転がしていった。ドアは半開きになっている。
 部屋までおんぼろでなければ良いけれど。うっすらとした不安を感じながら、ユハはドアを開けた。
 部屋は思っていたよりも広く、窓が大きかった。どこかの古いホテルのように、年季を帯びたクローゼットと化粧台、書き物机と椅子が置いてある。それからいくつかの古い雑誌の束と、紙袋に放りこまれた書類と、埃っぽい古着の山——これまでは物置として使われていたらしい。窓の傍には、折りたたまれたマットレスと、フレームを剥きだしにした小さなベッドがあった。ベッドにはブランケットが敷かれ、一本の樹木が無造作に横たわっていた。
 「えっ」とか「あっ」のような無意味な音がユハの喉の奥で鳴った。疲れのせいだろうか、驚きよりも冷静さが勝って、ユハはその場で立ちつくし、自分のベッドで寝ている木を見つめた。それは倒れた鉢植えなどではなかった。およそ二メートルほどの、青々と葉を茂らせた樹木で、百本の裸足のような根が伸び伸びと絡まりあってベッドの端から垂れ下がっていた。それが何なのか、ユハには分からなかった。首都ではおよそ見たことのない木だった。この町では普通のことなのかもしれない、という思いが一瞬脳裏を掠めた。そう、雨を受けとめる風習と同じような。そうでなければ嫌がらせだ。どちらにせよ有難いものじゃない。ユハは後ずさり、廊下に出た。目を離す方が怖いような気がした。「お母さん」、と大声で呼ぼうとしたのに、囁くような声しか出なかった。
 階段の軋む音がした。母かと思ったが、聞こえてきたのはキアウィの声だった。
「ユハちゃん、ごめんねえ、兄さん見なかった? 台所にいなくて——」
 キアウィは廊下に立ち竦んでいるユハを見るや、何かを悟ったようだった。柔和な表情がさっと真顔になり、すぐに眉を下げた呆れの色に取って変わった。ユハの肩越しに部屋を覗きこむと、「まったくもう」とぼやきながら額に片手を添えた。母の癖とまったく同じ動きだった。
「兄さん!」
 キアウィが声を張りあげ、ユハは戸惑って辺りを見回した。人影はない。廊下に並ぶドアはカチリとも動かない。誰の返事もない。
「聞こえてないわねこりゃ。ああもう、この忙しいときに」
 キアウィはのしのしと部屋に入ってゆくと、ベッドに寝ていた木を抱えあげ、その重みに数歩よろめいた。枝葉が騒々しく揺れて、数枚の葉がはらはらと舞い落ちた。
「ユハちゃん、悪いんだけど! 部屋の隅に洗面台があるから、バケツに水汲んで持ってきてくれる? バケツは壁際の——そうそう、それ」
 ユハは言われるままに動いた。蛇口を捻り、ブリキのバケツに水を溜める。どれくらいの水量があれば良いのかわからず、バケツに半分ほどで切りあげて、キアウィのもとへ取って返した。「そこにおいて」とキアウィは床を顎で示した。そっとバケツを下ろすと、キアウィは慣れた手つきで木を肩に凭せかけ、絡まりあった根を軽くほぐしてから、バケツの水につけた。そして器用に片足でバケツを壁際に押してゆき、部屋の角に木を立てかけて、上手くバランスを取った。
「これでよしと。なんで自分から干からびるようなことをするんだか! ありがとうユハちゃん、助かったわ」
「あのう……キアさん?」
「うん?」
「……この町では鉢植えをベッドに寝かせるの?」
 キアウィはたちまち目を丸くした。
「姉さんから何も聞いてない? 何にも?」
 耳が熱くなるのを感じながら、ユハは俯いた。キアウィはそれを首肯と受けとったのか、ふっくらとした手をユハの肩に置いて、知人を紹介するような様子で壁際の木に目をやった。
「あとでちゃんと本人からも自己紹介させるけど、あれは鉢植えじゃなくて、うちの兄さんよ。今は木になってるけど」
 今は木になってるけど。ユハは眉間に力をこめて、言われた言葉を理解しようと努めた。キアウィはさらに続けた。
「たまに、ああやって寝過ごして動けなくなってるときがあるから、声をかけても返事がなかったら水につけてあげてくれる? よほど長いこと水切れを起こしてなきゃ、三十分くらいで動けるようになるから」
 動く。——どのように?
 ユハは喉まで出かかった質問を飲みこみ、黙って頷いた。何と言えば良いのかまったく分からなかった。
「掃除を頼んでたんだけど、この様子じゃ終わってないな……ごめんねえ、もう」
 肩を竦め、キアウィが廊下に出てゆく。ユハも慌てて後を追った。あの木と二人きりにされるのはごめんだった。キアウィは追ってきたユハに気づくと、気遣うように「台所でお茶にしようか」と言って、改めて驚かせたことを詫びた。
 一階の階段脇の扉は、ささやかな中庭に繋がっていた。草地に覆われていた表の庭とは異なり、モザイクタイルが敷かれ、白々と日差しを反射している。すらりとしたプルメリア、櫛の歯にも似た葉を束ねたようなヤマドリヤシ、ソテツ、ブーゲンビレアが葉を揺らし、木陰にはテーブルとベンチまで置かれて、まるで静かな公園のようだった。
 向かいの建物まで続く屋根つきの回廊を、キアウィはすたすたと歩いていく。ユハは緩んだ歩調を早めながらも、周囲を見回さずにはいられなかった。回廊の床はコンクリート造りで、靴音は反響し、頭上から降るように響く。キアウィが振り向いて、どこか得意げに目を細めた。
「いい庭でしょ。表の庭は手入れできてないんだけど、中庭は小さいからなんとかなってるんだ。早朝とか夕暮れにそこのテーブルでお茶飲むと楽しいよ、めちゃくちゃ蚊に喰われるけどね」
 ユハに合わせて歩きながら、キアウィは回廊から見える部屋の窓を順繰りに指差した。
「さっきの建物は、後から客室用に増築した棟なんだけど、今じゃ一階なんかほとんど倉庫なの。二階はまだマシだから、わたしと子供たちの部屋も、姉さんの部屋も二階。うちの子たち、ユハちゃんの隣の部屋だから、仲良くしてあげてね。……で、中庭の向かいにあるのが元々の家。台所も居間もお風呂もこっち。父さんの部屋もね。昔はリネン室だった部屋もあるんだよ。いちばん繁盛してたときは、一晩にお客さんを十五人くらい泊めたりして、いや十人だったかな、まあいいや。ともかく賑やかでねえ。今はこんなに静かになっちゃったけど」
 向かいの建物に入り、キアウィはユハを居間へ案内した。居間と言っても、かつては宿の食堂も兼ねていたそうで、その広さを持て余してか、空間の半分ほどは物置と化していた。壁際に寄せられた揃いのテーブルには、いくつもの椅子が脚を上にして重ねられ、うっすらと埃を積もらせていた。
 奥に一台だけ残された八人がけのテーブルで、母が見知らぬひとと話しこんでいた。皺々にたるんだ首筋、日に焼けた赤褐色の肌、後頭部をうっすらと覆う白い巻き毛。老人はパッとこちらを振り返った。母とはまったく違う顔立ちの、深い緑色を帯びた瞳がユハを射抜いた。
「じゃあ、この子がそうなのか? え? 随分と痩せてるじゃないか!」
「街の子はこれくらいで普通なの。——ユハ、紹介するからこっちにいらっしゃい。ご挨拶して。耳が遠いから大きな声でね」
 母の傍らに立ったユハを、老人は測量でもするように上から下まで眺めた。ユハなりの精一杯の「こんにちは」が聞こえたのか聞こえなかったのか、無表情のままだ。母は淡々と紹介を済ませた。父さん、こちらがユハ、私の一人娘。ユハ、こちらが私の父代わりだったひと、名前はゲア、まあ祖父だと思えばいい、血の繋がりは別にないけれども。
 ユハはそっと母に耳打ちした。「私もお爺さんって呼んだ方がいい?」首肯が返り、ユハは改めて彼の耳元で挨拶を繰りかえした。とたん、ゲアは顔中の皺をくしゃくしゃにして、濁音と痰の絡んだ声で「良い子だ!」と言った。その声量に思わず顔を伏せて、ユハは目を見開いた。ゲアの右脚は下腿が欠損していた。傍に剥き出しの義足が立てかけられていた。
 ゲアはユハを隣に座らせ、矢継ぎ早に質問をはじめた。——学校は? 成績は? 首都暮らしはどうだったか? 得意科目は? 運動は好きか? 友達とは何をして遊んでいたのか? 好きな食べ物は何か? 母の手伝いをしているか? 等々。途中、キアウィが冷たいお茶を携えてやってきて、さりげなく話に加わろうとしたが、「この子に何か果物を出してくれ」とすぐに台所へ戻されてしまった。母もいつのまにかいなくなっていた。台所から話し声が聞こえるので、どうやらキアウィと一緒に居るらしい。ユハは頃合いを見計らって母のところへ行こうとしたが、次から次と繰り出される質問にはまったく途切れる気配がなかった。
 逃亡を諦め、ユハが首都の学校生活について当たり障りのない報告をしていると、開けっ放しの扉から長身の若者がひとり、だるそうな足取りで入ってきた。黒い巻き毛に葉っぱが何枚もくっついている。今度は誰だろう、キアさんの息子、にしては年がおかしい、と考えながらユハは挨拶の仕草をした。彼はまじまじと——ゲアにそっくりの眼差しで——ユハを見下ろし、それからゲアを見た。
「ゲア、この子、誰?」
「ああ? 話しておいただろう? ジェンの娘だ、兄さんが片付けた部屋を使うことになる子だよ」
「ああ! もう着いてたんだ。てっきり到着は夕方くらいかと思ってた」
 若者はテーブルに置かれた水差しを手に取り、口付けたまま仰向いて、信じられないくらい長々と水を飲んだ。ゲアが片眉を上げた。
「またキアに叱られるぞ。人間らしくコップを使え」
「干からびそうだったんだよ。ええと、君がユハ? もしかして、さっき二階に居たよね? ごめんよ、掃除の途中でうっかり昼寝しちゃったんだ。バケツに浸けてくれて助かった」
 ゲアは大仰に溜息をついた。
「兄さん、また木に変身してたのか」
「心配かけて悪いね。もう習性なんだよ。ちょっと気を抜いたら呼吸も忘れてしまいそうなのに、こうやって二足歩行してるだけでも褒めてほしいくらいだ。——ねえ、もう昼食は済んじゃった? 残り物とか何かない?」
 台所から「はいはい」と声が返る。キアウィは忙しく動きまわり、ユハにはよく冷えたパイナップルを、若者にはスープを小鍋ごと出した。温め直したばかりらしく、盛んに湯気の立つ小鍋からは、母がときどき作ってくれた魚のスープと同じ、香辛料とレモングラスの匂いがした。キアウィはスープを皿に注ぎながら、咎めるように目を細めた。
「兄さん、掃除、さぼったでしょう。もうすこし手伝ってくれても良いんですよ」
「ごめんごめん。次は気をつけるから」
「どうだか……ああ、ユハちゃん、この人よ、さっきあなたのベッドに転がってたのは。兄さん、いや父さんでも良いんだけど、後でちゃんと説明してあげて。姉さんから何も聞いてないらしいから」
 台所へ戻ってゆくキアウィを目で追って、若者は首を傾げた。
「説明? 何の?」
「首都じゃもう、変身する人なんて誰も居ないんだって」
 スープを口に運ぼうとしていた若者と、茶を啜ろうとしていたゲアは、二人揃って動作の途中でぴたりとユハに視線を向けた。ユハは首を縮めた。
「本当に? 僕みたいなの、見るのも初めて? どおりで、僕のことを変な目で見るなあと思ったよ!」
 若者は目を丸くしていたが、やがて宥めるように片手を優しくひらひらさせた。
「そんなに身構えないでおくれよ、ときどき木に変身すること以外は、まったく普通の人間だから。最近の世情や常識にはちょっと疎いかもしれないけど。ここ六十年くらいはずっと木になってたし」
「適当なこと言うな。六十七年だ」
「そうだっけ?」
「こっちは忘れやしないさ。ユハ、こいつはな、儂の兄貴なんだ。長いこと行方不明だったのが、三ヶ月前に突然帰ってきたんだよ。消えた日とほとんど同じ背格好でな。本当は八十五歳のくせに、こんな、十代の若造みたいな身体で帰ってくるなんて、あんまりだと思わんかね。見てのとおり、儂はもう皺々で、戦争で片足もそっくり取られて、義足を嵌めなきゃ一人で便所にも行けないってのに、こいつときたら両脚で家中走りまわるんだからなあ!」
「まあまあ、ゲア、落ちついて。木は人と同じようには歳を取らないんだよ」
 若者は楽しそうにスープのお代わりを注ぎ、鍋底にくっついた香草を器用に剥がしながら、途切れないゲアの愚痴に相槌を打ちつづけた。
 二人の顔つきは確かにとてもよく似ていた。巻き毛も、深い緑色の瞳も、血の繋がりを感じさせる。すこし考えてから、ユハはこれまでの人生で培った常識どおりの判断を下した。つまり、彼はゲアの孫息子だ。そして、ゲアはおそらく呆けが始まっている。行方不明になった兄は、本当は生きていた、ただ木に変身していただけで、当時の姿のまま人間として帰ってきた——そんな物語をゲアは信じていて、彼のために誰もが話を合わせているのだろう。ユハは使命感に囚われた。ならば自分もそうしなくては。
「お爺さん、のお兄さん、ってことは、じゃあ私の大伯父さんですね」
「おじっ……いや、いや、ちょっと待って、確かにそうなんだけど。合ってるけど。その呼び方は承服できない」
 目に見えて狼狽した彼に、ゲアは膝を叩きけたけたと笑った。
「なんだ良いじゃないか。八十五歳には御誂え向きだろう」
「ゲアは黙ってて。いいかい、ユハ、僕はたしかに長く生きてる。でも人間の身体としては二十歳にもなってないんだよ。だから従兄弟のようなものだと思ってふつうに名前で呼んでほしい。僕はニイジェというんだ」
「ニイジェさん」
「気楽にニイとか、ニイさんでも良いよ。だいたいみんなそう呼ぶから」
 やがて食事を終えたニイジェが台所へ鍋を下げにゆくと、ゲアは手際良く右足に義足をつけた。できるだけじろじろ見ないようにしたのだが、それでも視線には気づかれてしまったらしい。ゲアはにやりとして、指の節で義足を叩いた。木を打つようなコツコツという音が響いた。
「珍しいか? ん? もう何十年もこの脚だ。普段はそうそう外さないんだがな、よりによってここを」義足と肌の境目を、ゲアは恨めしそうにさすった。「寝てる間に蚊に喰われてな。蒸れると痒くてたまらん。まったく」
「何してるのゲア。女の子を脅かしちゃ駄目だろ」
 戻ってきたニイジェに、ゲアは鼻を鳴らして応え、杖をついて立ち上がった。流れるような所作でニイジェが隣に立ち、腕を貸した。
「部屋? 散歩?」
「部屋でいい」
「はいはい。じゃあねユハ、疲れてるだろうしゆっくり休むといいよ」
 義足と杖とが板張りの廊下を叩く音が、小休止を挟みながら、したたり落ちる雫のようにゆっくりと反響して遠ざかっていった。その音は家のどこにいても聞こえるように思われた。
 一人になったユハはようやく身体の力を抜き、椅子に深く凭れかかった。どっと疲れが押し寄せてきた。こんなに大勢の知らない人といっぺんに話すなんて慣れていないし、そもそも、どう振るまえば良いのかわからないことが多すぎる。硬く強張った首筋を撫でている内にじわじわと頭が痛みはじめた。というより、緊張でそれどころではなかっただけで、ずっと痛かったのかもしれない。気づいてしまったとたんに痛みの主張は激しくなった。荷造りのとき、薬を鞄に入れたかどうか、思い出そうとしたが、うまくいかなかった。ユハは溜息をついて台所に向かった。
 控えめな音量でラジオから歌番組が流れている。広々とした居間とは対照的に、台所はこじんまりとしていた。人が三人も居たらもう満員だ。隅の小机で、母とキアウィはお茶菓子を摘んでいた。キアウィが「おつかれさま、ユハちゃん」と手招きした。
「大変だったでしょ、二人ともあんなお喋りだから。何か食べる?」
 ユハは丁重に遠慮して、母の腕をつついた。
「お母さん……痛み止めの薬、持ってたりする?」
「頭痛いの?」
「うん」
 母が尋ねるような視線を向けるのと同時に、キアウィはもう立ち上がっていた。
「疲れが出ちゃったかな。薬箱ならここにもあるけど、役に立つかしら」
 キアウィが出してきた薬は、ユハがふだん飲んでいる痛み止めと同じものだった。久しぶりに馴染みのあるものを見たような気がして、ユハはほっと息をついた。
「ありがとうございます」
「無理しないで、ゆっくり休んでね。引っ越しの荷物運びでちょっとうるさいかもしれないけど」ペットボトル入りの水をユハに手渡し、キアウィは言葉を継いだ。「うちの子たちも夕方には帰ってくるけど、騒がないように言っておくからね」
「一人で戻れそう?」
 母に「大丈夫」と応じて、ユハは錠剤を喉に流しこんだ。
 鈍い痛みでぼうっとする頭を抱え、無心で自室へと戻る。数秒ほどためらってからドアを細く開けてみると、室内はきちんと片付けられていた。先ほど見た光景が夢だったかのように、壁際に置かれたはずのバケツも、床に散らばっていた葉っぱも、ベッドに寝転んでいた樹木も、どこにも見当たらない。ベッドはきれいに整えられ、シーツを敷かれ、枕の傍には丁寧に畳まれたブランケットまで置いてあった。窓が開いている——さっき閉まっていたかどうか思い出せない——風がふわりと部屋を通り抜け、カーテンを揺らした。ユハはぼんやりとベッドの縁に腰掛けた。シーツからはかすかに黴の匂いがした。
 このまま昼寝してしまおうと、ユハは仰向けになった。首元に何かが触れた。チクチクするそれを枕の下から摘まみあげ、目の前にかざす。それはニイジェの髪に絡まっていたのと同じ、青々と波打つ一枚の緑の葉だった。もう何を考えるのも面倒で、ユハは一瞥しただけで指を緩め、その葉が床へ落ちるに任せた。
 目を閉じて、さらに片腕で瞼を覆い、薬が効いてくるのを待つ。視界を塞いだことで頭痛はすこし和らいだが、代わりに、周囲の音がはっきりと輪郭を強めた。木々の枝葉がこすれあう潮騒のようなざわめきに混じる、聞き馴染みのない鳥の声には、けたたましく叫ぶような鳴き声から甘く奏でるような囀りまで、何層もの声が重なりあっていた。どこかで犬が吠える。首都で長く親しんできた、途切れなく行き交う車の走行音は聞こえない。代わりに、誰かの足音が聞こえる。階下を早足で駆け抜ける音、中庭に通じる扉が開く音、板張りの廊下を歩む杖の音、低くささやくような笑い声が聞こえる。首都の家でも、誰かの足音や、椅子を引く音はいつも聞こえていた。階下の住民は気難しくて、幼いユハがはしゃいで部屋を走りまわると、すぐ母に小言を言いに来ていた。でも今は、こんな広い家の中に、知っている人しかいないのだ。それはとても奇妙に思えた。
 嬉しいことに夢は見なかった。目を覚ますと、どうやら夕方だった。誰かが様子を見に来たのか、いつのまにかお腹の上にブランケットが掛けられている。頭痛もましになっていたので、ユハはゆっくりと荷解きを始めた。お気に入りの服たち、首都の学校で使っていた教科書、ノート、文房具、お別れに貰った手紙。船便で別送した荷物が届くまで、ユハの私物はこれで全部だ。一旦、すべてをベッドの上に並べた上で、クローゼットや机や本棚にひとつずつ片付けていく。
 鞄がほぼ空になってから、ふと思い出して内側のファスナーを開けると、出発前に追加で押しこんだノート、なぜか鉛筆が数本、そして白く日焼けした大判の世界地図が出てきた。自室の壁に長年貼っていたものだ。荷造りのときに捨てたとばかり思っていた。ユハは地図を広げ、ごみ箱に視線を向けたが、思い直して立ち上がった。さてどこに貼ろうかと部屋を見回し、思わずびくっと身を竦めた。
 半開きのドアの影から誰かがこちらを覗いている。それも二人。どちらも子供だ。ユハと目が合ったとたん、一人は飛びあがって逃げだしたが、もう一人の少女は堂々と部屋に入ってきた。
「こんにちは」
「ああ、ええと、こんにちは。初めまして」
「あなたがユハお姉ちゃん?」
 少女の背は低かった。ユハは目線を合わせるために屈みながら、見た目にそぐわない彼女の落ち着きに却ってどぎまぎすることになった。ユハの返事を待たず、少女は頷いた。
「だよね知ってる、母さんが言ってたもん。首都から来たんでしょ、それで今日から私たちと一緒に住むんだよね。ねえ首都ってどんなところ? こっちの家の方がずっと良いでしょ? あ、私ね、アジュだよ。さっき逃げたのがチジュ、私の弟。双子のね。あいつ臆病なの、ちょっと待って、いま呼ぶから……ほら、チジュ、隠れてないで出てきなよ!」
 恐る恐る、といった程で、丸っこい男の子が顔を出した。「こんにちは」と小さな声で呟きはしたものの、部屋に入ってこようとはしない。アジュの方は好奇心が強いらしく、部屋のあちこちを見てまわり、机に置かれたユハの教科書にすばやく目を留めた。
「お姉ちゃん、年いくつ?」
「十六だよ」
「十六かー、すごい! おとな! ねえそれ、さっきから持ってるやつ、なに? 地図?」
 くるくると関心が移り変わるアジュの忙しなさに微笑みながら、ユハは地図を床に広げてみせた。アジュはパッと地図の一点を指差した。赤道の南側、この国の端に位置する、海に囲まれた半島の一角。
「ここ! 私たちの町、ここでしょ。お姉ちゃんが住んでたのはどこ?」
 ユハは現在地から北へ北へと指先を滑らせ、赤道からぐんと北上した大陸の湾岸でくるりと円を描いた。地図で見ると改めてその距離を実感する。時差こそないものの、飛行機で四時間も掛かるのだから相当なものだ。
「どれぐらい遠いの?」
「どれぐらい……」
 伝わりやすい距離の概念について考えてから、「車だと何日も掛かるくらいかな」と答える。アジュはわかったような顔で頷いた。
「その地図どこに貼るの? ベッドの上とかどう? そこの壁がいちばん平らだよ。いま画鋲持ってきてあげる」
 そう言うと、アジュは走って部屋を飛びだし、すぐさま画鋲を手に戻ってきた。これは実際に貼ってみせるまで解放してもらえそうもない、とユハは苦笑してベッドに登った。壁に地図をあてがいながら具合のよい位置を探していると、いつのまにかそばに来ていたチジュが「違うよ」と言った。
「向きが違うよ。逆さまだよ」
「え?」
「あ、そういえば、おじいちゃんの部屋で見た地図、その向きじゃなかったかも」
 上下逆。たしか南半球では、地図も地球儀も北半球のそれとは逆の形が一般的だと、地理の授業で聞いたような覚えがある。ユハは南が上になるように地図をひっくり返し、壁に留めた。
「これでいい?」
 チジュは満足げに頷いた。そしてユハの手を掴み、小さな声で首都の話をせがんだ。隣でアジュが飛び跳ねながら「ずるいずるい」と叫び、辺りを案内するといって聞かないので、散歩しながら話をすることになった。
 誰かと手を繋いで歩くなんて、いったい何年ぶりのことだろう。

第二章 歌う雨の町

3. 鳥市場

首都から船便で別送した荷物が届く頃になっても、母はなかなか荷解きが進まなかった。新しい職場も相変わらず多忙らしい。夜は遅くまで帰ってこないし、朝も誰より早く出かけていく。隣りあう母の部屋の蝶番が軋み、ユハは薄く目を開けた。天井が早朝の光で金色に染まっている。足音が廊下を遠ざかる。
「いってらっしゃい……」
 まだ半ば夢の中にいるような心地で、ユハは見送りの言葉を呟いた。そしてまた眠りに戻る。首都で暮らしていたときと同じように。
 新しい家に慣れるのは大変だった。まず、騒音を立てても何も問題ないことを身体に納得させるのに時間が掛かった。扉を静かに閉めなくても、アジュとチジュが廊下で盛大に追い駆けっこをしても、ここでは誰も気に留めない。ちょっと叫んだ程度では、裏手の森と広い庭に掻き消されて、隣近所に何も聞こえやしないのだ。階下に足音を響かせない歩き方はもうユハの身に染みついていて、普通に近づいたつもりでも、キアウィを何度か驚かせてしまった。「うわっ、びっくりした、足音しなかったよね?」と言われて以来、ユハは意識して重心の位置を変え、ぱたぱたと歩くようにした。この家の誰も、人の気に障らない歩き方をしようだなんて、考えたこともないみたいだった。中でもアジュは特に賑やかで、隣の部屋に居るときはすぐにわかった。床を踏み鳴らすステップに、調子外れの元気な歌声。ほとんどはデタラメな歌詞だったから、踊る方が主軸だったのかもしれない。ときどきキアウィも一緒に歌っていた。キアウィは歌が上手で、機嫌がよいときには口笛も吹いた。ハミングのときもあった。洗濯や炊事といった家事の合間にも歌は絶えず、ユハが手伝いに顔を出すと、キアウィは照れくさそうにしながら好きな歌をいくつか教えてくれた。
 すぐに、ユハはアジュとチジュから名前で呼ばれるようになった。どうやら友達として認定されたらしい。ユハ、ユハと呼ばれながら一緒に遊んだり町を散歩したりするのは、年下の友人に慕われているようで楽しかった。二人はニイジェのことも友達扱いしていた。
 ——あの日、ユハのベッドで寝ていた樹木は、もう家のどこにも現れなかった。最初の数日こそ、ユハは部屋に入る前に毎回ドアの隙間から中を確認していたのだが、まったく何も起きないので少しずつ思い出さなくなり、きっとゲアのための作り話の一環だったのだろうと結論づけて、気にしなくなった。ユハの部屋は眺望に優れ、風通しも良く、蒸し暑い夜でも窓を開ければ、夜露の匂いに包まれて気持ちよく眠れた。一度だけ、ベッドの周りにちゃんと蚊帳を吊らなかったので翌朝ひどいことになったが。
 この町の朝は長い。母が出かけたあと、うとうとと微睡んでいると、太陽の高度が上がるにつれて家のあちこちで物音が生じてゆく。コツン、コツンと杖を打ち鳴らし、ゲアが中庭へ散歩に出てくる。半ば野生化した鶏たちが裏手の森で刻を告げる。階下のどこかで扉が開き、ふたたび閉まる。ほら、起きなさい、と隣の部屋からキアウィの声が聞こえる。アジュが何か喚いている。こうなるともう眠っていられないので、ユハは身支度を整える。長い廊下、階段、しんと閉ざされた空き部屋が、木の虚のように、朝の音を反響させていた。
 廊下に出ると、キアウィとチジュに鉢合わせた。毎朝のことながら、二人とも寝癖がものすごい。
「おはよ、もう毎朝うるさいでしょ、ごめんねえ」とキアウィ。部屋の中ではアジュがベッドに引っくり返っていた。彼女の寝起きの悪さは引っ越し翌日には理解させられていたので、ユハは優しく声をかけた。
「今日は市場に行くんじゃなかったっけ? あんまり遅いと置いてっちゃうよ」
 盛大な唸り声。絶対だめ、ユハのばか、と聞き取れたような気がしないでもない。「あの調子じゃ、あと三十分は絶対に起きない」とチジュが請合い、先に階下へ降りることに決まった。
 かつてゲストハウスだったという頃の名残なのか、キアウィが作る朝食には、どことなく宿の気配がした。パンと瓶詰めジャム、個包装のチョコレート、茹で卵、シロップ漬けのカットフルーツ。手間が掛からず、温め直す必要もなく、一人一人が好きな時に好きな量を食べられる。
「これが一番いいの。アジュはねぼすけだし、父さんはせっかちだし、全員揃って食べるなんて無理に決まってるんだから」
 食堂では、珍しくニイジェが先に席について、というより、テーブルに突っ伏していた。彼はこれまで、一同がすっかり朝食を終えた頃にふらっと現れてチョコレートを摘むくらいがせいぜいで、話しかけても反応の鈍いことが多かった。アジュと同じく朝に弱いひとなんだろう、とユハは考えていた。チジュも同じだったようで、部屋に入るなり「うわ」と声をあげた。
「ニイ、おはよう? 珍しいね」
 ニイジェは目をしょぼしょぼさせながら顔を上げた。
「おはよおう……待ちくたびれたよ」
 欠伸混じりの間延びした挨拶のあと、ニイジェは首を傾げた。額にテーブルの木目の跡が赤くついていた。
「あれ。アジュは? 今日って市の日じゃなかったっけ」
「まだ寝てるよ。じゃなくて、起きてるけど、まだ動かない」とチジュ。
「困ったお姫さまだなあ、僕には早起きするように言っといて……じゃあひとつ起こしてこよう」
 ニイジェは怠そうな足取りで廊下に出つつ、キアウィとすれ違いざま、小声で言い添えた。
「台所には入ってないよ」
 ユハがきょとんとしたのを見て、キアウィは受難に耐える遠い眼差しで解説を入れた。
「彼ね、なんでか、めちゃくちゃ食器を割るの。三回持ったら一回は落とすの。だから台所には立ち入り禁止」
「落としてるんじゃない、あいつらが勝手に落ちるんだ」
「これだもの」
 首を振りつつ、キアウィは台所に入っていった。
 ユハとチジュは手分けして皿を並べ、パンをトースターで温めた。そのままではすぐ蝿や蟻に見つかってしまうので、細かな網目の覆いを被せておく。やがてニイジェがアジュを連れて戻ってきた。チジュが目を丸くした。
「すごい。ほんとに起こしてきたの」
「まだちょっと機嫌悪いけどねえ。アジュ、今日はユハも一緒に行くんだろう?」
 席に着いたアジュは、確かにまだ無言ではあったが、しっかり頷いた。
 今日、この町では、月に一度の大きな市が開かれる。アジュが教えてくれたところによれば、普段から開いている食材や日用品の市とは規模も品揃えもまったく異なり、衣服やアクセサリー、雑貨、家具、工芸品、珍しいおもちゃ、鳥や動物まで商われるらしい。彼女が飼っている小さなインコも、この市から迎えたのだという。
 ユハは市場というものに行ったことがなく、首都の市に興味津々なアジュの質問にほとんど答えられなかった。そもそも、あの街にも市場はあったのだろうか。スーパーマーケットやショッピングモールなら沢山あったけれども……。
「ほんとは私も行きたかったんだけど」台所から出てきたキアウィが、茹で上がったばかりの殻付き卵をテーブルに置いた。「ご近所さんの手伝いに呼ばれてて。でもユハちゃんがいるなら安心。この子たちの見張り、よろしくね。あんまり変なものや高いものは買わないように」
「そんなの買ったことないもん」
「大丈夫、ちゃんと見てますから」
 むくれるアジュの背をとんとんと叩いてから、ユハはトーストを齧った。ニイジェは相変わらずチョコレートばかり摘んでいる。途中、ゲアがふらりと中庭からやってきて、機嫌よくパンを平らげ、籠に残っていた茹で卵をポケットに入れると、また外へ出て行った。
 そして、まだ朝の涼しさが残っているうちに、支度は整った。
 すっかり目が覚めて溌剌としたアジュが、待ちきれないと言わんばかりに玄関で踊るようにステップを踏んでいる。
「早く! 早く!」
「待って待って。ほら、帽子。さっきキアさんに言われたばっかりだよ」
「しゅっぱーつ!」
 止める間もなく、アジュは庭先へ駆け出していった。ときどき確かめるようにこちらを振り向いて、駆け戻ったりまた進んだり、円を描いて走りまわっている。ニイジェがぼやいた。
「ありゃあ駄目だ、しばらく疲れさせた方が良いよ、絶対に言うこと聞かないから。僕らはゆっくり行こう」
「ニイジェさん、慣れてるんですね……子どもってこんなに元気だったかなあ」
「君もまだ子どもじゃないか。まあ、僕の場合、むかーしむかし弟たちが小さかった頃もよく面倒を見てたからね。ゲアに比べたらアジュは大人しい方だし」
 ユハは思考に二秒を費やし、ああ、例の、ゲアのための嘘の話か、と思い至った。近くに本人がいる訳でもないのに律儀な人だ。というより、ここまで貫いているからこそ、ボロを出さずにいられるんだろうか。
 やがて駆け戻ってきたアジュを捕まえて、ユハたちは町に向かった。たわいないお喋りをしながらしばらく歩けば、細い脇道は舗装路に変わり、町の大通りへ辿りつく。行き交う人々は普段よりも浮き足立っていて、家族連れも多かった。これは誰かが——というか、アジュが——迷子になりそうだ、とユハはアジュの小さな手を探した。アジュは既にニイジェの手をしっかり握っていた。
「ユハも車が怖いの?」
「うん?」
「ニイはね、車も二輪も怖いんだって! だからあたしが手、握っててあげるの。大人なのにチジュより怖がりなんだよ。でもあたしがいるから大丈夫でしょ?」
「仰るとおりで。いつもありがとう、アジュ」
「ふふん」
「まったく、あんな騒々しい機械が身体の傍すれすれを疾駆しても平気だなんて、信じられないな」
 ニイジェはぶつぶつ言いながら車道から距離を取り、手招きした。
「さあ早く。ぼんやりしてたらすぐ暑くなる。市が立つのは向こうの通りだよ」
 お喋りに興じる二人の後を、ユハはチジュと並んで歩いた。チジュは口数こそ少ないものの、何を考えているかは分かりやすかった。視線が雄弁なのだ。日陰で眠る野良犬をじっと見つめたり、軒先の鳥かごを見上げたり、すれ違った少女の奇抜な柄のリュックサックをいつまでも振り返って眺めたりと、彼の興味がいま何処にあるのかは、見ていれば何となく察せられた。
 チジュのためにゆっくり歩きたいところだが、二人を見失う訳にもいかない。この町の土地勘をユハはまだ身につけられていなかった。
「チジュ、歩くの速かったら教えてね」
「ん。だいじょうぶ」
 薬局のショーケースに並ぶガラス瓶を見ながら、チジュはぼんやりと言った。
「二人ともー! 着いたよ! はやくはやく!」
 人混みに半ば紛れて、アジュが手を振っている。彼女が指し示す先の通りを、ユハは既に二度ほど歩いたことがあった。ごく普通の真っ直ぐな車道で、居並ぶ家屋も小さな商店や住宅ばかり、市場が入るような大きな建物はなかったはずだ。本当にここなのかと問いかけた矢先、通りを塞ぐ大きな立て看板が目に留まった。「定期市につき車両通行止め」。
 車道の風景は一変していた。左右それぞれに鮮やかなパラソルの列が連なり、急ごしらえの日陰の下で脈絡もなく様々な品物が商われている。ある店は路面に茣蓙を敷き、ある店は移動屋台を出し、ある店はただ粗末な机を置いただけで、籠、人形、化粧品、我楽多にしか見えない何か、甘い香りの揚げ菓子や、安っぽいアクセサリーに、山と積まれた果物まで、あらゆるものが並べられ、この小さな町の店と住民の大半が、いま一本の通りに集っているのではないかと思うほど、辺りは騒々しく賑わっていた。ニイジェが腰に手を当てて「さて、今日のお目当てはなんだったかな」と尋ねると、アジュは元気よく手を挙げた。
「新しいサンダル買うんだ! きらきらのやつ! あとね、鳥と、チョコと、お菓子と、色ペンとー、鳥と……」
「全部は駄目。僕がキアに叱られる」
「母さん良いって言ってたもん!」
「はいはい……チジュは今回もお菓子かい? あとドライフルーツ?」
「ん。ココナッツのキャラメル掛けたやつ」
「ユハは何買うの?」
 アジュに問われ、ユハは言い淀んだ。
「私……なんでも……何があるか知らないから、見ながら決めようかな」
「市、はじめてなんでしょ? 面白いのいっぱいあるよ、教えてあげる」
 ユハの空いていた片手に飛びついて、アジュはぐいぐいと先へ進み始めた。
「ほら、ニイも早く、置いてっちゃうよお」
「横暴だなあ……」
「おうぼうって何?」
「褒め言葉だよ」
 ニイジェは割と真顔で適当なことを言う。
「ほんと? じゃ、ニイジェもおうぼうなの?」
「それは難しい質問だね」
 いかにも深刻な声音に、ユハは喉元まで出かかった笑いをなんとか咳きこんで堪えた。アジュは市の風景に夢中で気づかなかったようだが、ニイジェはどうすれば今の発言を都合よく忘れてもらえるか思考を巡らせているようで、あからさまに目が泳いでいた。ユハは助け舟を出すことにした。
「ニイジェさん、それ昔の言い方じゃないですか? 今はもう誰も、そんな褒め言葉、使いませんよ」
「えっ」
「なんだあ。そうだよね、ニイ、実はおじいちゃんより古い人だもんね。あっ、あそこ! 飴菓子屋さん出てる!」
 ふわりと甘い香りが漂う。人混みも恐れず猛然と突き進むアジュに手を引かれてゆくと、背を屈めた店主が、卓上コンロとフライパンという簡易的な屋台設備で、手の平大の生地を次々に薄く焼きあげていた。飴の要素がない、と思う間もなく、アジュが「おばあちゃん」と声を掛けた。
「二個ちょうだい! 中身いっぱい詰めてね!」
「はいよお」
「ユハ、一個あげる。これ安くて美味しいんだよ」
 手渡されたのは、パリパリとした繊維状の飴を、焼き上がったばかりの薄皮で挟んだもので、さくりと齧ってみると柔らかなココナッツの匂いが口いっぱいに甘く広がった。「どうかな?」と見上げてくるアジュに、ユハはにっこりした。
「美味しいよ。ありがとう」
「でしょ? 私のお気に入りなの」
「もう食べてるのかい、早いなあ」
 チジュの手を引いて、ニイジェがやってくる。そう言いながら、彼も手に何か持っていた。アジュの目がきらっと光った。
「ニイこそ、それ何食べてるの?」
「揚げバナナ。美味いよ。あげないよ」
「うっ……ずるい……」
「アジュも良いもの食べてるじゃないか。ユハに買ってもらったの?」
「違うよ! これはねえ、私からユハにあげたの! 市については私の方がお姉さんだから!」
 そんな理由だったのか。後で何か代わりに買ってあげよう、とユハは密かに心に決めた。
「チジュは飴菓子いいの?」とアジュが首を傾げる。
「うん。キャラメルいっぱい買うから」
「こっちも美味しいのに……」
 菓子を齧りながら、一行はぶらぶらと道を下った。絶え間なく呼び込みの声が掛かった。一つ一つ足を止めて覗いていたら、すぐ夕方になってしまいそうだ。アジュはすっかり呼び込みに慣れていて、ほとんどの声を聞き流し、目当ての靴の露店で足を止めると、茣蓙に並べられた子供用のサンダルを片っ端から試し履きし、値引き交渉までやってのけた。チジュは宣言どおり、ドライフルーツと、ココナッツのキャラメル菓子を思いきり買いこんだ。二人の買い物はニイジェが支払い、彼自身もひょいひょいと氷菓やジュースを買い食いしていた。
 さっきの飴菓子のお礼にと、ユハが文房具の出店で色ペンを選んでいると、ふとアジュが人混みに手を振った。
「誰かいたの?」
「うん、学校の子。さっきから何人も擦れ違ってる。今日はみんなここにいるんじゃないかなあ」
 そういうものか、とユハは行き交う子供たちを見やった。長期休みが明けたら、自分も新しい友人と此処を歩くようになるんだろうか。
 太陽が天頂へ近づき、暑くなってきた。ところどころ、急ごしらえのビニール屋根が車道に差し渡され、人々に日陰を提供していたが、それでも汗は滲む。アジュの口数も少なくなりはじめ、ニイジェが「そろそろ休憩しようか」と一行を先導した。
 通りの突き当たりは広場だった。中心に大きなガジュマルがそびえ、その木陰に寄り添うように、数件の食堂が屋外席を設けている。大半のテーブルに先客がいたものの、チジュが上手い具合に空席を見つけてくれた。
 アルミのテーブルはひんやりとして心地よく、席についたとたん、アジュは両腕と頬を交互にテーブルに押しつけ、涼しさを堪能していた。ニイジェが背もたれに頭を預け、深く嘆息する。
「ああ疲れた。さすがに人酔いしたよ」
「人混み、苦手なんですか?」
「まあね。というか大勢の声があんまり好きじゃないんだ、聞き分けるのが大変だから。でもこの店は良いね。涼しいし、枝葉のざわめきで遠くの声はかき消されるし。あとは美味しければ文句なしだ」
 メニューを携えてやってきた店員に、ニイジェは次々と料理を注文した。アジュとチジュがそれに続く。ユハはふと心配になり、財布にいくら入っているかをテーブルの下でそっと確認した。先ほどのニイジェの散財っぷりから見て、いざ会計というときにお金が足りないということもあるかもしれない。財布の中身は少々心許なかったので、ユハは野菜スープだけを頼んだ。ニイジェが片眉を上げた。
「それだけで足りる? ユハって少食だったっけ」
「さっきお菓子いっぱい食べちゃったから」
「どうせこの後もあちこち連れ回されるんだから、今のうちに食べといた方がいいよ」
 そして声を落とし、アジュとチジュに聞こえないようにしながら、ニイジェは耳打ちした。
「今日はゲアにけっこうお小遣い貰ってるから、お金の心配もないし」
 だからあんなに容赦なく買い食いをしていたのか。ユハは笑って店員を呼びとめ、ココナッツミルクの蒸し米と、甘辛いソースの鶏肉炒めを追加した。
 市で摘んだ菓子は別腹だと言わんばかりに、アジュもチジュも、そしてニイジェも、時間をかけてたっぷりと昼食を摂った。いつのまにか食後の甘味まで注文されていた。柔らかく茹であがった一口大の白玉に、砕いたピーナッツと温かなキャラメルソースが掛けられたそれは、特にチジュの好物だったらしく、チジュは運ばれてくる皿を見つめながら息を呑み、背筋まで正したほどだった。
「母さんも来れば良かったのに」
 チジュの呟きに、アジュもこくこくと頷いた。ユハは「そうだねえ」と相槌を打ちながら、ふと考えた。もし声を掛けたら母も来るだろうか。たぶん無理だろう。休日も疲労でぐったりしていることが多いのだし。テーブルに肘を付き、二人に笑いかける。
「次は五人で来ようね。ここのお店ほんとうに美味しいもの」
「うん! ね、ニイ、この揚げ菓子も頼もうよ。持ち帰りで。母さんのお土産にするの」
「そりゃいいや。僕もゲアに何か買って帰ろうかな。ここまで連れてくるのはちょっと大変だし」
「キアさんに頼んだら、車出してくれるんじゃないですか?」
「僕が駄目なんだよ。一回試しに乗ったらひどいことになった」
 ニイジェは大仰な身振りでひとしきり車酔いの様子を実演すると、自分の腕を枕にしてテーブルへ凭れかかった。
「さて、食休みも兼ねて、僕はちょっと昼寝するよ」
「ええー! もういっぱい休んだじゃん、鳥市場だってまだ行ってないのに」
「そろそろ通り雨が来そうだし」
 雨、と聞いたとたん、アジュはぴたりと抗議の声を引っこめた。それどころか、「じゃあ私も寝よー」と言って、ニイジェと同じようにテーブルに伏せてしまった。チジュがちらりとユハを見上げ、秘密を分け合うような声音で囁いた。
「ニイの天気予報はぜったい外れないんだ」
「……なら、向こうの席に移動した方がいいんじゃ」
「大丈夫だよ、これだけ立派なガジュマルの下なら。土砂降りにでもならない限りは安心さ」
 そしてニイジェはひとつ欠伸をすると、本当に寝入ってしまった。
 ユハは半信半疑のまま、所在なく辺りを眺めてから、もう中身が分かっているメニュー表を一ページ目から順にめくりはじめた。小さな町とはいえ一応は観光地なのだろう、旅行者向けに多言語で併記された料理名を、暇つぶしも兼ねて、知らない単語の意味を推測するように読み進めてゆく。時折、飲みかけのジュース目掛けて蝿が飛んでくるので、あまり気が抜けなかった。
 魚料理に差し掛かったところで、鋭く吹いてきた風がページをめくった。見れば、空には低く雲が垂れ込め、めまぐるしく灰色の濃淡を湧き立たせていた。あっという間に、本当に、雨が落ちてきた。
 頭上を覆うガジュマルの枝葉に雨が落ち、樹木の天蓋の外に雨が落ち、水しぶきを立てながら、地面を暗く濡らした。ニイジェが言っていたことは本当で、ガジュマルの木陰は傘のように雨を遮り、葉先から零れた雫が気まぐれに落ちてくる他は、まったくの平穏だった。数人が雨宿りに駆けこんできた。
 呼び込みの喧騒も、鳥たちの声も、激しい雨音に塗りつぶされて、世界が急に静かになってしまったようだった。風も冷たく、半袖では肌寒いほどだ。風を避けるように、チジュが椅子を動かし、ユハによりかかった。雨は十五分ほど降りつづけ、ガジュマルの傘の外から流れこんできた水流が屋外席の下にいくつも水溜りをこしらえたが、席を立つ客はいなかった。
 やがて雨音が弱まる頃にニイジェは顔を上げ、隣で寝息を立てているアジュを揺り起こした。どうやらうたた寝に留まっていたらしく、アジュはぐずることなく目を覚まし、両手で顔をこすった。
 あたりが明るくなってきた。雨の名残がぱらぱらと注ぐ中、雲の切れ間から太陽が顔を出し、水滴という水滴、水溜りという水溜りを、宝石のように輝かせた。通りが賑やかさを取り戻してゆく。暑さが和らいだことに喜びながら、一行は食堂を後にした。次の目的地は、アジュが心待ちにしていた鳥市場だ。
 ユハが閉口したのはただひとつ、この町の水捌けが悪すぎることだった。場所によっては、周囲の雨水がすべて流れこむような通りもあり、車道はちょっとした泥色の川になっていた。通り雨程度では大した水深にはならないものの、たまに思いやりのない車や三輪自転車が水しぶきを上げて疾走していくので、道の際ぎりぎりを歩かなければならなかった。アジュとチジュはもう慣れっこになっていたが、ニイジェは泥を跳ねられるたびに短い悲鳴をあげ、「あんな野蛮な乗り物」云々と文句を言った。
 幸い、鳥市場は、緩い坂道を登った先にあった。雨水は留まらず、道は早くも乾きはじめている。あらゆる鳥たちの賑やかな鳴き声と、ツンと鼻につく匂いが漂ってきた。
「着いたー!」
 アジュは鞠のように飛び跳ねて、ユハのまわりを走り回ったかと思うと、奥へ突進していった。
 数え切れないほどの鳥籠が、封鎖された車道を埋め尽くしていた。小さな竹製の鳥籠には鮮やかなインコが、優美な真鍮の鳥籠には文鳥とカナリアが、大人一人でやっと抱えられるような巨大なケージにはオウムが、さまざまな声のお喋りに花を咲かせ、天井つきの柵の中では鶏とガチョウとアヒルとがうろつきまわり(どうも食用として買いに来たらしい老人が、肉付きが悪いと言ってしつこく値切りを試みていた)、路上に置かれた木箱の中ではヒヨコたちが身を寄せあい、さらに車道だけでは足りないとでも言うように、店という店の軒先には隙間なく鳥籠が吊り下げられていた。先ほどの市場に比べれば小規模ではあるものの、軽く見積もっても、この一本の通りに数百羽の鳥たちが集まっているのは間違いなかった。ユハは圧倒されて、チジュに手を引かれるまま、鳥籠と鳥籠の間をすり抜けるように歩いていった。鳥たちの声は絶え間なく、静寂と沈黙の居場所はなかった。
 通りの中程で、アジュは大きな鳥籠の前に座りこみ、中にいるオウムを一心に見つめていた。店番の男がこちらに気づき、新聞を脇に置いて立ち上がった。
「やあチジュ。今日はニイジェもいるのか。ぼちぼち来る頃だと思ったよ」
「こんにちは」
「そちらのお嬢さんは?」
「ユハ姉ちゃん。ちょっと前から一緒に住んでる。首都から来たんだよ」
「へえ? 君らの家はほんとに賑やかだな。はじめましてユハ、俺はロゥロゥだ。見てのとおり、鳥類全般の商いをしてる」
 ロゥロゥが歌うように口笛を吹くと、彼の店に並ぶお喋りな鳥たちはたちまちその音程を真似て歌った。
「うまいもんだろ、上手に歌う鳥ほど売れっ子でね、仕込みがいがあるよ。この町には慣れたかね? まあ、たぶん今日は、そこの強情お嬢さんに引っ張られて来たんだろうが」
 アジュが頬を膨らませ、ロゥロゥに抗議の目を向けた。
「いま悪口言ったでしょ。いじわる」
「へいへい。この子はうちの瑠璃色に夢中なのさ。市が立つ度にこのとおり、一時間でも二時間でも動きやしない……。なあ、アジュよ、毎回言ってるがそいつは売り物だ。うちは動物園じゃない。会えるのは、こいつの買い手が見つかるまでだぞ」
「わかってる」
 アジュの肩越しに、ユハは鳥籠を覗きこんだ。猫よりも大きい体躯、整った尾羽、夜明けのような深い紺碧と明るい浅葱色に輝く翼——一目で高級とわかるオウムが、ゆったりと羽繕いをしていた。思わず感嘆の声を漏らすと、アジュが目を光らせて、一息にまくしたてた。
「かっこいいでしょ? すっごくかっこいいでしょ。ねえほら、くちばしも足も真っ黒なんだよ、すごいよね、殻付きのナッツも一発で砕いちゃうんだから」
「こいつ一羽で、だいたい大人の月給三ヶ月分だな」とロゥロゥが注釈を入れた。
「この辺にも動物園がありゃ良かったんだが。高価すぎて、なかなか買い手がつかねえんだ」
「ユハは動物園行ったことある?」
 チジュに問われて、ユハは少し考えてから頷いた。たしか学校へ通いはじめた頃に、一度か二度、連れて行ってもらったはずだ。もう何年も前のことで、記憶はおぼろげだった。
「いいなあ。僕らはまだ無いんだ。あとでアジュがいっぱい質問すると思うよ、今はそれどころじゃないから忘れてるみたいだけど」
 そして、チジュは勝手知ったる様子で店の奥に入ってゆき、ベンチに腰掛けた。大人が五人もいたら満員になってしまうような小さな店だったが、壁沿いに重ねられた鳥籠から、路上に負けず劣らずの賑やかな囀りが響いてくる。チジュがこちらを見て何か言った。チジュの控えめな声は鳥たちに遮られ、ユハは二度も聞き返さなくてはいけなかった。チジュは気まずそうにしながらも、彼なりの大きな声で繰り返した。
「僕、アジュとここで待ってる」
「ここで?」
 思わずロゥロゥを見やると、彼は新聞を広げながら無造作に片手を振った。
「良い、良い。いつものことだ。二時間くらいしたら戻ってきなよ」
 どうやら二人は本気でここに長居するつもりらしい。そういえば先ほどからニイジェの姿も見当たらない。ユハはロゥロゥの店の外観を覚えた上で、辺りを歩き回ってみた。はしゃぐ子どもも大勢居るのに、あまり人の声が耳に入ってこない。高い音域が鳥たちの鳴き声で占拠されているのだ。店先の男たちの世間話の方がまだいくらか聞きとれた。試しにニイジェの名を呼んでみても、どこまで声が届いているのかまったく自信が持てなかった。
 どうしよう、チジュと一緒に待っていようか、と引き返しかけたところで、街路樹に寄りかかってぼんやりと空を眺めているニイジェを見つけた。ロゥロゥの店からさほど離れていない場所だ。おそらく一度は気付かずに素通りしてしまったのだろう。
 木に背を預けているニイジェは不思議なほど風景に溶けこんでいて、ユハはふと、声を掛けるのをためらった。まごまごしている内にニイジェの方がユハに気づき、深緑色の瞳にぱっと焦点が戻った。
「ユハじゃないか。うちの強情お姫様は……ああ、いいや、その顔、聞かなくてもわかった。今回も足に根っこが生えたんだろ。ああなったら宥めても懇願しても動かないから、気が済むまで放っとくしかないよ」
「あそこまで鳥好きだとは思わなかったです……。ロゥロゥさんは、二時間くらいしたら戻ってこいって言ってました」
「妥当なところだね。僕も前の付き添いでそれくらい待たされた」
 そう言って、ニイジェは大きく欠伸をした。さっきまで昼寝していたような、と呟く代わりに、ユハは辺りの鳥籠に目をやった。
「私、こんなに沢山の鳥、生まれて初めて見ました」
「ええ? ああそうか、ユハは首都育ちだったっけ。向こうには鳥市場がないの?」
「どうだろう……あったのかもしれないけど、連れて行ってもらったことはないです。近所の人も鳥は飼ってなかったみたいだし」
「変わってるなあ。それじゃ、適当に散歩でもしながら時間を潰そうか」
 道すがら、ニイジェはぽつぽつと鳥市場のことを教えてくれた。じつは常設の店は数軒に過ぎないこと。定期市のときだけ、周辺の町に住む店主たちが鳥を引き連れてやってきて、この通りを鳥市場に変貌させていること。他にも、鳥の値打ちは籠を見ればだいたい分かる(高級な鳥は立派な籠を占有し、安価な鳥は竹製の籠に詰めこまれる)、軒先に吊り下げている鳥籠が多い店ほど良心的(猫避けと暑さ対策に気を配っている)、森で捕まえた野鳥は綺麗すぎる店にも汚すぎる店にも売ってはいけない(前者には売れない、後者には買い叩かれる)などなど。どこか盛っている部分もありそうな話し振りだったが、ユハは相槌を打ちながらニイジェの後について歩いた。ニイジェの声は低く、鳥たちの喧騒に紛れないので、聞きとりやすいのがありがたかった。
 通りの小さな空き地に屋台と大道芸が出ていた。歓声をあげる子どもたちの頭上すれすれにコンゴウインコが旋回したり、人懐こそうなヨウムがマイクに向かって電話のものまねを披露したり、とても賑やかだ。ニイジェと並んで遠巻きに大道芸を見物しながら、ユハはふと動物園のショーを思い出した。今の今までほとんど忘れていた。ロゥロゥは「うちは動物園じゃない」なんて言っていたが、こうして見るとそっくりだと思う。明るい光も、拍手混じりの歓声も。
 ときどき休憩も挟みながら、市場を端まで巡った。途中、立派なオウムが買われてゆく場面に出くわした。家族総出で狭い店内に集まり、幼い兄弟が鳥籠のオウムにあれこれと話しかける横で、父親が何十枚もの紙幣を店主に数えさせている。その金額にユハは思わず「うわあ」と呟き、ニイジェを笑わせた。ユハは気まずさをごまかすように早口で言った。
「この町の人たちはみんな鳥が好きだって、キアさんが」
「鳥好きどころじゃないよ、ここらの人はみんな鳥狂いだ。なぜだか知ってるかい?」
 ユハが首を振ると、ニイジェは声をさらに低めて囁いた。
「魔除けだよ。鳥を飼うことは家を守ることになる、訪れる魔の手から家族を守ることになる、朝昼夜という秩序だった時間の流れに各々を引き戻すというんだ、鳥の歌声は。僕はこの通りにいるとときどき、狂人のふりをして鳥籠という鳥籠を叩き壊したいときがあるね、千羽もの売り物たる鳥たちが一斉にこの通りから飛び立ったらさぞ愉快だろうなあ!」
 ニイジェは笑いながらユハの顔を見て、黙りこみ、溜息をついた。
「冗談だよ。もしそんなことをしたって、最初の鳥籠を壊したところで取っ捕まって、犬よりも酷い目に遭うだろうさ。ねえ、ユハ、君は信じないかもしれないけど、この通りは僕が小さな子供だった頃から何も変わってないんだよ」

4. 雲と煙の兄弟

そろそろ二人を迎えにゆく頃合いだった。夕暮れが近づいて、市場に響く声も変わっていった。
 籠の中で眠っていたフクロウたちが目を覚まし、人間をじっと見つめている。気の早い店はもうワゴン車の荷台に鳥籠を積みこんでいる。すれ違いざま、固定された鳥籠の列を横目に、ユハは空港からこの町までの道のりを思い、運転手が揺れの少ない道を知っていますようにと願った。
 ロゥロゥの店で、アジュはとても満足そうに待っていた。あの瑠璃色のオウムと心ゆくまでお喋りし、おやつをあげることまで許され、しかも手のひらから直に食べてくれたのだという。
「ロゥロゥがね、ちょっとだけ籠から出してくれたの! ちゃんと足は繋いであるんだけど、それでもすっごくどきどきしちゃった。ほらあそこの止まり木に乗せてね、それで……」
「まあ、ずっと籠の中に入れといても健康に悪いしな。この子が遊んでくれるんならちょうどいいんだ。そういう店の方が、客も入ってきやすいんだよ」
 ロゥロゥは照れ隠しのように咳払いし、アジュの背をぽんと叩いた。
「またいつでも来ればいいさ。それより、チジュの奴は待ちくたびれて眠ってるぞ。奥のベンチだ。起こしてこようか?」
「ああ、頼むよ。今日はユハの案内で張りきってたし、疲れたんだろうねえ」
 起きてきたチジュはまだ少しぐらぐらしていた。「ちゃんと歩いてくれよ」と笑いながら、ニイジェはチジュの荷物を全部引き受けた。
 帰り際、アジュはそれまでのお喋りが嘘のように静かになって、オウムを見つめた。ニイジェはアジュを急かすことなく、じっと待っていた。やがて、アジュはオウムに手を振った。
「さよなら」
 そして真っすぐに走ってくると、ユハの腕に抱きついた。
「もういいの?」
「うん」
「それじゃ帰ろうか。楽しかったねえ」
 来た時とは違う道を通って、四人は帰途に着いた。ニイジェもアジュも、この時間の市は通りたくないのだという。夕暮れどきの涼やかな風に活気を取り戻した人々が、車道へ一挙に押し寄せて、歩くのも大変な有様になるらしい。
「遠回りではあるけど、夕方の市を歩くよりはよっぽどましだね」
「ねー。賑やかで楽しいけど、あんなに人がいっぱいいると、何にも見えないもの」
「そんなにすごいんだ……。逆に、ちょっと見てみたいかも」
「ええー、私、ついてかないよ。ニイと行ってね」
「僕がいちばん人混み苦手なのに……。まあ、学校の友達ができたら一緒に行けば良いんじゃないか。いっそ夜の方がおすすめだよ。人混みも多少落ちつくし、屋台なら遅い時間までやってるから」
 町の中心を避けて進むにつれ、人家や商店よりも、畑や水田が目立つようになってきた。道沿いにも木々が増え、草むらからは虫の羽音が、水辺からは低く這うような蛙の声が聞こえてくる。首都で育ったユハにとって、人の気配の薄い風景はどこか現実味がなかった。
 先を歩いていたニイジェが振り返り、「ユハぁ」と呼びかけた。
「そんなところで突っ立ってたら、蚊に刺されるよ。そりゃもう、ぼこぼこに」
 はっと我に返ると、二の腕にまさしく蚊が止まっているところだった。すぐに手のひらを打ち付けたが一足遅く、潰れた蚊から点々と赤い血が散った。アジュが声をあげて笑った。
「ユハすごい顔してる。虫除け、もっかい塗り直しとこうっと」
「僕にも頼むよ、今日は涼しいから尚更だ。……っと、チジュ、気をつけて。躓くよ、歩きながら寝てないか?」
 道の舗装が、ところどころ樹木の根の形に歪んでいた。車がやたらと揺れる理由はこれか、とユハは納得した。舗装を持ちあげるほどの強靭な根を張り巡らせ、幾層にも重なりあった樹木が、厚い壁のように鬱蒼と連なり、夕暮れの風に揺れている。——視界を塞ぐ葉陰の向こうで、ふと何かが動いたような気がした。
「なにか珍しい鳥でもいたかい?」
「ちょっとよく見えなかったです」
「どうも鳥じゃなさそうだね。もうすこし暗くなったら、町の方から隊列を組んで帰ってくるのが見えるんだけど。猿は……こんな森の外れまでは来ないかな」
「猿がいるんですか? こんな町の近くに?」
「僕らが近づいていってるのさ、この辺はみんな森を切り拓いて農業してるから。と言っても、彼らが暮らしてるのは森のもっと奥、年寄りの背高たちの上だけどね。ユハは森を散歩したこともないんだっけ?」
「……森って散歩するところじゃないですよね?」
 森どころか、家の裏手の木立にさえ、あまり近づこうとは思わなかった。びっしりと繁茂した下草の陰に、虫やらヒルやら蛇やら、何がいるか分かったものじゃないのに。
 ニイジェが、「見て」と夕日にまぶしく照り映える葉の光沢を指差した。
「森の外れは日当たりが良いから、若木や蔓草がよく育つんだ。だからこんな風に、地面の近くまで緑に覆い尽くされて、人の手をいれなきゃとても歩けない。草も蔓も伸び放題、運の悪い木は何種もの蔓に纏わりつかれて幹の表面が見えなくなってたりするし。確かにそういうところはあんまり散歩向きじゃない、けど、森の奥は違うんだよ。森の奥では、年寄りの巨木たちがひしめく傘のように空を覆う。ほとんど光の届かない地面に落ち葉ばかりが積もって、それもすぐに虫が食べてしまう。新しい種が芽吹いても年中ずっと薄闇だから大きくなれない。そりゃ虫や蛇はいるけど、ユハが思うよりもずっと歩きやすくて、散歩するには良いところなんだよ。それに、地面から何十メートルも上の樹冠で暮らしてるやつの方が多いしね」
 ユハは想像しようとしたが、上手くいかなかった。茜色の光を帯びた枝葉の向こうには黒々とした影ばかりが見え、そのコントラストが却って不安を掻きたてた。首都には、こんなに堂々と、人間を拒む領域はなかった。見通せない緑の向こうに、蛇やヒルよりも恐ろしいものがいてもちっとも不思議じゃないように思える。
 アジュが足音高く駆けてきて、ユハに体当たりするように飛びついた。
「二人とも遅いよー! なになに、森の話?」
「うん。ユハが森を散歩したことないって言うから」
「へええ、変わってるの。私たち、学校の遠足でみんな遺跡の森に行くよ! ね、チジュ」
 寝ぼけ眼を擦りつつチジュが頷き、ニイジェは満足げににっこりした。
「あの森は僕も気に入ってる。正面から行くと入場料取られるけどね」
 木々や田畑の間をしばらく行くと、再び人家が目立つようになり、やがて道は町の大通りに合流した。夕暮れはもう終わりつつあった。外灯の白い光が点り、行き交う車のヘッドライトが時折ぱっと顔に当たる。見慣れた風景に安堵して、ユハはそっと息をついた。
 チジュがふいに爪先立ちになり、アジュの背中を小突いた。
「あれ、母さんじゃない?」 
 見れば、人と人の間を縫うようにして、キアウィが早足で歩いてくる。まだこちらには気づいてはいないらしい。ユハが何か言う前に、アジュはもう駆け出していた。遅れてチジュも走り出し、ユハは慌てて後を追った。
 アジュが勢いよくキアウィに体当たりしながら「ただいまー!」と叫び、キアウィが潰れたような声で呻いた。鳩尾に肘か何かが入ったらしい。
「だ、だいじょうぶですか」
「うぐ……久々にやられたわ……。大丈夫、はあ、会えて良かった。帰りが遅いから心配してたの。迎えに行こうと思って」
 目尻の涙を拭いながら、キアウィはアジュとチジュを交互に撫でた。アジュは存分にキアウィの胸元に甘えてから、菓子の袋を見せた。
「はいこれお土産。チジュからもあるよ!」
「お店の人、おまけしてくれた」
「あらあらこんなに! 二人ともありがとうね。楽しかったみたいで何より。ユハちゃんもありがとう、あちこち連れ回されて大変だったでしょ」
「案内してもらって楽しかったですよ。ニイさんも一緒でしたし」
 のんびり追いついてきたニイジェが、ユハの褒め言葉を聞きつけて、得意げにひらりと手を振った。
 大通りから離れると、外灯の間隔は極端に開く。古ぼけた電柱に取りつけられた灯りが照らす範囲は狭く、家へ続く細道は真っ暗だった。黒々とした切り絵のような木々の下、ちらちらと蛍の光が瞬く。首都の夜道では、たとえ真夜中でも行き交う人の顔を見分けられたが、この道では数歩離れれば誰もが同じような影にしか見えない。キアウィが一行の先頭に立ち、懐中電灯を点した。
「ほんと、この辺りは夜になると歩きにくくて。あんまり道端に寄っちゃ駄目よ、藪の棘が刺さるから」
 ユハの手を引いていたチジュが、ふと振りむいた。
「ユハ、暗いの苦手?」
 すぐにアジュが声高く叫んだ。
「母さん、なにかお話して! ユハが、怖いの忘れちゃうくらい、面白いやつ! 森のお話が良いな、あのね、ユハはまだ森を歩いたことないんだって」
「ええ? うーん……そうねえ、じゃ、母さんがよく話してくれた昔話でも」
 まだ誰もが森に住んでいた頃に、とキアウィは話しはじめた。
 豊かな森の奥深く、雲と煙の兄弟が、人と一緒に暮らしていた。二人は異母兄弟だったが、とても仲が良く、どこへ行くにも一緒だった。そして人よりもずっと長生きだったので、共に暮らす人々は、兄弟が見てきた先祖のお話をよく聞かせてもらった。「おまえの爺さんの婆ちゃんのことかい、よく覚えているよ」と、兄弟は幼子を慈しむように目を細めて、いなくなってしまった人々のことを語った。何を成したか、何を成さなかったのか。どのように産まれ、どのように去り、何が好きだったのか。
「あの子は怪我に効く草を見つけるのがとびきり巧かった。まるで呼び声が聞こえているかのように、数百の草木が絡みあう藪の中から目当ての草を一目で掴み取る。ほっそりした綺麗な指を草の露で緑に染めて、いつも誰かのために薬を作っていたよ」「ときどきおっちょこちょいではあったがねえ」「そう、そう。ああそれと、旦那はいつも尻に敷いてたな、怒らせたらとびきり怖かったんだ」
 自分がいつかここを去っても、兄弟がいつまでも覚えていてくれると知っていたから、人々は嬉しかった。日々の糧のために、森をてんてんと旅する暮らしであっても、誰も苦しいとは思わなかった。けれどあるとき、兄弟を実の親のように慕っていた男が怪我をして、旅を続けられなくなった。彼は自分を置いてゆくようにと妻子に言った。妻子も、男の友人たちも、みな泣いた。それでも、こうして何百年も何千年も暮らしてきたのだと、兄弟の話を聞いて育った家族にはよく分かっていた。兄弟ももちろん分かっていた。そのとき、長い時間の中ではじめて、煙はまだ彼を置いてゆきたくないと思った。「俺がしばらく此処に残ろう」と煙は言った。雲は反対したが、煙が説き伏せた。「後で追いかけるから、先に行ってくれ」
 煙が残るならばと、男の家族もともに残った。人々は、彼らはすぐに男を看取って、追いついてくるだろうと思った。雲もそう考えていた。煙は違うことを考えていた。雲が人々とともに遠くへ行ってしまうと、煙は男の家族のために小さな家を拵えて、家の裏手に繁茂する木々を何本か焼き払い、灰が積もる小さな土地を男に贈った。「お前はまだ死なない。旅を続けられなくても」男は戸惑った。森は気まぐれだと男は身を以て知っていた。「木々が果実を付けない年が八度続いても?」「そう。糧が豊富な土地を探しにゆけなくても。土と灰の名に誓って、お前は長生きするよ」そして煙は、いくつかの種を森から探してくると、灰の土地に蒔いた。燦々と日が当たるその土地に芽吹いた種は、たちまち実を結び、男の家族を長く養った。こんな生き方があるのなら、なぜもっと早く教えてくれなかったのかと男に問われた煙は、「雲が一緒だったから」と答えた。「雲は森が好きなんだ、俺よりもずっと」
 彼らはほんとうに長生きした。森を旅していた別の一族と知り合い、何人かが家族に加わった。やがて男が亡くなったあとも、子孫たちは煙とともに小さく森を焼いては種を蒔き、平和に暮らした。もう雲を追いかけるには時が経ちすぎていた。やがて一人の若者が旅に出たとき、煙は「深い森底を迷わず進んでゆけるように」と、若者の手に地図を焼きつけてやった。「本当は、幻に見つからないよう君を隠してやりたいけれど、それは雲でないとできないから」若者は煙と雲が仲の良い兄弟だったことを知っていたので、一緒に行こうと誘った。「どこかで雲に会えるかもしれない」と若者は言った。
 繋いでいた手を解いて、チジュが駆けだした。
 いつのまにか道は終わっていた。明かりを灯した庭先で、ゲアが星を眺めている。こちらに気づいて手を振るゲアに、チジュが駆け寄ってゆくのを横目に見ながら、キアウィは懐中電灯を消した。
「続きはまた今度ね」
 ええー、とアジュが抗議の声をあげた。
「母さんの今度っていつ? 今日の夜?」
「ほらほら、父さんも待ってるから。早く夕飯にしましょ」
「はあーい」
 並んで歩きながら、ユハはそっとキアウィの肩をつついた。
「あの。また聴きたいです、続き。私も」
 キアウィはたちまち嬉しそうに笑った。
「ほんと? こんな古い話、退屈じゃないかって心配だったんだけど。よかった。じゃ、他にも何か思い出しとかなきゃ」
「森の話なら僕もいくつか語れるよ。ゲアも年の功でたくさん知ってるだろうし、順繰りに話したら一晩だって足りないかもね。今度、焚き火でもしながら皆で話そうか」
「ほんと! ねえ、ニイ、森の話もいいけど、わたし鳥の話がいっぱい聴きたい! 森のてっぺんに住んでるフクロウとか、尻尾が火花みたいに光る孔雀とか、それと——……」
「まったく、この子の鳥狂いは誰に似たんだか……。あのね、ユハちゃん、一人では森に入っちゃ駄目よ。——アジュ、こら、こっち見なさい」
 話の雲行きを見て逃げ出そうとしたアジュを捕まえ、キアウィは溜息をついた。
「あんたは目を離すとすぐ裏の森に突っこんでいくんだから、私の寿命が何年合ったって足りやしない。まあ、ユハちゃんはしっかりしてるから、大丈夫だと思うけど」
「私だってしっかりしてるもん。お姉さんなんだから!」
 アジュはキアウィの腕の中からするりと抜けだすと、「ただいまあ」と言って廊下の電気を点けた。

5. スコールと木々のダンス

市が終わると、町は一転して静けさを取り戻した。
 母は相変わらず、毎朝早く仕事へ出かけてゆき、夜遅くに帰ってくる。ユハは特にすることもなく、家の周囲を散歩したり、町の商店を覗いたり、キアウィの手伝いをしたり、のんびりと過ごしていた。アジュとチジュは、学校の友人と出かけるときを除いては、何かと理由をつけてユハを遊びに誘った。虫取り、木登り、水遊び、庭先の秘密基地作りと、時間が数年巻き戻ったような遊びの顔ぶれにユハは最初のうちこそ戸惑ったが、すぐに目新しさが勝った。いずれもユハの子供時代にはできなかった遊びだった。珊瑚のように美しい実をつける樹木の名前、触ったら皮膚がかぶれる草木の種類、大振りな羽根でふわふわと人を惑わせるように舞う蝶を上手く捕まえるコツを、ユハは二人に教わった。
 ゲアはいつも家にいた。長い年月にすり減った杖を我が身の一部のように扱い、庭先から食堂、回廊、中庭、二階の廊下まで、どこでも器用に歩きまわる。この家の中ならば、ニイジェが支えていなくても特に歩行の支障はないのだと、ユハは気づいていた。ただ、ニイジェと一緒に歩いているときのゲアはどこか幸福そうだったし、ニイジェも進んで世話を焼いているので、別に問題はないのだろう。
 ニイジェはときどきいなくなった。数日姿が見えなくなったかと思うと、何事もなかったようにふらりと戻ってくる。いつものことなのか、誰も心配してはいなかった。家にいるときには、朝から木陰で昼寝をしたり、ゲアの散歩につきあったり、一人でぼんやりと揺れていたり、アジュとチジュと一緒に遊んだりしている。ユハは一度、おそるおそる、「ニイさんって学生……ですか? 仕事とか……?」と尋ねてみたが、何を訊かれているのかさっぱり分からないという顔をされたので、あまり深く気にしないことにした。
 週末、珍しく昼前に起きてきた母が、朝食を摂っていたユハのところへやってきて、隣に座った。まだ半分眠っているような顔で、コーヒーとチョコレートを交互に口に運んでいる。目の下の血色が悪い。ユハはパン籠を母の方へ押しやった。
「母さん、たまにはちゃんと食べて。すごい顔してるよ」
「まだちょっと……パンは胃に入らない……」
 コーヒーが空になる頃、ようやく母は人心地ついたのか、テーブルによりかかって長々と息をついた。
「仕事、ずっと忙しいの?」
「引き継ぎが落ち着いたから、これからは多少楽になるはず。ただ遠いのがね……」
 母はしばらく額を揉みほぐしていたが、ふと改まったような声音で「この家には慣れてきた? 田舎で、何もなくて、退屈でしょう」と言った。
「大丈夫だよ。アジュもチジュも一緒に遊んでくれるし、キアさんも優しいし、ニイさんも……」
「もしかしたら、職場の近くに家を借りられるかもしれないんだけど」
「えっ」
「この辺りは女性だけで家を借りるのが難しくて、交渉が長引いてるの。でも、学校の休み明けまでには決まると思う」
 ユハは俯き、すぐに顔を上げ、疲れた様子の母を見て、窓の向こうに広がる朝の庭を見た。母の生活は、確実に、街に住んだ方がずっと楽になる。それ以上何も考えず「分かった」と言おうとした矢先、母が言葉を継いだ。
「ユハはどうしたい?」
 ユハはまじまじと母の顔を見た。週末の予定を問うような平坦な声の響きに、一緒に来ても良いし、ここに残っても良い、と告げられているのをユハは感じとった。今回は選択の余地があるらしい。街の暮らしがここよりも便利なのは間違いないとしても——少なくとも今よりは虫に悩まされなくて済む——きっとまた、留守番の日々が続くだろう。今まではそれが普通だと思っていた。だが、今はもう、その静けさに耐えられないような気がした。ユハは小さな声で言った。
「私、もう少し、こっちに居てもいい?」
「ええ」
 母は笑った。
「キアにも相談するけど、たぶん二つ返事ね。ユハが来てくれてすごく楽になったって言ってたから」
「母さんはずっと街で暮らすの?」
「いいえ、仕事が落ち着いたら、週末はこっちに帰るようにする。平日は街の家から通勤ね」
「今って片道一時間半掛かるんだっけ」
「そう、忌々しいことに。街の家が借りられれば片道二十分」
「だいぶ短くなるんだね。よかった」
 ユハが笑い返すと、母は口を噤み、空のコーヒーカップを手の中で弄んだ。普段なら気にもならない、カップを受け皿に戻す音が、静寂に落ちる水滴のように強く響き、母の声に重なった。
「実はね、キアに叱られたの。私はいつも言葉が足りなすぎると。今回の引越しも、ユハにまともな説明も相談もしないで連れてきたでしょうって」
「それは……」
「あなたには何かと我慢させてばかりね。ごめんなさい、ユハ。でも、この家を気に入ってくれたなら、よかった。前よりもよく笑うようになったし」
「……うん。最初はびっくりしたけど……今は楽しいよ。母さんの方こそ、無理してない? この町、あんまり好きじゃなかったんでしょう?」
 ユハが生まれてから一度も里帰りをせず、故郷について話そうともしなかった理由なんて、それくらいしか思い浮かばない。母は「良いの、そんなことは」とだけ言って席を立ち、すぐに苦笑して言葉を付け足した。
「まあ確かに好きじゃないけどね、昔のことだから、もう良いの。それじゃ、学校の転入手続きはこのまま進めるから、暇なときにでも通学路を覚えておいてちょうだい」
「はあい」
「休暇中の宿題もちゃんとやっておくこと」
「うっ……はーい……」
 コツリコツリと、遠くから秒針のような音がする。
 ゲアの散歩はおおよその時間が決まっていた。午前中には硬い高音、タイル張りの中庭に佇み、午後にはゆったりとした反響音、板張りの廊下を往復し、涼しい風が吹く夕方には回廊を歩きまわる。回廊の石床を杖で打つ音が聞こえはじめると、ちょうど夕食の支度を手伝いにゆく頃合いだ(母の言葉どおり、キアウィはこれからもユハがこの家に居ると聞いて、同い年の少女のようにはしゃいで喜んだ)。
 その日、昼下がりに、回廊を歩くゲアの杖音が聞こえたとき、ユハは自室で計算問題を解いていた。思わず時計を見る。普段なら中庭のベンチでくつろいでいる時間なのに、何か用事だろうか。ユハは立ち上がり、窓辺に向かった。
 途端、冷たい風が顔に当たった。外は薄闇に包まれていた。庭先の椰子がざわざわと騒ぎ、影を帯びた分厚い黒雲が、空の底を押しつぶすように低く渦を巻いている。一目見て、すぐにでもスコールが来ると分かった。それも、多分、強風を伴う滅茶苦茶なやつだ。風音には雷鳴も混じっていた。床が水びだしになる前にと、ユハは慌てて自室と廊下の窓を閉めに掛かった。
 廊下の硬い窓枠に苦戦しているうち、早くも最初の雨粒がガラスの上でぱっと弾けて、あっという間に土砂降りになった。吹き込む雨はシャワーのように床板を濡らしてゆき、ユハは溜息をついて、雨煙に霞む庭を見下ろした。ゲアはどうしただろう。回廊にいるなら雨宿りはできているはずだが、此処からではよく見えない——
 雨音に紛れて歓声が聞こえた。腹の底から歌うような喜びの声だった。
 ニイジェが回廊から走り出て、降り注ぐスコールの只中へと突っ込んでいった。強風に煽られた傘の骨がたちまち裏返る。役立たずになった傘を躊躇いなく放り投げ、ニイジェは両腕を広げた。こちらには気づいていない、というより、誰かが見ているなんて思いもしていないのか、サンダルを脱ぎ捨てながらその場で前転し、宙を切った両脚がふたたび地面に着く前に、その素足が枝葉へと変わった。両腕は根に、胴は幹に、見覚えのある、あの日ベッドに横たわっていた樹木が、宙返りに失敗して鈍い音とともに大地に転がり、盛大な水しぶきを跳ねあげた。痛ってえ、と笑いまじりの悲鳴が聞こえ、瞬きの間に樹木はニイジェの姿に戻った。ニイジェは草の上に大の字で転がり、ひとしきり笑ってから、また樹木に姿を変えた。
 目が離せなかった。世界から音が消え去ってしまったかのように、激しい雨音も雷鳴もユハの注意を引くことはできなかった。
 窓枠を握りしめ、肘まで雨に濡れてゆくのも気づかずに、ユハは立ち尽くしていた。これまで知っていた、知っていると思っていた世界の輪郭がどこかへ吹き飛ばされてゆく。
 逆さに開いたままの傘が回廊の方へと転がってきた。ゲアが雨の中に歩み出て、ひっくり返った傘の骨を元に戻し、頭上に差しかけた。
「兄さん、家に入る前には泥を落としてくれよ」
「はいはーい」
 風に煽られて傘が傾ぎ、ゲアがこちらを見た。動けずにいるユハと正面から目を合わせ、ゲアはにやりと歯を見せて笑い、「や、すごい雨だなあ」と言った。