呼吸書房

だから自由にどこまでも

周知の事実として、情動は伝染する。
 だから、彼らの狂乱がいったい誰から始まったのか、今となっては確かめようがないし、仮に分かったところで何の慰めにもならない。もはやどうでもいいことだ。
 唯の事実として、今このとき、群衆は狂気に呑まれた。
 人々はあらゆる武器を携え——拳銃、手斧、チェーンソー、猟銃、鉈、鋤、マチェーテ、包丁、納屋から引き出された工具に農具——破壊を尽くしながら一散に路上を駆けた。土煙が立ち、呼吸の度に鼻腔をざらつかせた。思わず咳込みそうになり、男は両手で口を押さえた。ぐぅ、と喉の奥で呻く。その僅かな声量さえも自らの居場所を知らせてしまわないかと恐ろしかった。
 男は路地に身を潜めていた。家屋と家屋の隙間、身体を横に捻った人間が、ようやく一人通れる程度の暗がりだ。男は震えながら、昨日和やかに挨拶を交わしたばかりの善良な老人が、長年可愛がっていた山羊を両断し、その上半身を引きずってゆくのを見た。また、収穫の度に野菜を分けてくれた近所の娘が、自身の畑に灯油をぶちまけて、ライターを投げ入れるのを見た。瑞々しい青菜はすぐには燃えず、彼女は鍬を振るいはじめ、青菜を片っ端から粉微塵にした。彼女の夫が駆けてきて、金属製のスコップで収穫前のエンドウマメを根こそぎに破壊した。
 動物たちは逃げた。家畜は柵を壊し、番犬は鎖を引きちぎった。鳥もことごとく飛び去り、後には植物ばかりが残った。街路樹は切り倒され、植木鉢は踏み砕かれ、子供たちは木の枝で花壇を打ち据え、花弁がばらばらと宙に舞った。周縁の森も無事ではいられず、嵐のような伐採に見舞われた。
 そのすべてを男は見ていた。凄惨な破壊行為の数々に慄きつつも、それ以上に、光景の異様さが男を怯えさせた。人間が人間を壊すのなら、まだ、分かる。因果として理解できる。けれども、彼らの狂気はどこか魔術めいた反転の様相を成し、人間だけを不自然に除外して、何の憎悪も脈絡もなく、人間以外の生物すべてに向けられていた。
 この路地から出て行っても、男には何の危険もないだろう。隣人と目が合えば、きっと相手は穏やかに笑い、いつものように挨拶をして、「なんだい、君、素手じゃ何もできやしないよ!」と、濡れた鉈を差し出すだろう。もし断っても、隣人たちの親切は無限に続くだろう。男が武器を手にするまで。
 いずれ自分も狂気に呑まれる。男は直感的にそれが分かった。
 ここから逃げなくては。
 次々切り倒される巨木の、数トンの質量が大地に叩きつけられる音、チェーンソーの唸り、人々の歓声がふいに止み、驚愕と怒号に取って変わった。
「樹木が逃げるぞ!」
 土壌から動けずに、破壊を一身に引き受けていた樹木たちが、根を引き抜き、数十年と連れ添った生まれ故郷の土を捨て、走りはじめる。地響きが轟く。セコイアの根は大蛇のような強靭さで土塊を吹き飛ばし、数十メートルの巨躯のまま、樹皮を軋ませ、アカシアは麒麟に、マホガニーは犀に、ナツメヤシは蛇喰鷲に、リュウゼツランは真孔雀に、タマリンドは川馬に、ユーフォルビアは白蟻の群れへとその形を変えてゆく。
 疾駆する巨木には誰も追いつけない。人間たちは右往左往しながら、若木を狙えと知らせあった。若木の根は頼りなく、変身もままならず、地面に倒れた幼いシアの木はたちまち切り刻まれた。路地の男は呆然と立ち尽くしていたが、小さなバオバブがこちらへ走ってくることに気がつくと、とっさに路上へ飛び出した。バオバブは明らかに動揺し、背後を振り仰いだ。群衆が迫っていた。挟まれた、という樹木の呻き声が聞こえた気がした。
 男はバオバブに突進し、幹に手を沿え、突き飛ばすように路地へ押しこんだ。「こっちへ」と口走ったかどうか、定かではない。バオバブの幼木は男よりも背が低かった。
 群衆の一人、とびきり目の良い若者が、匿われるバオバブを目撃していた。叫びが次々に男のもとまで打ち寄せた。考えている暇はない。男はバオバブを抱え上げた。
 少しでも遠くへ。彼らの手が届かない場所へ。
 男は懸命に走った。最初のうち、バオバブは無闇に根をばたつかせていたが、やがて男に害意はないと理解したようだった。二人は長い路地を抜け、粉砕された畑を踏み越え、逃げまどうアレカヤシの群れを横切り、いくつもの川を渡った。群衆はまだ追ってくる。脇腹が鋭く痛み、男は喘いだ。とうとう石に躓いたとき、自分の身体がバオバブの細い枝葉を粉々に押し潰す感覚を幻視して、男は叫んだ。けれどもそうはならなかった。倒れかかった男の腕をバオバブが支え、ぐいと引き戻した。
 そして二人は走り続けた。人間の足では到底耐えられないはずの距離を、人間よりもずっと速く。耳元で轟々と風が唸り、人の声をかき消した。人の声はもう聞こえなかった。
 足裏に触れる土の温度が変わった。
 爽やかな風が吹き抜ける針葉樹林に二人は辿り着いていた。春の盛りだった。駒鳥の歌声、蜜蜂の羽音、男の故郷では一度も目にしたことのない、はちみつ色の野薔薇が咲き乱れて、木漏れ日を甘い香りで染めていた。
 二人は寄り添って、森の小道を彷徨い歩いた。破壊の痕跡も、狂気の徴も、どこにも見当たらない。それでも男は数歩ごとに背後を振り返った。今にも、この静かな森に群衆の足音が聞こえるのではないかと思うと、足を止める気にはなれなかった。
 だからバオバブが立ち止まったとき、男は途方に暮れた。
「なあ、だめだ、逃げなきゃ」
 枝を引いても、びくともしない。仕方なしに、身体ごと持ち上げようとすると、バオバブは根をしならせて男の手を打ち、何かを指すような素振りをした。
 バオバブが示す先には、小さな家があった。三角屋根にびっしりと蔦が繁茂し、壁もまた満開の藤に覆われて、素地の煉瓦はほんの僅か垣間見えるばかり、まるで朽ちゆく空き家のよう。窓も閉まっている。だが、窓の向こうには灯りがあった。本棚が見えた。人影も、何人も。彼らはみな、本を読んでいた。
 男は、用心深く、そうっと扉を開けた。男の後に続いて、バオバブも廊下に根を踏み入れ、くすぐったそうに揺れた。絨毯の踏み心地が面映いのかもしれない。
 そこは図書室だった。先客の子どもたちは、ちらりと視線を向けただけで、穏やかに二人を無視した。ページを捲る音、咳払い、密かな足音、衣擦れのように交わされる囁き声と、森のざわめき——聞こえる音はそれですべてだった。
 男は眼前に出現した平和を、あるいは昨日までの日常を、どう理解すればよいのか分からなかった。思考から逃れるために、目が無意識に書架の背表紙を辿った。蔵書は児童書ばかりだった。絵本、図鑑、児童文学、冒険小説、魔法の物語。男が子供だった頃に、何度となく読み返した本も、もちろん、そこにあった。
 バオバブが男の手を引いた。
「これ、読んで」
 確かにそう言った。それは男の幻聴ではなかった。バオバブは鮮やかな青い表紙の絵本を枝に抱いていた。傍に座っていた少年がちょっぴり迷惑そうにバオバブを見上げ、「読み聞かせなら隣の部屋でね」と呟いた。
 隣の小部屋には大きな窓があった。カーテン越しにこぼれおちた木漏れ日が床の上でくるくると動く。「綺麗ねえ」とバオバブが言う。男はうまく返事ができない。
 バオバブは日差しに向かって歩き、窓辺のソファに座ろうとした。根が座面に届かず、倒れそうになる。男はとっさにバオバブを抱え、ソファに下ろした。「ありがとう」と笑った。バオバブが。
「うん」
 男はバオバブの隣に座り、せがまれるままに、絵本の表紙を開いた。ゆっくりと声に出して、物語を読んでゆく。幼子を寝かしつけるような、低くひそやかな囁き声で。

ここにもいつか彼らは来るのだろう。
 いつかはここも彼らに見つかってしまうんだろう。
 彼らの一員である自分は、いつかきっと彼らと同じ狂気に呑まれ、この感情も、この祈りも、初めから無かったかのように失うのだろう。
 でも、それは今日じゃない。
 今日じゃない。