呼吸書房

人間が大勢暮らすところには猫がいる。これは必ずと言っても過言じゃない、どんな世界でも不変の法則だ。もし例外が存在するとしたらそうだな、地獄くらいじゃないか。行ったことないから知らないけど。でも、もしほんとうに、地獄が数多の罪人でごったかえす大都会だったとしても、そこに猫はいないだろう。そういうことになっている。

だからその街にも猫はいた。極彩色のパレードが連日ひしめく娯楽の街、劇場に支配された演劇の街、虚構と快楽の魔法の街に。

本ページでは山川夜高さんのお誕生日祝いとして『Cipher』の二次創作小説を掲載しています。

私個人の解釈、読解、IF妄想、原作に存在しない人物の描写、原作に存在しない生物と登場人物の接触(による若干の夢小説味)、想像に基づく登場人物たちの嗜好にまつわる描写が含まれます。『Cipher』原作とは切り離してお読みいただくようにお願いいたします。

原作結末への言及はありませんが、原作を読了された上で閲覧されることを強く推奨します。(というか原作未読でこのページを見てる方はいらっしゃるのか? もしいたら今すぐにCipher紹介ページに移動した方が良いと思う!!!)

本ページは、原作者の山川夜高さんから要望があれば、すぐに修正・または公開を停止します。

という訳で。

ドタバタシリアス小説が読みたい」とのリクエストを頂いてから数ヶ月、私に出力できるものはこれが限界でした。文体が複雑骨折しているかもしれませんがどうか許してください。親愛を込めて。

Gymnopedie

猫にとって人間はまず脚の印象から始まる。
 あの縦に長い生き物たちは、靴音ばかり高らかに響かせて街の石畳を歩く。たいていの人間は足元がお留守なので、うっかり蹴飛ばされないように、猫の方から先に避けてやる。磨き抜かれた革靴やら、危なっかしいハイヒールやら、履き古された紐靴やら、いろんな靴が行き交う。かすかな靴音の反響だけでも、馴染みの人間は見分けられる。

冬の盛り、人間たちは皆、早足で家路を辿った。
 忙しない脚の合間を器用にすりぬけて、裏路地を巡回するのが猫の日課だった。
 その夜はちょっとした気まぐれで縄張りの外れまで足を伸ばしたのだが、遅い時間になるにつれ、しとしとと霧雨が降りはじめた。こうなると厄介だ。濡れた石畳は冷たいし、自慢の毛並みも湿ってしまう。
 さてどうしようかと猫は思案した。冷えた肉球を温かな舌で舐めてみる。いくつかある寝ぐらはどれも遠い。大通りまで出れば近道なのだが、パレードと人混みに占拠されたあの騒々しい通りには、たとえ今が静まりかえった真夜中であろうとなんだろうと近寄りたくなかった。猫はうるさいものが嫌いだった。

という訳で、猫は適当な屋内に転がりこむことに決めた。
 猫は野良暮らしの身ではあったが、歳若く好奇心旺盛で、たくさんの名前を持っていた。街のあちこちに馴染みの人間がいるのだ。すこし前まで猫好きの掃除夫にとびきり可愛がられていたから、猫に甘い人間を見分ける術もよく心得ていた。一晩の寝床くらいすぐに見つかるだろう。
 意気揚々と、裏通りのレストランや酒場を何軒か見てまわる。猫の予想に反し、なかなか成果は得られなかった。扉が重く閉ざされた店もあったし、猫を見るやシッシッと素気無く追い払う料理人もいた。

とうに閉まった店の軒先に積まれた木箱を猫は眺めやった。雨宿りに充分ではある。これで手を打っても良いが、歩き回って空腹だった。
 細い路地の向こうにあと一軒、灯りのこぼれる店があった。あそこだけ覗いてみようと猫は思った。

折よく店のドアが開いて、人間がふたり出てきた。心地よく酔っ払い、お喋りに夢中だ。猫は誰にも気づかれないまま、閉まりゆくドアの隙間からするりと中に入り込んだ。
 店内は暖かだった。夜の寒さを退けて暖められた空気には、さまざまな残り香が読み取れた。煙草、香水、アルコール、それと油にトマトソース。ミントやバジル、柑橘の匂い。テーブルに突っ伏して眠りこむ疲れたお客の足元を、猫は音もなく潜りぬけた。すりへった靴底にこびりついた泥から、大通りの喧騒が臭った。

猫はテーブルの下に座りこみ、暗がりからしばらく様子を伺った。夜更けのこと、酔いの回った人間たちは眠たげで、会話はひそやかな声量で交わされ、その静寂に寄り添うような優しい音が、店の奥から聞こえてくる。猫は音楽に怯えなかった。猫はピアノの音を知っていた。ときどき部屋に入れてくれた馴染みの人間が、家でよくレコードを聞いていたから。
 目の前を何度か、すらりとした両脚が通過した。スカートを翻し、パンプスが軽やかに床を打つ。ウェイトレスの二人が店じまいに取り掛かろうとしていた。
 ここに危険はなさそうだと判断した猫は、店内を堂々と横切り、カウンターの丸椅子にひらりと飛び乗った。誰かの体温がまだ座面に残っている。カウンターに立つバーマンからはちょうど死角の位置だった。猫はすっかりくつろいだ気分になり、長い尻尾を丁寧に毛づくろいした。

テーブルから回収したグラスを、ウェイトレスが朗らかにカウンターまで運んでくる。

「J、夜食になにか残ってる?」

「チキンが余りそうだと聞いた」

「三日連続かあ。他になにか……」

ウェイトレスはふっとドアの方を見た。視界の片隅、丸椅子に何らかの違和感。何らかどころではなかった。くるりと身を丸めて眠る猫を認め、彼女は目をまん丸にした。「ええ?」と声に出してから口元を抑える。バーマンが怪訝な視線をウェイトレスに向けた。

「猫いるんだけど」

バーマンの眉間に皺が寄った。立ち位置をずらしてみれば、丸椅子でくつろぐ闖入者の毛並みがようやく目に入った。「いつ入った?」いやそれよりも、「降ろせ」と短く告げる声には困惑が隠しきれていなかった。ウェイトレスは目を丸くしたまま、猫の背中をつついた。

「ちょっと、ちょっと。あなた、何してるの」

心地よい安眠を妨げられ、猫は非難がましく人間を見上げた。薄暗い照明の下、つぶらに広がった瞳孔がウェイトレスを捉える。猫を甘やかしそうな人間であると一目で見て取り、猫は軽やかに一鳴きした。ピアノと同じくらいのささやかな声量だったが、人間の胸を打つには充分だった。彼女は明らかに目尻を下げて、猫の頭を撫でた。

「可愛いねえ。どこかの飼い猫かな」

しかしウェイトレスは情に流されず、容赦なく丸椅子から猫を抱きあげた。猫としては堪ったものではない。抵抗しかけたが、久しぶりに人間の腕に抱かれた懐かしさに、思わず身を任せてしまった。困り果てたのはウェイトレスの方である。初対面の人間に大人しく抱っこさせるだなんて、おそらく野良猫じゃないだろう。迷い猫だろうか。それも格段に人懐っこいとくれば、飼い主も心配しているに違いない。躊躇いとともに見下ろしてしまったのが間違いだった。ウェイトレスを見上げる丸い瞳と正面から目が合い、彼女は「うっ」と呻いた。
 そうこうしている内に、もうひとりの先輩ウェイトレスも猫に気づいた。彼女もまた驚きを顔に表した。

「P、その子どうしたの。迷子?」

「たぶん……。野良猫には見えないし」

「たしかに。たいして痩せてもないね」

もうひとりの声音は落ち着いていて、猫にとって心地よい響きだった。猫はウェイトレスの腕の中で満足げに目を閉じ、また一鳴きした。欠伸のように奏でられた挨拶を、二人はしげしげと眺めやり、やがて一人が静かに呟いた。「おなか空いてるんじゃないの」

「ミルクとか飲むかな?」

「猫に牛乳はだめ」

遮る声は淡々と、冷涼にさえ聞こえたが、猫の喉元を撫でる手は優しかった。彼女はふいと厨房に引っ込み、すぐに戻ってきた。猫を抱いたままで立ち尽くすもうひとりを、「おいで」とドアの外に誘う。その手には小さな皿があった。

「残りもの貰ってきた。これは下拵えで茹でただけのやつだし、味はついてない」

石畳に皿が置かれる。皿にはほんのりと温かいチキンが乗っていた。
 屋外に連れ出されたのは不服だったものの、空腹なのもたしかなので、猫は喜んで夕食にありついた。咀嚼の端からうにゃうにゃと声が漏れてしまう。それはそうと、食事中に背中を撫でるのはやめてほしい。
 いつのまにか水の小皿まで用意されていた。ウェイトレスの二人は、店外に出たのを良いことに、憚りなく存分に猫を愛でた。猫はあっという間にチキンを平らげ、口の周りをぺろぺろと舐めた。

「美味しかった?」ニャア、と元気な返事。ウェイトレスはにっこり笑って猫の隣にしゃがみこみ、名残惜しげに胸元の猫毛を払った。

「ねえ、ここらに迷い猫の貼り紙なんて出てたっけ」

彼女よりも街に詳しい先輩ウェイトレスは無言で首を振った。街の壁面は色鮮やかな興行ポスターで埋め尽くされている。個人的な猫探しの貼り紙なんて、きっと数日も保たずに新しいポスターの下に埋もれてしまうだろう。
 質問の形で口に出しておきながら、彼女もそんなことは充分に知っていた。ウェイトレスはほんの少し眉を下げて「だよね」と呟いた。給仕用のスカートのままでは、夜風の冷たさが身に沁みた。

やがて一人が、空になった皿を手に、先んじて店に戻っていった。
 最初に猫を抱きあげたウェイトレスは、立ち去りがたいようで、猫の頭をもう一撫でした。猫は人間の手にじゃれつき、ドアマットの上で気ままに転げまわった。彼女は声を上げて笑った。
 「じゃあね、猫ちゃん」と手を振り、店に戻ってゆくウェイトレスを、猫はじっと見つめていた。

ちょうど常連の二人連れが会計を済ませるところだった。店内はすっかり静かになり、演奏を終えたピアノマンがカウンターで休息している。彼は目の際にすこしだけ笑みを乗せて「おかえり、P」とウェイトレスを迎えた。

「Jから聞いたよ。カウンターに猫がいたんだって?」

「まあね、びっくりしちゃった。すごく人懐こかったから迷子かも。捨て猫かもしれないけど」

「おれも見たかったな」

ピアノマンの隣から声が上がる。お客たちの最後の一人だった。疲労を色濃く気配のように纏った男は、それでもなおよく通る声で「どんな猫だった?」と尋ねた。ウェイトレスはわずかにたじろぎながらも、猫の毛並みや手触りを述べた。野良とは思えないふわふわの温もり、柔らかく忙しなく動く耳、ぴんと立てられた長い尻尾。「良いな」と男が目を細めた。

「猫好きだったんだ」とピアノマン。

「意外か?」

「いや、そうでもないな」

「劇場のあたりは猫がまったく近寄らないんだ。うるさいから当たり前なんだが」

もう一人のウェイトレスが、ピアノマンのために夜食を運んでくる。チキンソテーに、連日お決まりの煮詰めすぎたトマトソースがけ。

「ごめんねX、普段よりすこし少ないかも。あの子に一切れあげちゃったから」

「構わないよ。ありがとう、M」

そう言って、ピアノマンが一口目のチキンを口に運んだとき、店のグランドピアノが頓狂な和音を奏でた。
 全員が即座にステージを見遣り、ピアノマンは「嘘だろ」と悲鳴じみた声をあげ、ピアノのもとへすっ飛んでいった。先ほど退店させられたはずの猫が好奇心の赴くまま鍵盤に前脚を乗せ、ふんふんと匂いを嗅いでいる。例のごとく、客が開けたドアの隙間から再び忍びこみ、誰にも気づかれなかったのだ。

生まれて初めて触れるピアノに猫は興味津々、真っ白なヒゲをぴんと広げて夢中だったが、ピアノマンに呆気なく確保された。猫の抱き方を心得ていない人間に両脇を掴まれ、猫は憤懣やる方ないといった感じの声をあげた。ピアノマンは無言で以って応えた。無表情のまま猫の脇を抱え、すたすたと店を横切り、片足でドアを押し開けて猫を外に放り出す。猫は華麗な着地を決めた。ピアノマンは目が据わっていた。

「あれはだめ。良いな?」

猫は人間の言葉になど耳を貸さないが、断固とした声音から、相手がどうやら猫を甘やかさない類の人間であるというのは理解した。スラックスの裾に頭をすりつけてみたところで、たぶん何の効果もないだろう。駄目元で「にゃあん」と人間向けの挨拶もしてみたが、ドアは無慈悲に閉ざされた。

真夜中の屋外はやはり寒い。猫はぶるりと身を震わせた。それでも夕食にはありつけたし、ここに優しい手の持ち主が二人いることもわかった。今夜のところはこれで良しとしよう。
 猫は夜風の匂いを嗅いだ。いつしか霧雨は止んでいた。ならば眠るには勿体ないと、猫は裏通りの巡回に戻っていった。夜空は赤みを帯びている。猫の視覚は赤を認識しない。だから低く垂れこめた雨雲の名残はただぼんやりと薄明るい。

ピアノバーで交わされる人間たちの会話を猫はもう聞いていない。

猫は決まったルートを歩き、路傍に放られたごみの匂いを嗅ぎ、何か変わったことはないか、不届きな雄猫の縄張り侵犯はないかを見てまわる。顔見知りの猫に会えば、鼻を近づけて挨拶する。真夜中には鴉も眠っている。途中、足取りの怪しい男に「おお、猫だ。猫じゃないか。猫、猫」と酒臭い息で呼びかけられたが、騒がしいので無視する。俊敏なUターンとダッシュ。真っ暗な横道に入ってしまえば人間にはもう見つからない。男が日中、道化師に扮して表通りで風船を配りまわり、疲れ果てていることなど、猫には知る由もない。

空がうっすら白んできた頃、寝ぐらのひとつで休息すべく、猫は屋根に上がった。屋根伝いに歩き、ベランダのひとつに立ち寄る。ここに住んでいるのはとても早起きな掃除夫で、猫を見れば部屋に招き入れ、毛並みにブラシを掛けて朝食までご馳走してくれるのが常だった。けれど部屋には誰の気配もなかった。もう何日も。
 開け放されたカーテンの間から部屋を覗きこみ、家主が留守であることを確かめると、猫はひらりと飛び降りた。

そして猫はピアノバーに居着いた。
 居着いたというのは語弊があるかもしれない。寒い夜に訪ねる寝ぐらの一つとして認定した、というのが正しい。週に一度か二度、冷え込みが厳しい深夜、猫はふらりとバーに姿を現した。両脚を揃えて店の前に鎮座する姿は看板猫さながらで、周辺住民にも好評を博した。バーマンはやや渋い顔、ピアノマンも真顔だったが、バーの常連客には猫好きが多く、人が少ない時間帯にはしばしば猫を店に招き入れ、テーブルの下を行進する優雅な尻尾をにこやかに眺めた。
 猫が調子に乗ってテーブルに飛び乗ると、どこからともなくウェイトレスが現れて床に降ろされるという攻防が何度か続いた。猫は賢明だったので、そのうち椅子に飛び乗るだけで良しとするようになった。
 猫が隣の椅子に座ると、お客たちは喜んで猫を撫でた。撫でさせるかどうかは猫の気まぐれ、気が向かないときにはフイと別の席に移動してしまうのが常だったが、それも含めて人々は猫との触れあいを楽しんでいた。

ピアノマンはあまり猫に興味がないようだった。猫が足元をうろうろしても、目線の一つも向けてこない。猫としてはそれくらいの方が気楽でちょうどよかった。
 ただ、例のピアノには二度と近づけさせてもらえなかった。猫が店内にいる間、ピアノマンはピアノに付きっきりで、離席するときにはかならず蓋を閉めていった。

「おまえ、あまりあいつを困らせるなよ」

ピアノ傍のテーブルで寛いでいた男が、苦笑混じりで猫に声をかける。
 猫はちらりと一瞥を返しただけで、すぐに視線を逸らした。極度の近視でありながら動体視力に優れる猫の視界では、ぼんやりとした色彩の中、猛禽のような対の瞳が瞬きの度にぎらぎらと強く光を放って見える。威嚇されているのかと思うほどだったが、何度か顔を合わせるうちに、彼に敵意がないことは理解できた。ただ目を合わせていたくはない。尻尾を二、三度振りまわして返事を済ます。ついでにその場に座った。男の足先を革靴ごと腹の下敷きにして。
 ちょっと離れたところでウェイトレスが引きつれたように息を吸った。

「あの、あの、すいません、ほんとに、今どかしますね、あと靴磨き用の布か何かを」

「いや、大丈夫」

男はむしろ楽しげにモヒートを追加で注文した。ウェイトレスは、自身の月給に軽く相当しそうな革靴をクッション代わりにする猫と、テーブルに片肘をつきリラックスしている男とを何度か交互に見やり、「なら良かったです」と呟いた。なにが良かったのかは分からない。

やがて演奏を終えたピアノマンは、男の足先を椅子代わりにする猫を見て、さすがに目を丸くした。

「そいつ、怖いもの知らずにも程があるだろ」

「足が痺れてきた」

「どかしなよ。足を抜くだけで良いんだから」

「それはそうなんだが」

唸りつつも身じろぎしない男に、ピアノマンはそれ以上は何も言わず、向かいの椅子に腰掛けた。テーブルには初めからグラスが二つ置かれていた。ミネラルウォーターのボトルも。長い演奏に乾いた喉を潤しながら、ピアノマンはしげしげと猫を見下ろした。毛深い背中と尻尾しか見えない。

「いま思い出したけど、いつだったか見た映画でさ、強面の悪役が膝にペルシャ猫を乗せているのがあったよ」

「ああ。悪役と猫には親和性があるんだ。おれが演じた役の中にも、猫と親しい奴はいくらでもいた。いちばん分かりやすいのは魔女と黒猫の組合せだろうな。猫は悪魔の側だとされた。劇において悪しき者とともに登場する猫は、大抵のところ底意地が悪くて、憎まれ役で、弱き者の行手を塞ぎ、物語を引っ掻き回すんだ。善なる者たちの側には犬たちが付く」

「そういう劇って、本物の犬や猫を連れてくるわけ?」

「まさか。剥製だよ。動きが必要な場面ではシルエットだけ映して機械から鳴き声を流す。公演は始まってしまえばやり直しがきかない。撮り直しが可能な映画とはそこが違う。映画に出演できるほど芸達者な動物たちも、劇場の舞台には上がれない」

「なるほどね」

相槌を打ちながらピアノマンは視線をずらした。語る男の靴先にはまだ猫が乗っていた。スラックスの裾はすでに猫毛まみれだった。

「こいつ、おれの靴には座るのに、膝には一度も乗ってこないんだよ」

「Pの膝にはよく居座ってるのにね」

男は額に手を添え、吐息だけで雄弁に羨望を表した。
 ピアノマンは、目の前にいるこの端正な男が黒々としたスーツに身を包み、その膝上に猫をくつろがせている姿を想像して、あまりに絵になりすぎるので考えなかったことにした。

「きみは猫があまり好きじゃない?」

男の問いにピアノマンは微笑した。「触ったことはあんまり無いね」と手短に答える。それ以上でもそれ以下でもない。男はそんな返答を半ば予期していたように頷いた。

「猫は——いや、猫に限らないか。彼らは、とても大雑把にしか人間を見ない。どんな役割を背負っていようと彼らの前では関係ない。自分を優しく撫でてくれるか、食事を分け与えてくれるか、彼らが気にするのはそれくらいだ。この街にも猫がいて、おれは良かったと思う」

ピアノマンは首肯しない。街を囲む公園にも街の裏路地にも野良猫はいるが、彼はこれまで猫と親しんだことはなかった。銘々に生を営む生き物はいわば街の書割であり、自身の生活とは直結しないものだった。街の劇場に名を冠する鴉は例外として、その他の生命は街から周到に存在を無視されていた。彼らは役割など素知らぬ顔で生きている。

とうとう足の痺れに耐え切れなくなったのか、男は身を屈め、骨張った手のひらで猫の頭を撫でた。猫は片目を開け、のっそり立ち上がると厨房の方に去っていった。「やれやれ」と男は足先を振った。

「X、見ろよ。革に肉球の跡がついた」

「靴磨き用のクロスを借りなよ」

二人の会話を片耳だけで聞きながら、猫は厨房に顔を突っこんだ。ここの厨房係は猫好きではない。残り物を分けてくれるのは主にウェイトレスたちだが、もしかしたら今日の厨房係は猫を甘やかす人間になっているかもしれない。
 厨房係は今日も猫好きではなかった。

ピアノバーを出た猫は裏路地を巡回する。いつもの決まった道を辿る。
 明け方になっても、薄曇りの街に鮮烈な朝日は差さない。ただぼんやりと黒が抜け落ちてゆき、鈍い色彩が現れる。表通りはこの時間がもっとも静かだ。昨夜の騒乱の名残としてゴミがあちこちに散らばっているが、あと一時間もすれば掃除屋が幾人も繰り出して、街の表側をすっかりきれいに片付ける。パレードと、街の外から訪れる者たちを迎え入れるために。彼らが最後まで夢から醒めないように。
 猫は裏路地の掃き溜めで鼠を一匹捕らえた。ただ今日は存分に夕食を貰ったので、べつに空腹ではなかった。おもちゃがわりに弄んでから放り出すと、鼠は血を滴らせながらよたよたと駆け去った。
 他に異常がないことを確かめ、鳴き交わす鴉たちの迷惑な騒音に耳を伏せつつ、いつもの時間には屋根に上がった。いつものように掃除夫のベランダを訪ねる。今日も部屋は無人だった。

「おい、おまえ」

唐突に呼びかけられ、猫はぎくりと身を竦めた。耳を横倒しにした全力の警戒態勢に、「待て、待て。悪かった」と声の主は慌てた。隣家のベランダから、これまで顔を合わせたことのない人間が、こちらを見ていた。
 猫は尻尾まで膨らませていたが、目の前の人間が身動きせず、それ以上は猫を刺激しなかったので、徐々に落ち着きを取り戻した。猫は改めてベランダに座り直し、毛づくろいをはじめた。その間も視界の端では人間を注視しつづけた。外履きを突っ掛けただけの足。毛玉まみれの毛糸の靴下。着古した灰色の寝巻き。切りっぱなしの短い髪。

人間は猫を驚かせないように、そっとベランダにしゃがみこんだ。そして柵越しに語りかけた。

「なあ、おまえがそうなんだろう? 隣のおっさんに聞かされてたんだ。うちにはときどき猫が来るんだって。たいそう可愛い猫だって。それにしてはふてぶてしい猫だな、まあいいや。まだ来てたなんて驚いたよ。なあ、おまえ、おっさんはもういないんだよ」

人間はがさがさした声音でそう言った。猫はその言葉を理解しなかった。

「言ってもわかりゃしないよな、知ってるよ。でもさ、もう来ても仕方ないんだよ。ここにはもう、おまえを愛する人間はいないんだから」

猫は指先を舐めつづけた。ついでに存分に顔も洗った。人間はため息をつき、柵にもたれて「わかんねえよなあ」と言った。

「おっさん、ほんとは、おまえを飼いたかったみたいだよ。でも止めた方が良いんだって言ってた。ここはこんな街だからさ」

猫は毛づくろいの気が済んだ。なおも人間がごにゃごにゃ言っているので、猫なりの挨拶として「にゃーん」と返事をしておいた。人間は「猫は呑気で良いよな……」と呟き、気だるげに立ち上がると煙草に火をつけた。猫は煙臭いのが嫌いだったのですぐさま屋根に飛び降りた。その人間が、小さな劇団に必死で居場所を作ろうとしているくたびれた女優であることなど、猫に分かるはずもなかった。

そうして日が過ぎた。
 冬の寒さは徐々に和らぎつつあった。冬が終わろうとしていた。猫は夜を徹して遊びまわることが増えた。猫たちの恋の季節が近づきつつあった。それでも時折、凍えるような寒の戻りが押し寄せて、そんな夜には猫も屋内に避難した。馴染みの人間の家、鍵の壊れた倉庫、そしてあのピアノバー。

冬と春の狭間に打ち寄せる、とびきり寒い夜だった。凍てつく風がごうごうと路上の紙屑を舞い散らした。街の住人たちはコートの襟を立てて早々に家路につき、路上に人影はまばらだった。それでもいくつかの店は開いていた。ピアノバーも灯りをつけていたが、客足はほとんどなく、バーマンはウェイトレスたちを早上がりさせた。

猫は早々に店内に招き入れられていた。こんな夜だから、とわずかな客たちは口を揃えた。

「ちびちゃん、おまえ、今夜はずっとここにいな。外は寒すぎる」

ウィスキーで顔をほてらせた常連客は帰り際にそう言って、猫の背中をくりかえし撫でた。猫は機嫌良く尻尾を立てて、客の足元をうろつきまわり、入念に匂いをこすりつけておいた。

ピアノマンはまだ店にいた。バーマンは「上がっても構わない」と気遣う様子を見せたが、彼はピアノを弾きつづけた。

「ぼくは風が弱まってから帰るよ」

「店に泊まっても良い」

「ありがとう。でもどうかな。真夜中には通り過ぎそうな気がする」

ピアノ傍の定位置には今夜も男が座っていた。猫にとってももはや顔馴染みだった。男は猫を認めると気安く声をかけてきた。猫は尻尾で返事をした。

ドアをぴったりと閉ざした店内は、不思議なほどに静かで、吹き荒ぶ風の音はこもったように遠く響いた。ドアと窓枠が時折ガタガタ震える他に、バーの平穏を乱すものはなかった。心地よく隔離された暖かな空気を、ピアノの旋律がゆったりと攪拌していく。グラスに氷が落とされ、トニックが注がれる。シェイカーが振られる。食器を洗う水音。すべての音はもう耳に馴染んでいた。猫は安心しきって、丸椅子の上でくつろいだ。

ただ、それでも今夜は足先が冷たい気がした。
 やがて猫はカウンターの丸椅子から飛び降り、客のまばらな店内を歩きまわった。ピアノの傍にふと目をやれば、顔馴染みの男はゆるく脚を組んだ姿勢で椅子に深く身を預けていた。近づいても珍しく反応がない。猫は革靴の手前で脚を揃えて座り、首をかしげて男を見上げた。ついでに匂いも嗅いだ。喧騒と疲労の入り混じったさまざまな匂いがした。雄弁に動く男の長い指先も、あの眼光も、いまは静かだった。彼が寝入っていることを見て取り、猫は音もなく椅子に飛び乗ると、膝の上に割りこんだ。座り心地として柔らかくはなかったが、温かいことはたしかだった。猫はくるくると姿勢を変え、やがてひとところに落ち着いて丸くなった。男は目を閉じたままだった。

ピアノマンは演奏を続けながら、店の気配を聴いていた。ドアの向こうで吹き荒ぶ風と、こんな寒い夜に遅くまで店に残ったお客たちの息遣いを。誰もが一人で酒を飲み、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
 鍵盤に指を沈める。風に掻き消されないよう、普段よりもわずかにタッチを強める。それでも音がひびわれることはない。冬の嵐という陰鬱を、蝋燭の灯りで毅然と退けるような、明るい旋律がやさしく響く。軽やかなスウィングとスタッカートは、いつしか少しずつ調子を変え、途切れることなく滑らかに、より静かで落ちついた曲へ移行していった。疲れはてた人間をひそやかに眠りにつかせ、癒すための音楽は途絶えずに奏でられた。

ひとり、またひとりと、お客たちは外套を羽織って家路についた。ドアが開け閉めされる度に夜風が店に吹きこんだ。けれども、徐々に風が鎮まりつつあることも、ピアノマンは演奏を続けながら把握していた。

やがて残るお客はひとりだけになった。ピアノマンは鍵盤から指を離し、音の余韻が響く中、どこか遠くを見るような眼差しで、がらんとした客席を眺めやった。風の唸りはもう聞こえなかった。
 ピアノマンはそっと鍵盤の蓋を閉め、ステージから降りた。ピアノ傍のテーブルで、猫を膝に乗せた男はまだ眠りこんでいた。

「0」

確かめるように名前を呼んだ。
 
 Xは、0を揺り起こそうとして、肩に手を伸ばしかけ、ためらった。
 演奏を聴きながら彼がここまで深く寝入ってしまったのは初めてのことだった。よほど疲れているのだろうと思う。こんな椅子で居眠りなどせずに、早く家に帰ってきちんと身体を休めた方が良い。
 ただ、伏せられた瞼は穏やかで、他者を竦ませる苛烈な閃光をその奥に隠しているとは思えないほど、あどけなく安らいでいた。起こす方が悪いような気がした。
 中空に手を浮かせたまま、Xは視線を下にずらした。
 すっかりバーに居着いてしまった野良猫が、友人の膝上で丸くなり、ふわふわした手のひらで目元を隠しながら熟睡している。猫は満足げにいびきすら掻いていた。ふてぶてしいというか、図々しいというか、物怖じしないと言うべきか。Xはしばらく平らかな瞳で猫を見下ろしていたが、やがて長い吐息をつき、行き場のない手で眠る猫を一撫でした。猫は寝言のように喉を鳴らした。

明け方には猫は外にいた。
 吹き荒れた風が雲をすっかり吹き飛ばし、空はめずらしく晴れ渡っていた。鴉の群れが騒々しく鳴きながら上空を横切った。

嵐の名残に吹かれて毛並みをぼさぼさに乱しながら、猫は迷いのない足取りで裏路地を巡回し、いつもの屋根に上がった。
 掃除夫の部屋はいつもどおり無人だった。いつもどおりではないこととして、今日は隣家のベランダにあの人間がいた。人間は猫に気づくと「また来たのか、おまえ」と呆れた声で言った。
 屋根の間から姿を見せた朝日が、人間の背中越しにまぶしく輝き、猫は瞳孔をきゅっと細めた。

「来週にはその部屋、引き払われるってさ。家具は売られる。荷物も処分される。そのうち新しい住人が来る。だから、もう来るんじゃないよ」

猫は人間の言葉を解さない。
 ただ、おおよその感情は、理解する。快、不快。怒り、悲しみ。喜び。親愛を。

猫は屋根伝いにすたすた歩き、隣家のベランダに乱入した。人間は「はっ?」と大仰にのけぞり、野良猫がベランダで堂々とくつろぎはじめたのを見下ろした。猫は人間の動揺など素知らぬ顔で、乱れた毛並みを存分に舐め、後脚で耳の後ろを掻いた。白と黒の猫毛が舞い上がり、朝日にきらきらと輝いた。

「おまえ……おまえすごいな。逞しいよ。ほんとに」

人間は感慨深げに頭を掻き、「あーー」と低い声で唸った。

「なんか食べてく?」