すべての樹木は光|試し読み

以前には、この他人への心配りこそが彼の誇りだった。 フランツ・カフカ『変身』 どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは ひとはみんなきっとこういうことになる きみたちとけふあうことができたので わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから 血みどろになって遁げなくてもいいのです 宮沢賢治『小岩井農場 パート九』 現在  透明な街、うつくしい街、ちょうど日付が変わる頃のこと。  休日を前に、人々は浮き足だっていた。ショーウィンドウを楽しげに覗く二人連れ、大声で笑いあう仕事帰りの酔っ払い、クラクションに追い散らされる行儀の悪い学生たち。穏やかな夜風がビルとアスファルトと雑踏の匂いを運び去る。群衆の声に掻き消され、足音はよく聞こえないかもしれない。ただ、その音に土の気配がないことだけは分かるはずだ。舗装された道々に奏でられる無数の声、それは革靴、ブーツ、スニーカー、サンダル、釘を打つように硬質なヒール、ローファー、パンプス、また革靴、履き潰されたミュール、裸足以外のあらゆる足音を、幾千と重ねた声だった。  こんな心地よい夜に立ち止まっている者は目立つだろう。座っていれば尚更のことだ。ユハは、注意深く脚を揃えて斜めに捻り、往来の邪魔にならないことを願った。そもそも此処は座るべき場所ではない。植えこみの縁石に、彼女は既に四十分も座っていた。電話の向こうで友人が泣いているからだ。  相槌を打つことが、ユハの数少ない特技の一つだった。たとえ何を考えているか分からない相手であっても、求められている感情の温度だけは、いつも瞬時に把握できた。それは音感のように自明だったので、ユハは一切の躊躇なく、望まれる形に整えた相槌を差し出した。何十分でも、——あるいは何時間でも。  背中にチクチクと枝葉が当たり、きついパンプスの中で爪先が痛みはじめても、ユハは身じろぎもせず、友人の泣き声に耳を傾けつづけた。注意深く身を縮めていたおかげで、道行く群衆の誰も、彼女の足を踏みつけることはなかった。そうして、長い嗚咽に掠れた友人の声に、ようやく、笑いが混じった。 「ありがとう、ユハ。あなたってほんとに優しいのね」  あたたかな安堵がユハの胸に満ちた。「そうだったら良かったけど」小さく苦笑を返す。攻撃性や緊張や疲労を一切取り除いた声色に、肯定、喜び、労り、友情を乗せて囁く。 「もう、大丈夫? 眠れそう? ……うん、ちゃんと布団で寝てね。その飲みかけのワインは冷蔵庫にしまって、そう、床で寝るの止めなきゃ駄目だよ。わかった? うん。うん……おやすみ。また明日メールするね」  通話を終える。こういう場合、普段は二十四時間営業のファストフード店などに入るのだが、今日は移動するタイミングが無かった。終電、と頭の冷静な部分が考える。まだ走らなくても間に合うはずだ。携帯を確認すると、メッセージの未読通知がずらずらと並んでいた。なぜ彼はこんなに心配性なのだろう。メッセージのすべてを眺め、返信を打つ。「今から帰ります。遅くなってごめんなさい」。  送信する直前で、ぱっと手の中から携帯が消えた。 「やっと追いついた。迎えに来たよ、ユハ」  懐旧の込もった穏やかな声は、人の携帯をいきなり奪うという場面にはあまりにも不釣り合いだった。ユハは呆気に取られて、いつのまにか眼前に立っていた男を見上げた。ずいぶん小柄で、帽子を目深に被り、表情がよく分からない。シャツの襟元から覗く首筋ははっとする程に細く、幼ささえ感じさせる。男の指先で、ストラップを摘まみ上げられたユハの携帯が振り子のように揺れていた。  知り合いだったろうか。声に聞き覚えはなかった。誰かと間違えられている訳でもないらしい。ユハはおずおずと微笑を浮かべた。 「ごめんなさい、あまり驚いたものだから。お久しぶりです。前にお会いしたのはいつでしたっけ?」  男は答えず、ユハの携帯を胸ポケットへ滑りこませて、ゆったりと歩きだした。その動作はとても自然で、違和感もなく、何かが起きていることに道ゆく誰も気づかなかった。ユハも一瞬、理解できなかったほどだった。男は振り返り、不思議そうに帽子を上げてみせた。 「どうしたの。早く行こうよ」  街の光に照らし出された男の顔立ちは、ユハによく似ていた。まるで弟のように。あるいは兄のように。親戚の誰かだろうか——顔を見てもさっぱり年齢が分からない——華奢な三十代のようにも、大人びた十代のようにも見える。ともかく携帯を返してもらわなければと、ユハは立ちあがった。とたん男は群衆に紛れた。  あっ、と声が出た。泥棒です、引ったくり、捕まえて、と叫ぼうとして、言葉にならなかった。雑踏の中から男の呼び声が聞こえた。 「早く!」  人混みを掻きわけて、ユハは走りだした。あくまでも小走りで。こんな靴で全力疾走はできない。ヒールをカッカッと高く鳴らし、人と人の間を危なっかしく摺り抜けながら、ユハはまだどこか呆然としていた。  すぐに見失ってしまうかと思ったのに、男はときどき雑踏の合間から姿を見せ、こちらを振り返った。決して追いつかせず、かといって引き離しもせず、一定の距離を保ちながら駆けてゆく。男の足取りが、駅に続く大通りから脇道へと逸れたとき、ユハは躊躇った。だが、この先の公園を抜ければ、交番がある。後は警察に任せよう。男の特徴を伝えて、その場で盗難届も出せる。終電には間に合わないだろうが、幸い鞄は無事なのだし、タクシーを拾って帰ればいい。  夜の公園はしんとしていた。人影もまばらで、もう男を見失う心配もない。ユハは、公園の奥へ走ってゆく男の特徴を今一度見定め、交番へ向かおうとした。できなかった。  このときになって初めて、ユハは、自分の意思で足を動かせないことに気づいた。恐怖が背筋を舐めた。何が起きているのかわからない。ユハの足は走りつづけ、止まることも、方向を変えることもできなかった。悚然として辺りを見回すと、前方で男が手を振っていた。 「早く! ユハ!」  両足が勝手に速度を上げ、ユハはパニックに陥った。思考が止まり、声が出なくなり、感覚が世界を認識しなくなる。音も匂いも風景もぼやけて遠ざかってゆく。脈絡のない悪夢のように、より人の気配がない方へ、より外灯の少ない方へ、暗がりへと、男の後を追う足を止められない。  それでも、公園に併設された植物園へ駆けこんだところまでは、まだ世界にいくらか現実味があった。なぜ深夜に鍵が開いているのだろう、と戸惑うこともできた。大温室を通過する。暖かく湿った空気が植物たちの呼気を帯びて纏わりつく。巨大なシダの葉、シュロ、ソテツ、サゴヤシ、影絵を思わせるカラテア、ドラセナ、ブルグマンシア・ウェルシコロル、頭上の月と非常誘導灯を光源に黒々と浮かびあがる人工密林で、板張りの遊歩道を駆けてゆく二人分の足音はひどく耳に障った。ユハの足は完全に本人の意思を離れ、前方に障害物があろうとなかろうとそのまま突き進み、モンステラの葉にしたたか額を打たれてユハは両手で顔を覆った。どうせ自分では避けられないのだ、視界に何の意味があるだろう?  ようやく足が止まったときには、靴も無くなってしまっていた。ユハは息も絶え絶えに、手近な若木に掴まり、がくがくと震える膝を押さえた。四肢のあちこちが痛む。吐き気もひどい。目には涙が滲み、耳の奥で血流が脈打っている。  辺りは真っ暗だった。枝葉の間からかろうじて月が見えるものの、他に光源はない。帰らなければと思ったが、どう戻れば良いのか見当もつかなかった。そもそも此処は大温室の中なのか、それとも、別の温室か展示室に迷いこんでしまったのか—— 「ユハー」  名を呼ばれて、ユハはふたたび凍りついた。直感が、あれに見つかってはいけないと告げる。きっと恐ろしいことが起こる。既に散々な目に遭っているけれど、きっとそれ以上に。また勝手に動きだしては堪らないと、ユハは手探りで地面に這う蔓を掴み、足首を倒木に括りつけた。土は冷たく濡れている。なにか硬質な無数の足が、さっと手の甲を走り抜ける。悲鳴を堪え、息を潜めているうちに、混乱の中でぼやけていた思考と感覚が、徐々に焦点を結びはじめた。  暗闇は無数の音に満ちていた。それは甲虫の羽音、それはコウモリのはばたき、それは夜鳴き鳥のつんざくような金切り声、それは幾万の木々を揺らす風の唸りだった。どれも温室に響いて良いような音じゃない。此処は外だ。でも、あの透明なうつくしい街のどこにも、こんな恐ろしい森はなかった。じっとりと湿った赤土の匂いも、卵と魚を甘く腐らせたような花の香りも、なかったはずだ。 「懐かしいでしょう」  瞬きの間に、黒い影がユハの前に立った。 「ここは故郷のすぐ近くだから。きみがこの国に居るのはいったい何年ぶりだろう、十年、いや、もっとかな。乾季の間に会えてよかったよ。大事な話の途中でスコールに邪魔をされたくはないものね」  無音のうちに、携帯のバックライトが点灯した。人工的な白色光に照らし出された鎖骨と首筋、顎と口元、そして骨ばった両手が優雅な蛾の群れと戯れるようにひるがえったかと思うと、ガラスとアルミニウムと精密回路とその他数えきれないほどの鉱物で形作られていたはずのユハの携帯は見る間にくるりと捻られてその形を失い、細やかな飴細工と化して、幾千のメールもメッセージも通話記録も写真も何もかも道連れに、噛み砕かれ、嚥下された。血に溢れるだろう彼の口と喉と内臓のことを思って、一瞬、ユハは恐怖を忘れた。戦慄と狼狽がユハを捉えた。ここが森の中でなければ、助けを呼びにすら行ったかもしれない。男は朗らかに声をあげて笑った。 「ユハ、やさしいユハ。愚かなユハ。きみの中の樹木に命じる。きみは、もう逃げることはできない。きみは、もう走ることも、歩くこともできない。きみは、もう疑問を呈することも、拒絶することも、否定することもできない。きみはもう何にも抵抗できない。きみは屈服する」  それは呪文だった。砂糖のように暖かな声で紡がれた呪いの言葉はすぐに効力を表した。ユハは四肢の先から熱が失われてゆくのを感じ、震えながら、残された意思を振りしぼって声を発した。「どうして」。「あなたはいったい誰なの」。それはもはや言葉にも満たない呻きでしかなかったけれど、男は幼子の駄々に手を焼くような苦笑いで応え、やさしくユハの頬を撫でた。 「わからない? ほんとうに? 僕はきみが今まで殺してきた憎悪だよ。あるいは森と雨の夢、温室に囚われた赤道の木霊、あるいは鬼、精霊、魔物……なんでもいいけど。なんでもいいでしょう、きみにとっては」  闇の中で、わずかな月明かりが男の手の甲に反射していた。なにかを差し招くような手つきに、その先に起こることを正しく予感して、ユハは首を振ろうとした。できなかった。首は縦にしか動かせず、押さえつけられたように項垂れると、喉の奥から最後の懇願がこぼれた。 「わたし、何もしてない」  こんな仕打ちを受けるに値するようなことは、何も。 「そうだね」  それきり人間としての聴覚は失われた。ただ、真夜中の熱帯雨林だけが、これから起こることに耳をすませていた。  小柄な人間の男の形をしたものが、中空の糸を摘まむような手つきで静かに腕を差し伸べると、ユハの身体は震え、天を仰ぎ、弓のように反りかえり、オレンジの皮を剥くように内側から反転した。 「そして人間としての表皮は樹皮に、骨は芯材に、骨髄は導管に、すべての神経はゆたかな根に、主根は赤土に奥深く降り、側根を巡らせ、この森のあらゆる椰子、シダ、ラワン、マンゴーの根と結びつき、瞳は千々に分かれ、引き伸ばされ、葉緑体の光を帯びて、肺と胃に連なり、ほどかれた血に紡がれた葉脈、人に内包された海は眠れる百の花芽の中に、人に内包された土は新たな百の言葉の中に」  唱えられる呪文に従ってユハの身体は人間の形を失ってゆき、引きずりだされるようにして、一本の樹木へと変じていった。人の背丈とほとんど変わらない、細っそりとした幹が生え、中空の虚を埋めるように形成を進め、たちまちに枝葉を茂らせた。人間の形のまま根元に残され痙攣していた両腕もやがてそれぞれ枝と根に落ちついた。そして最後に、樹木と人間のまぜこぜのような赤い虚の内側からもがく両腕が突きだされ、身を食い破られる激痛におそらくユハは悲鳴を上げたのだが、樹木に声はなく、震わせる肉体もなく、人間の身体には存在しない化学物質がその全身をすばやく駆けめぐり枝葉の味をわずかに変えただけだった。  ユハの内から這いでた新たな人間は、血まみれで、ひどく消耗していたものの、顔立ちも髪も身体も、まったくユハと同じ姿をしていた。ただ瞳だけが異なっていた。彼女の瞳はうつくしかった。狭い檻に何年も監禁された獣のように傷つき損なわれていたというのに、自由を理解する力は残っていた。喉に詰まっていた血のかたまりが溢れ、気道を開いた。声が生じた。  そして、かつてユハという名前の人間だったものは、かつてユハと呼ばれていたすべてのものを置き去りに、振り返ることなく、一散に走り去った。かつてユハという名前の人間だった樹木は、もう、人間だったころの五感をすべて失っていたけれども、かつて自分の中にあったものが立ち去ってゆくのを確かに理解して、泣いた。その涙は出口を探して樹木の身体をしばらく彷徨った後、かすかな諦めとともに、気孔から抜け落ちていった。  そして静寂が残った。  沈黙。  ここには言葉もない。  いずれは心も消える。  ただ、解けゆく記憶の光だけが、夢のように瞬いている。 夢、あるいは記憶 一章 歌う雨の町  古い換気扇に、二人分の食器。  塗装の剥げかかった小鍋。  金色の西日が差す小さな窓。  失われた生家を思うとき、いつも台所のことを思い出す。狭い借家の窮屈な台所で、火を使うとすぐに熱が篭り、暑くて仕方がなかった。平日の夕食を作るのはユハの役目だった。学校帰りに惣菜と食材を買い、冷蔵庫の中身をやりくりしながら、できるだけ温め直しても味が落ちにくいものを作った。母の帰宅はいつも遅かったから。  けれどその日は、スープを火に掛けてすぐ、玄関の鍵が回った。帰宅した母は、「ただいま」の一言もなく、疲弊した様子で椅子に座り、ユハを呼んだ。聞く前から悪い知らせだとわかった。母は掠れた声で言った。 「ここから出ていかなくてはいけない」  ガクン、と激しく機内が揺れた。  気を紛らわせるのももう限界だった。墜落のイメージが、ふたたび鮮明さを増して、頭の中に広がっていく。不規則な振動と浮遊感はかれこれ十五分近く続いていた。いやな音を立てて機体が軋み、ユハはぎゅっと目を瞑った。  固く組んだ両手を唇に押し当て、じっと時が過ぎるのを待つ。墜落なんて考えるから余計に恐ろしく感じるのだ。何も考えないためには、目覚めたままで眠るように、心を空にすれば良い。そうすれば、怯えた子供の泣き声も、機体の振動音も、遠く隔てられたようにしか聞こえなくなる。  激しい揺れは五分ほど続いた。長い五分だった。ほとんど一時間以上に感じられた。それでも、ピークを越えると振動は徐々に弱まっていった。  長い間を置いて、やがて、ポーン、と柔らかなチャイムが響いた。 「みなさま、ご不便とご心配をおかけいたしました。まもなく、機内サービスを再開いたします……」  飛行機が乱気流を抜けたのだ。シートベルトの着用ランプが消え、機内に張りつめていた緊張も解けて、あちらこちらで笑い声が上がった。長い不安に耐えた乗客を労わるため、ワインとジュースを満載したワゴンが、通路の間をゆっくりと進みはじめた。  ユハは指先をさすりながら、手に食いこんだ爪痕が薄れてゆくのを眺めた。飛行機がこんなにも恐ろしい代物であると、なぜ母は教えてくれなかったのだろう。たぶん、とユハはすぐに自答した。母にとっては大したことではないのだろう。実際、引越しの支度で疲れ果てていた母は、離陸してすぐにアイマスクと耳栓で守られた眠りに落ち、乱気流の不快な揺れでも微動だにしなかった。 「白ワインを——ああどうも。いや、ずいぶん揺れましたねえ。やはり赤道を越えるのは大変ですな」  母のとなり、通路沿いの席に座る老人が、プラスチックのカップに注がれたワインを嬉しそうに受けとり、一息に飲みほした。このあたりでは珍しい白い肌にたちまち赤みが差した。客室乗務員の女性が柔らかく微笑み、窓際で縮こまるユハに「ご気分は悪くございませんか?」と尋ねた。ユハは反射的に笑い返した。 「大丈夫、だと思います、大丈夫です。オレンジジュースはありますか?」 「ええ、ございますよ。お母さまのお飲みものはいかがいたしましょうか」 「いまは大丈夫です。母さんが起きたら聞いてみます」 「何か必要でしたらいつでもお声がけくださいね。エチケットバッグでも、お水でも」  ゆっくりと、舐めるようにジュースを飲み、ユハは窓の外を見やった。オレンジの酸味はいくらか気分をましにしてくれた。国内線とはいえ、首都から四時間も飛んでいれば、空の眺めにも飽きてくる。ふと焦点をずらすと、窓に映る自分と目が合った。不安に濡れた瞳、血の気が引いた唇。褐色の肌も普段より濁って見え、明らかに具合が悪そうだ。窓を見るのはやめにして、ユハは機内雑誌をめくった。国内旅行の特集に混じって、これから自分たちが住む町のことがすこしだけ書かれていた。およそ半ページほどの短い記事だ。「素朴」だとか「のどかな町並み」だとか「美しい森」だとか、そんな曖昧な言葉ばかり並び、掲載写真も切手ほどの大きさで、何度読んでも町の姿がちっとも見えてこない。唯一、ユハの注意を引いたのは、記事冒頭に書かれた町の名前の解説文だった。聞き慣れない音の短い連なりは、現地の古い言葉で<歌う雨>という意味を持っているらしい。これだけは少し素敵だ、とユハは思った。  かつて母はこの町に住んでいたのだ。どんな町なのかとユハが問うてみても、母はぽつりぽつりとしか語らなかった。「何にもない町」とか「迷信深い人ばっかり」とか。これなら何も聞いていないのと変わらないと、ユハは早々に質問を諦めた。昔から、母は説明が苦手なひとだった。「向こうでは、わたしの親代わりだった人の家でしばらく一緒に暮らすから」と知らされたのも、たった三日前のことだ。  ユハは溜息をつき、機内雑誌を閉じた。引越しなどしたくなかった。けれどそれは間違いなく母も同じだった。職場と居住資格をいっぺんに失った後、首都へ留まるために母が奔走したのを知っている。退去勧告を手に、苦しそうに項垂れる母の背中を見てしまっては、とても、行きたくない、とは言えなかった。  結局、飛行機が着陸態勢に入るまで、母は目を覚まさなかった。  小さな空港の、ひとつだけの滑走路に飛行機は慎ましく着陸した。太陽は既に天高く昇り、南半球の北の空から白々と光を注いでいた。  乗客たちは、機体に横付けされたタラップを降りながら、まず機内と地上の温度差に、次に水分を重く含んだ空気に、そして空港の外壁を輝かせる強烈な日差しに直面し、顔をしかめる。けれどもすぐに身体を動かせる喜びが勝り、嬉しそうにターミナルへと歩いてゆく。  本当に小さくておんぼろな空港だった。設備が貧弱で、荷を下ろすにも時間が掛かる。身軽な人間はさっさと荷物受取場に辿りついてしまうので、自分の荷物が出てくるまで長いこと待たなくてはいけない。おまけにバゲージレーンはところどころ故障している。運の悪い鞄やスーツケースは、歪んだカーブを曲がりきれず、ベルトコンベアからぼたぼたと落下する。整備が行き届いた首都の空港とは大違いだ。唖然とするユハを見て、母は眠気の残る声で笑った。  長い待ちぼうけの後、バゲージレーンに現れた荷物を二人がかりで手押しカートに運び、ようやく一息つけた。母が昼食を買いに出て、荷物番を任されたユハはベンチに縮こまり、カートの傍にぴったりと身を寄せた。周囲で交わされている会話は、ユハの耳に馴染んだ音とは抑揚もリズムも異なり、同じ言語であるはずなのに、遠い異国の言葉のように聞こえた。音割れしたスピーカーから響く自動アナウンスの抑揚だけが懐かしかった。次の借り手に渡ってしまった首都の家、いつも日陰だった学校の狭い廊下、友人が話していた長期休みの計画のことをユハは思った。それはとても遠く感じられた。  ふいにベンチが大きく軋んだ。ユハの隣に座った若い女性は、円やかな手のひらで額の汗を拭うと、鞄から文庫本を引っぱりだした。ページを無作為に捲っては閉じ、また開き、落ちつかないのか周囲を見回して、またページに視線を落とす。その繰りかえしの何度目かで、ユハと目があった。ユハはすぐに顔を伏せたが、彼女はじっとユハを見つめ、覗きこむように身を乗りだしてきた。 「あの、人違いだったらごめんなさいね。あなた、首都からの便で来たのよね? お母さんの名前はジェンだったりしない?」  ユハは目を瞬き、頷いた。とたん、彼女は顔を輝かせ、満面の笑みで両手を打ち鳴らした。 「ああ! やっぱり! 姉さんにそっくりだと思った! のっぽなところも、その目元も、あの頃の姉さんそのものなんだもの。びっくりしちゃった。ここで待ってれば会えるだろうと思ってたけど、まさか姉さんより先に、娘のあなたを見つけるなんてね。あなた、そう、あなたがユハちゃんよね? わたしはキアウィというの、みんなはキアと呼ぶけど。あなたたちを迎えに来たのよ」  母さんに妹がいるなんて聞いたことがない。ユハは目を白黒させながら、カートのハンドルをぎゅっと握りしめた。キアウィのお喋りは早口な上に鈍りが強く、集中していないと聞き落としてしまいそうだった。  ちょうどそこに母が戻ってきた。キアウィは、ベンチに伏せた文庫本もそのままに勢いよく立ちあがり、走りだした。すごい足音の疾走だった。母は昼食の包みを慣れた所作でカフェのテーブルに置き、一歩下がった。歓声をあげるかと思ったのに、キアウィはほとんど無言で母に飛びついた。母は苦笑いを浮かべ、キアウィの背中を軽く叩いた。 「ああ、もう、キア、ほどほどにしてちょうだい。暑苦しいったら! それに、そんなに太っちゃって! 一瞬、誰かと思ったじゃないの」 「十七年ぶりの再会で言う台詞がそれ? そんな昔の私と比べられたってどうしようもないでしょ!」  キアウィは今にも子どものように地団駄を踏みそうだった。通行人の視線をひとりじめだ。ユハはうろたえつつも、二人の傍までカートを押していった。キアウィの言葉は留まることなく、さらに速度を増した。 「姉さんったら、いくら誘っても帰ってこないんだもの。もう私たちに会う気はないのかと思ってた。この十七年、ときどきの電話だけで、本当に一度も帰らないなんて! ——まあでも、帰ってきてくれたんだから、もう何でもいいか」  キアウィはようやく静かになり、気が抜けたのか、カフェの椅子にぺたんと腰を下ろした。 「そう。結局、帰ってきたの」  呟いて、母はユハに紙袋を手渡した。 「中にジュースも入ってるから気をつけて……もうキアとは話した? これからしばらくは、キアの家に居させてもらうことになるから」 「姉さんも住んでた家でしょ、そんな他人行儀に」  キアウィは笑って頬杖をつき、ユハを見上げた。 「改めて、よろしくね、ユハちゃん。姉さんとは子どものころ一緒に暮らしてたの。血は繋がってないんだけど、叔母さんと思って仲良くしてちょうだい」  ユハは自己紹介を返しながら、そっと二人を交互に見た。電話、と聞いて思いあたる節があった。年に一度か二度、母は普段と違う声音で電話をかける。いつもは長電話なんてしないのにと不思議に思っていたが、あれはキアウィと話していたのかもしれない。  血縁はないという言葉どおり、二人はたしかに似ていなかった。母は背が高く、細身で、どこか人を寄せつけないような鋭さがあったが、キアウィは顔も体つきも丸っこく、ふわふわに縮れた短髪がよく似合っていた。背丈もユハとほとんど同じか、すこし低いくらいだ。柔らかな目元のせいか、母よりもずっと若く見える。良い人なんだろうな、とユハは思った。  <歌う雨>の町はまだ遠く、ここから車で二時間ほど掛かるらしい。冷房のきいたターミナルから外に出ると、蒸し暑さが一気に肌を塞いだ。数分も歩かないうちに、汗ばんだシャツがぺたりと背中に貼りついてきた。  首都もそれなりに暑い街だったが、赤道至近のこの辺りは、暑さの性質がまったく違う。年間を通して日の長さは変わらない。雨季と曖昧な乾季との反復を淡々と繰りかえす、時間を止めてしまうような暑さだ。「懐かしい」と、隣を歩く母が小さな声で呟いた。  キアウィの車は駐車場の奥に停めてあった。おんぼろな小型車で、黄色の塗装はところどころ剥げ落ち、タイヤにもフレームにも乾いた泥がこびりついている。小さな車の小さなトランクにはスーツケースがひとつしか入らず、残った荷物のうち軽いものは屋根の荷台に括りつけられ、重いものは後部座席にむりやり押しこまれた。かろうじて残った窓際の狭い空間に、ユハはなんとか体を落ちつけた。炎天下に停められていた車内には息苦しいほどの熱気がこもり、うっすらと黴のような匂いも漂っていた。キアウィは空調をつけたままで四方の窓を全開にした。助手席に座った母が、胸元を手で扇ぎながら呻いた。 「キア、この車、買ってから何年目?」 「少なくとも十年かな? 安い中古だったし、実際のところは謎。空調もほぼ飾り! でも良い子よ、なんだかんだ言って、ちゃんと走るもの」  キアウィは笑ってエンジンをかけた。ラジオから流行歌が流れだし、歌声に押されるようにして車は滑らかに走りだした。車内に風が流れこんできた。  空港のゲートを出てすぐ、一般道に入った。すれ違うバス、タクシー、あらゆる車たちは埃に汚れていた。それというのも、道路が汚れているせいだ。舗装道路の左右に残されたままの赤土が、雨の降る度に流れ出てアスファルトを泥で覆ってしまう。そして雨は毎日のように降る。  道沿いには熱帯の木々が茂り、枝葉の合間を縫うようにして、蔓にびっしり覆われた旧式の木製電柱が電線を渡してゆく。ぽつりぽつりと家屋が現れる。焼き物の欠片で築かれたささやかな塀にブーゲンビレアが咲きこぼれ、鮮やかな紅色が目に眩しい。森を抜けると、一面に田園が広がった。遠く山の稜線を背負い、青々と揺れる水田の畦に、灯台のように椰子が生え、大きな葉を風に揺らしている。ユハは知らず知らず窓の縁に手を置いて、流れゆく風景に見入っていた。 「姉さん、電話でも言ってたけど、ほんとうに明日から仕事に出るの? それも川向こうの街まで、わざわざバス乗り継いで。片道一時間半は掛かるよ」 「前の職場の伝手なんだもの、贅沢言えない」 「しばらくのんびりして、近場で別の仕事探したら?」 「近場って、大して求人ないでしょ、今も」 「まあそれはそう……でもせめて、数日くらい遅らせても。引越しの荷物を解くだけでも大変でしょうに」 「もうぎりぎりまで出社日を調整してもらったから、これ以上は……ああもう」車が弾んだ拍子に、アイスコーヒーのこぼれる音が聞こえてきた。「相変わらずひどい道ね」 「これでもだいぶマシになったよ。わたしらの町は相変わらずだけど、隣町への街道はすっかり綺麗になったし、二輪もいっぱい走ってる。姉さんは免許持ってたっけ」 「持ってはいるけど、最後に運転したのがいつか覚えてない」 「あー、あー、これだから都会暮らしの人はぁ」  機嫌よく、なじるように片手を振って、キアウィは勢いよくハンドルを切った。遠心力とともにスーツケースの角がユハの腕に食いこみ、車窓見物どころではなくなったユハは荷物を押しかえすことに集中した。 「そういや、ユハちゃん、学校は? まだ学生だったよね?」 「町の学校に転入します。長期休みが明けたら……」 「ああ、あそこか。こっちは新学期が始まるのも遅いから、ゆっくり過ごすと良いよ」  ラジオの音楽が止み、天気予報に切り替わった。淡々と、知らない地名が読みあげられていく。『……の最低気温は二十三度、最高気温は三十二度の予想です。夕方から東風が強まる見込みで、山沿いでは急な雷雨に……』ユハは窓枠にもたれ、予報士の単調な声をぼんやりと聞き流していたが、ふと目を瞬いた。地名と気温の合間からひそやかな歌声が響いている。ハンドルに添えた指先でとんとんとリズムを取りながら、キアウィが鼻歌を口ずさんでいた。信号待ちが終わったとたんに聞こえなくなるほどの声量だったけれども、ユハには新鮮な驚きだった。記憶にある限り、母はユハの前で一度も歌ったことがなかった。  助手席の母が振り返り、ユハの膝上で手付かずになっている紙袋を見て、呆れ混じりの声で笑った。 「ユハ、それ、悪くなる前に食べちゃいなさいね。どうせまだまだ着かないんだから」  表皮に皺の寄ったパンは、中に挟まれた野菜とソースの水分でふやけて、味がよくわからなかった。  それからの道中は眠ってしまっていたらしい。どこか不安な夢の暗がりでけたたましいクラクションが鳴りわたり、ユハはびくっと身を震わせて目を覚ました。隣の車線を強引にトラックが追い抜いてゆく。キアウィが車内鏡越しに、気遣わしげな視線を向けてきた。 「起こしちゃった? ごめんね」 「あ、いえ……あとどれくらいですか」 「もうじき、あと十五分くらいかな。姉さんも爆睡してるし、まだ寝てて大丈夫よ」  車窓の風景はすっかり様変わりしていた。森と田畑は姿を消し、舗装された道沿いに小さな店舗が重なりあって並んでいる。路肩に並ぶ自転車、二輪タクシー、木陰でまどろむ客待ちの運転手たち、屋台の呼び込み——吹きこむ風に冷たさを感じて、ユハは窓からすこしだけ顔を出した。天頂近くから空の半分が黒い雲に覆われていた。進行方向の彼方は明るく晴れているのに、と思う間もなく、熱帯の雨がどっと落ちてきた。大粒の雨はアスファルトの路面を駆け抜けるように染め上げ、視界を白く塞いだ。激しい水しぶきの中、キアウィはまったく動じずに、慣れた様子でワイパーを動かした。 「ちょっと窓閉めててね。すぐ止むから」  窓ガラスに走る水流の向こうで、屋台が次々にパラソルを開いた。この雨量では小さな傘は役に立たない。道ゆく人もみな、雨宿りに駆け出していく。  ふと、人の流れに逆らって、いくつかの人影が雨の下へ飛び出してきた。小さな子どもから腰の曲がったお爺さんまで、手に手にボウルやバケツを掲げ、全身ずぶ濡れになりながら雨を集めている。「ああ、初雨の人がいるねえ」キアウィがしみじみと呟いた。ユハは窓に頬を寄せて、遠ざかってゆく彼らを見つめた。 「姉さんから聞いたかもしれないけど——いや、姉さんなら言ってないかな。ここらのひとはね、死んだひとは雨になるって信じてるんだ。死んだひとは二十七日掛けて天を巡り、そのあと初めて降る雨と一緒に、わたしたちの元へ帰ってくる。あ、全部じゃないよ、そのひとの欠片がね。それからはずっと雨の中にそのひとがいる」  首都では見たことも聞いたこともない風習だった。そうなんですね、とユハはできるだけ平静な声で相槌を打ったが、表情を隠せていなかったらしい。キアウィは車内鏡をちらりと見上げ、笑いだした。 「驚いた? わたしもね、大人になってから、首都じゃ誰もそんなこと信じてないって姉さんに聞いてびっくりしたよ。子どもの頃は、首都なんて遠い世界の彼方だったし……ああやって集めた初雨は、庭に撒いたり、料理に使ったりするんだよ」  さっと窓の外が明るくなった。雨を抜けたのだ。  窓を開けると、雨音と入れ替わりに、鳥のさえずりが響いてきた。家々の軒先に吊るされた鳥籠からだった。気づいてみると、どの家にもひとつふたつと鳥籠が吊るされ、色鮮やかな小鳥が止まり木に羽を休めている。 「鳥が好きなひとが多いんですか?」 「うん? ああ、そうかも、大体どの家でも飼ってるね。インコとかオウムとか、文鳥とかカナリアとか……庭付きの家なら鶏を買うし。毎朝すっごくうるさいよ!」  町外れでキアウィはハンドルを切り、細い脇道へ車を進めた。道の舗装状態は悪く、いくらも進まないうちに車は軋みながら左右に揺れはじめた。目を覚ました母が気怠そうに頭を振った。「もうすぐ着くよ」とキアウィ。住居はまばらになり、路肩にはふたたび木々が茂り、森の勢いに押されてか、ちょっとした畑や庭たちはどこか肩身が狭そうにしていた。  とびきり古く見える大きな家の前で、キアウィは車を停めた。運転席と助手席のドアが開け放たれる。ユハは一息遅れて、用心深く帽子を被り直してから、外に出た。  太陽は北の空でわずかに傾きはじめていた。日差しが一番きつい時間だ。雨上がりの、濡れた土と草木の匂いが甘く押し寄せてきた。「古い家でねえ!」キアウィが、車の屋根から荷物を降ろしながらぼやいた。「その癖、だだっ広くて、いくら掃除しても追いつきやしないんだ。これでも昔はゲストハウスみたいなことをやってたんだよ。あの頃はここらの脇道ももうちょっと活気があって、それなりに忙しくて……でも、もう十年以上前に廃業してね。学生向けの下宿とかにもしてみたんだけど、うまくいかなくて。もう跡形もないね」  視界を塞ぐバナナの葉をユハは片手で軽く押しあげ、錆びた門のあいだから中を覗きこんだ。雑草だらけの広い庭、敷地を囲む木立、板張りの小さな納屋。三角屋根の母屋は二階建てで、外壁はピンク色に塗られていた。明らかに周囲の景色から浮いている。もしかしたら、ペンキが褪せてそう見えるだけで、昔はもっときれいな色だったのかもしれないが、うまく想像できなかった。  庭は先ほどの雨に濡れていて、スーツケースを転がすには不向きだった。持ち上げたままで運ぶしかない。門から母屋まで伸びる不揃いな飛び石を伝って、慎重に足を進める。チチチ、と鳥の囀りのような音を立てて、手のひらほどもある巨大なバッタが雫を散らして足元から飛び立っていった。  玄関のドアは開け放されていた。眩しい太陽に満たされた外に比べ、室内の暗さはほとんど夜に近い。目が慣れるのを待って立ち竦んでいると、キアウィがふうふう言いながら追いついてきて、ユハの隣に勢いよく荷物を降ろした。 「はあ、やれやれ、何往復かかるやら。夜まで車に積みっぱなしでも誰も盗りやしないのに」  キアウィは肩越しに振り返り、おどけるような明るい眼差しをユハに向けた。母は車のトランクからスーツケースを引っ張り出そうと悪戦苦闘していた。 「あれね、無理に詰めこんだから、上手いこと斜めに捻らないと角が引っかかってどうしようもないの。って言ったんだけど」肩を竦めて、「言って聞くひとじゃないからね。ユハちゃん、しばらく部屋でゆっくりしてて」 「え? でも、まだ荷物が」 「良いの良いの。あとは大人の仕事。それに、ちょっと具合悪そうに見えるし、休んでた方がいいわ。奥の階段登って、手前から二つ目の部屋を空けてあるから、好きに使ってね」  そんなに分かりやすく疲労が顔に出ていただろうか。ユハは俯き、早口でお礼を呟いて、暗い廊下へ足を踏みいれた。  ゲストハウスをやっていたという頃の名残なのか、廊下にはルームナンバーを打たれたドアがいくつも並んでいた。数字のひとつひとつは影に沈んで読み取れない。ふと、視界の隅、天井近くの埃っぽい暗がりに何か黒いものが走るのを見たように思って、ユハは首を竦めた。気のせいだ。と思いたい。急いで通り抜けようとすると、キアウィの声が背後から追いかけてきた。 「ごめん、言い忘れてた! 一階の台所、たぶん父さんと兄さんが居ると思うんだけど、もし鉢合わせてもびっくりしないでね。ふたりとも、ちょっと——そのう——なんというか、変わってるけど。悪いひとたちじゃないから」  はあい、と声を返しながら、台所には近づくまい、とユハは思った。  突きあたりの階段には手すりがなかった。壁に危なっかしく片手を付き、一段ずつ、自分の身体とスーツケースを持ちあげてゆく。途中から怖くなり、階段に尻をつけて横を向いたままずりずりと登った。  二階の廊下には天窓があり、熱帯の日差しを木漏れ日の形に変えて家の中に注いでいた。風が吹くたびに光は細波のように揺れて、樹木が踊る様を映し、どこかで窓が開いているのか、それとも壁が薄いのか、枝々が擦れあうカチカチという音がとても近く聞こえた。  キアウィに告げられた自室、手前から二番目の部屋へと、ユハはスーツケースを転がしていった。ドアは半開きになっている。  部屋までおんぼろでなければ良いけれど。うっすらとした不安を感じながら、ユハはドアを開けた。  部屋は思っていたよりも広く、窓が大きかった。どこかの古いホテルのように、年季を帯びたクローゼットと化粧台、書き物机と椅子が置いてある。それからいくつかの古い雑誌の束と、紙袋に放りこまれた書類と、埃っぽい古着の山——これまでは物置として使われていたらしい。窓の傍には、折りたたまれたマットレスと、フレームを剥きだしにした小さなベッドがあった。ベッドにはブランケットが敷かれ、一本の樹木が無造作に横たわっていた。  「えっ」とか「あっ」のような無意味な音がユハの喉の奥で鳴った。疲れのせいだろうか、驚きよりも冷静さが勝って、ユハはその場で立ちつくし、自分のベッドで寝ている木を見つめた。それは倒れた鉢植えなどではなかった。およそ二メートルほどの、青々と葉を茂らせた樹木で、百本の裸足のような根が伸び伸びと絡まりあってベッドの端から垂れ下がっていた。それが何なのか、ユハには分からなかった。首都ではおよそ見たことのない木だった。この町では普通のことなのかもしれない、という思いが一瞬脳裏を掠めた。そう、雨を受けとめる風習と同じような。そうでなければ嫌がらせだ。どちらにせよ有難いものじゃない。ユハは後ずさり、廊下に出た。目を離す方が怖いような気がした。「お母さん」、と大声で呼ぼうとしたのに、囁くような声しか出なかった。  階段の軋む音がした。母かと思ったが、聞こえてきたのはキアウィの声だった。 「ユハちゃん、ごめんねえ、兄さん見なかった? 台所にいなくて——」  キアウィは廊下に立ち竦んでいるユハを見るや、何かを悟ったようだった。柔和な表情がさっと真顔になり、すぐに眉を下げた呆れの色に取って変わった。ユハの肩越しに部屋を覗きこむと、「まったくもう」とぼやきながら額に片手を添えた。母の癖とまったく同じ動きだった。 「兄さん!」  キアウィが声を張りあげ、ユハは戸惑って辺りを見回した。人影はない。廊下に並ぶドアはカチリとも動かない。誰の返事もない。 「聞こえてないわねこりゃ。ああもう、この忙しいときに」  キアウィはのしのしと部屋に入ってゆくと、ベッドに寝ていた木を抱えあげ、その重みに数歩よろめいた。枝葉が騒々しく揺れて、数枚の葉がはらはらと舞い落ちた。 「ユハちゃん、悪いんだけど! 部屋の隅に洗面台があるから、バケツに水汲んで持ってきてくれる? バケツは壁際の——そうそう、それ」  ユハは言われるままに動いた。蛇口を捻り、ブリキのバケツに水を溜める。どれくらいの水量があれば良いのかわからず、バケツに半分ほどで切りあげて、キアウィのもとへ取って返した。「そこにおいて」とキアウィは床を顎で示した。そっとバケツを下ろすと、キアウィは慣れた手つきで木を肩に凭せかけ、絡まりあった根を軽くほぐしてから、バケツの水につけた。そして器用に片足でバケツを壁際に押してゆき、部屋の角に木を立てかけて、上手くバランスを取った。 「これでよしと。なんで自分から干からびるようなことをするんだか! ありがとうユハちゃん、助かったわ」 「あのう……キアさん?」 「うん?」 「……この町では鉢植えをベッドに寝かせるの?」  キアウィはたちまち目を丸くした。 「姉さんから何も聞いてない? 何にも?」  耳が熱くなるのを感じながら、ユハは俯いた。キアウィはそれを首肯と受けとったのか、ふっくらとした手をユハの肩に置いて、知人を紹介するような様子で壁際の木に目をやった。 「あとでちゃんと本人からも自己紹介させるけど、あれは鉢植えじゃなくて、うちの兄さんよ。今は木になってるけど」  今は木になってるけど。ユハは眉間に力をこめて、言われた言葉を理解しようと努めた。キアウィはさらに続けた。 「たまに、ああやって寝過ごして動けなくなってるときがあるから、声をかけても返事がなかったら水につけてあげてくれる? よほど長いこと水切れを起こしてなきゃ、三十分くらいで動けるようになるから」  動く。——どのように?  ユハは喉まで出かかった質問を飲みこみ、黙って頷いた。何と言えば良いのかまったく分からなかった。 「掃除を頼んでたんだけど、この様子じゃ終わってないな……ごめんねえ、もう」  肩を竦め、キアウィが廊下に出てゆく。ユハも慌てて後を追った。あの木と二人きりにされるのはごめんだった。キアウィは追ってきたユハに気づくと、気遣うように「台所でお茶にしようか」と言って、改めて驚かせたことを詫びた。  一階の階段脇の扉は、ささやかな中庭に繋がっていた。草地に覆われていた表の庭とは異なり、モザイクタイルが敷かれ、白々と日差しを反射している。すらりとしたプルメリア、櫛の歯にも似た葉を束ねたようなヤマドリヤシ、ソテツ、ブーゲンビレアが葉を揺らし、木陰にはテーブルとベンチまで置かれて、まるで静かな公園のようだった。  向かいの建物まで続く屋根つきの回廊を、キアウィはすたすたと歩いていく。ユハは緩んだ歩調を早めながらも、周囲を見回さずにはいられなかった。回廊の床はコンクリート造りで、靴音は反響し、頭上から降るように響く。キアウィが振り向いて、どこか得意げに目を細めた。 「いい庭でしょ。表の庭は手入れできてないんだけど、中庭は小さいからなんとかなってるんだ。早朝とか夕暮れにそこのテーブルでお茶飲むと楽しいよ、めちゃくちゃ蚊に喰われるけどね」  ユハに合わせて歩きながら、キアウィは回廊から見える部屋の窓を順繰りに指差した。 「さっきの建物は、後から客室用に増築した棟なんだけど、今じゃ一階なんかほとんど倉庫なの。二階はまだマシだから、わたしと子供たちの部屋も、姉さんの部屋も二階。うちの子たち、ユハちゃんの隣の部屋だから、仲良くしてあげてね。……で、中庭の向かいにあるのが元々の家。台所も居間もお風呂もこっち。父さんの部屋もね。昔はリネン室だった部屋もあるんだよ。いちばん繁盛してたときは、一晩にお客さんを十五人くらい泊めたりして、いや十人だったかな、まあいいや。ともかく賑やかでねえ。今はこんなに静かになっちゃったけど」  向かいの建物に入り、キアウィはユハを居間へ案内した。居間と言っても、かつては宿の食堂も兼ねていたそうで、その広さを持て余してか、空間の半分ほどは物置と化していた。壁際に寄せられた揃いのテーブルには、いくつもの椅子が脚を上にして重ねられ、うっすらと埃を積もらせていた。  奥に一台だけ残された八人がけのテーブルで、母が見知らぬひとと話しこんでいた。皺々にたるんだ首筋、日に焼けた赤褐色の肌、後頭部をうっすらと覆う白い巻き毛。老人はパッとこちらを振り返った。母とはまったく違う顔立ちの、深い緑色を帯びた瞳がユハを射抜いた。 「じゃあ、この子がそうなのか? え? 随分と痩せてるじゃないか!」 「街の子はこれくらいで普通なの。——ユハ、紹介するからこっちにいらっしゃい。ご挨拶して。耳が遠いから大きな声でね」  母の傍らに立ったユハを、老人は測量でもするように上から下まで眺めた。ユハなりの精一杯の「こんにちは」が聞こえたのか聞こえなかったのか、無表情のままだ。母は淡々と紹介を済ませた。父さん、こちらがユハ、私の一人娘。ユハ、こちらが私の父代わりだったひと、名前はゲア、まあ祖父だと思えばいい、血の繋がりは別にないけれども。  ユハはそっと母に耳打ちした。「私もお爺さんって呼んだ方がいい?」首肯が返り、ユハは改めて彼の耳元で挨拶を繰りかえした。とたん、ゲアは顔中の皺をくしゃくしゃにして、濁音と痰の絡んだ声で「良い子だ!」と言った。その声量に思わず顔を伏せて、ユハは目を見開いた。ゲアの右脚は下腿が欠損していた。傍に剥き出しの義足が立てかけられていた。  ゲアはユハを隣に座らせ、矢継ぎ早に質問をはじめた。——学校は? 成績は? 首都暮らしはどうだったか? 得意科目は? 運動は好きか? 友達とは何をして遊んでいたのか? 好きな食べ物は何か? 母の手伝いをしているか? 等々。途中、キアウィが冷たいお茶を携えてやってきて、さりげなく話に加わろうとしたが、「この子に何か果物を出してくれ」とすぐに台所へ戻されてしまった。母もいつのまにかいなくなっていた。台所から話し声が聞こえるので、どうやらキアウィと一緒に居るらしい。ユハは頃合いを見計らって母のところへ行こうとしたが、次から次と繰り出される質問にはまったく途切れる気配がなかった。  逃亡を諦め、ユハが首都の学校生活について当たり障りのない報告をしていると、開けっ放しの扉から長身の若者がひとり、だるそうな足取りで入ってきた。黒い巻き毛に葉っぱが何枚もくっついている。今度は誰だろう、キアさんの息子、にしては年がおかしい、と考えながらユハは挨拶の仕草をした。彼はまじまじと——ゲアにそっくりの眼差しで——ユハを見下ろし、それからゲアを見た。 「ゲア、この子、誰?」 「ああ? 話しておいただろう? ジェンの娘だ、兄さんが片付けた部屋を使うことになる子だよ」 「ああ! もう着いてたんだ。てっきり到着は夕方くらいかと思ってた」  若者はテーブルに置かれた水差しを手に取り、口付けたまま仰向いて、信じられないくらい長々と水を飲んだ。ゲアが片眉を上げた。 「またキアに叱られるぞ。人間らしくコップを使え」 「干からびそうだったんだよ。ええと、君がユハ? もしかして、さっき二階に居たよね? ごめんよ、掃除の途中でうっかり昼寝しちゃったんだ。バケツに浸けてくれて助かった」  ゲアは大仰に溜息をついた。 「兄さん、また木に変身してたのか」 「心配かけて悪いね。もう習性なんだよ。ちょっと気を抜いたら呼吸も忘れてしまいそうなのに、こうやって二足歩行してるだけでも褒めてほしいくらいだ。——ねえ、もう昼食は済んじゃった? 残り物とか何かない?」  台所から「はいはい」と声が返る。キアウィは忙しく動きまわり、ユハにはよく冷えたパイナップルを、若者にはスープを小鍋ごと出した。温め直したばかりらしく、盛んに湯気の立つ小鍋からは、母がときどき作ってくれた魚のスープと同じ、香辛料とレモングラスの匂いがした。キアウィはスープを皿に注ぎながら、咎めるように目を細めた。 「兄さん、掃除、さぼったでしょう。もうすこし手伝ってくれても良いんですよ」 「ごめんごめん。次は気をつけるから」 「どうだか……ああ、ユハちゃん、この人よ、さっきあなたのベッドに転がってたのは。兄さん、いや父さんでも良いんだけど、後でちゃんと説明してあげて。姉さんから何も聞いてないらしいから」  台所へ戻ってゆくキアウィを目で追って、若者は首を傾げた。 「説明? 何の?」 「首都じゃもう、変身する人なんて誰も居ないんだって」  スープを口に運ぼうとしていた若者と、茶を啜ろうとしていたゲアは、二人揃って動作の途中でぴたりとユハに視線を向けた。ユハは首を縮めた。 「本当に? 僕みたいなの、見るのも初めて? どおりで、僕のことを変な目で見るなあと思ったよ!」  若者は目を丸くしていたが、やがて宥めるように片手を優しくひらひらさせた。 「そんなに身構えないでおくれよ、ときどき木に変身すること以外は、まったく普通の人間だから。最近の世情や常識にはちょっと疎いかもしれないけど。ここ六十年くらいはずっと木になってたし」 「適当なこと言うな。六十七年だ」 「そうだっけ?」 「こっちは忘れやしないさ。ユハ、こいつはな、儂の兄貴なんだ。長いこと行方不明だったのが、三ヶ月前に突然帰ってきたんだよ。消えた日とほとんど同じ背格好でな。本当は八十五歳のくせに、こんな、十代の若造みたいな身体で帰ってくるなんて、あんまりだと思わんかね。見てのとおり、儂はもう皺々で、戦争で片足もそっくり取られて、義足を嵌めなきゃ一人で便所にも行けないってのに、こいつときたら両脚で家中走りまわるんだからなあ!」 「まあまあ、ゲア、落ちついて。木は人と同じようには歳を取らないんだよ」  若者は楽しそうにスープのお代わりを注ぎ、鍋底にくっついた香草を器用に剥がしながら、途切れないゲアの愚痴に相槌を打ちつづけた。  二人の顔つきは確かにとてもよく似ていた。巻き毛も、深い緑色の瞳も、血の繋がりを感じさせる。すこし考えてから、ユハはこれまでの人生で培った常識どおりの判断を下した。つまり、彼はゲアの孫息子だ。そして、ゲアはおそらく呆けが始まっている。行方不明になった兄は、本当は生きていた、ただ木に変身していただけで、当時の姿のまま人間として帰ってきた——そんな物語をゲアは信じていて、彼のために誰もが話を合わせているのだろう。ユハは使命感に囚われた。ならば自分もそうしなくては。 「お爺さん、のお兄さん、ってことは、じゃあ私の大伯父さんですね」 「おじっ……いや、いや、ちょっと待って、確かにそうなんだけど。合ってるけど。その呼び方は承服できない」  目に見えて狼狽した彼に、ゲアは膝を叩きけたけたと笑った。 「なんだ良いじゃないか。八十五歳には御誂え向きだろう」 「ゲアは黙ってて。いいかい、ユハ、僕はたしかに長く生きてる。でも人間の身体としては二十歳にもなってないんだよ。だから従兄弟のようなものだと思ってふつうに名前で呼んでほしい。僕はニイジェというんだ」 「ニイジェさん」 「気楽にニイとか、ニイさんでも良いよ。だいたいみんなそう呼ぶから」  やがて食事を終えたニイジェが台所へ鍋を下げにゆくと、ゲアは手際良く右足に義足をつけた。できるだけじろじろ見ないようにしたのだが、それでも視線には気づかれてしまったらしい。ゲアはにやりとして、指の節で義足を叩いた。木を打つようなコツコツという音が響いた。 「珍しいか? ん? もう何十年もこの脚だ。普段はそうそう外さないんだがな、よりによってここを」義足と肌の境目を、ゲアは恨めしそうにさすった。「寝てる間に蚊に喰われてな。蒸れると痒くてたまらん。まったく」 「何してるのゲア。女の子を脅かしちゃ駄目だろ」  戻ってきたニイジェに、ゲアは鼻を鳴らして応え、杖をついて立ち上がった。流れるような所作でニイジェが隣に立ち、腕を貸した。 「部屋? 散歩?」 「部屋でいい」 「はいはい。じゃあねユハ、疲れてるだろうしゆっくり休むといいよ」  義足と杖とが板張りの廊下を叩く音が、小休止を挟みながら、したたり落ちる雫のようにゆっくりと反響して遠ざかっていった。その音は家のどこにいても聞こえるように思われた。 *
【本編目次】 第一章 雨の歌う町    1 いつか帰る場所    2 相槌と挨拶 第二章 あなたは孤独ではない    3 鳥市場    4 雲と煙の兄弟    5 スコールと木々のダンス 第三章 言葉のない世界    6 木喰い蔓    7 カルス・メリステム    8 草木交信    9 彼らは人間じゃない   10 極相林   11 変身 第四章 楽園の善良な樹木   12 現実   13 魔法の杖   14 愛しいあなたのために   15 剪定鋏   16 楽園の優しき人々 樹木たちは語る