呼吸書房

すべての木陰に歌を|試し読み

かわいそうに、わたしの影は狂ってしまった。
自分こそが人間で、わたしの方が影なのだと、思いこんでいるのですよ。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン『影』

思い出すんだ、どうやったら死なずにいられるかを。
どうやってあかりを灯すかを。
思い出すんだ。思い出すんだよ、木々の葉のつくる影を。
あの森はどこまで続いているんだろう?
心の届くかぎり。
アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』
第五巻『ドラゴンフライ』より「カワウソ」

樹木が傾いでゆく。
 樹齢百年は超えるだろう、人の背よりも遥かに高く、冬を知らない土壌に根を張り、数多の命を住まわせてきた一本の樹木が、静かに傾いてゆく。
 そのとき森は眠っていた。夜明け前だった。太陽はまだ遠く、しかし星は既に去り、青藍色の薄明の下、朝もやに包まれた熱帯雨林は、影絵のように黒々と佇みながら夢を見ていた。早起きの小鳥が一羽、また一羽と歌いはじめる。朝を招く歌声と寄りそうように、ひそやかに、樹木はゆっくりと傾いでいった。
 樹木が倒れるとき、幹の中途から折れるのではなく、根元からすべてが倒れてゆくとき、それは静寂で始まる。地中で根が緩み、土を離れて浮きあがり、空へと伸びていた枝葉がゆるやかに回転しながら大地に引きよせられてゆき、近隣の樹木を巻き添えに膨大な質量として叩きつけられたとき、初めて轟音が生じる。その音は落雷にも似るという。
 けれど、その樹木は最後まで静かだった。倒れゆく幹が風を切る音さえ途中でかき消えた。樹木はほどけるように崩れ、堅固な樹皮は柔肌に、枝葉は手足に、根は神経に、葉緑体は網膜となり、やがて人間の形を成して、とうとう大地に倒れ伏した。
 それは、かつて魔法で樹木に変えられた娘だった。彼女の周囲には、居場所をなくしたものが次々に降りそそいだ。鳥の巣、羊歯(しだ)の葉、苔と地衣類、それは、娘が樹木だったとき、その身体に抱えていたものだった。巣立ち前の雛鳥は墜落の衝撃で死に、羊歯の葉は折れ、蘭の花は砕けた。樹洞に暮らした蟻の群れは散り散りとなり、今しも蜘蛛に喰われるところだ。土壌と根を繋ぐ無数の菌根菌も、もう娘を助けはしない。
 百二十七年ぶりの呼吸に激しく咳込む背中に、朝日が触れた。
 おはよう、ユハ。


第一部 彼女について

1. トゥーリ

青空を透かす大温室の天井に、楽しげな歓声が反響する。駆けてきた幼い兄弟に、トゥーリは慌てて道を開けた。手元がぶれて、ホースシャワーの散水が作業着の裾をさっと濡らした。
「きみたち、走ったら危ないよ!」
 声は掛けたものの、兄弟は聞く耳を持たずに曲がりくねった通路を駆けてゆき、アレカヤシの葉影に隠れて見えなくなってしまった。追いかけるべきか迷っていると、息を切らした人影が小走りで横をすり抜けて、あ、と思う間もなく足を滑らせた。ホースを放りだし、とっさに両手で肩を支える。
「大丈夫ですか、気をつけて。温室の床は滑りますから」
「すみません、すみません。ああもう! あのふたり!」
 色違いの小さな上着を抱えた、保護者であろうその人は、恐縮しながら早歩きで兄弟を追いかけていった。やがて聞こえた一喝の声も、広い温室によく響いた。
 トゥーリは苦笑しつつ、ホースとシャワーノズルの下敷きになったカラテアの葉を点検した。茎が折れたものが二本あった。ごめんよ、と呟いて根元から切る。繊細な影絵のような葉の紋様に、あの幼い子供たちは目を留めてくれただろうか。植物園と大温室の非日常にはしゃぐあまり、見落とされたように思えてならない。
「こんなに美しいのにねえ」
 手のひらほどの葉のひとひらを、ゆるりと回しながら空にかざす。葉緑体を通過した光は深い緑にかがやいて、葉脈を浮かびあがらせた。孔雀の尾羽にも喩えられるその葉は表裏で色が異なり、葉裏はアントシアニンの鮮やかな紫色を帯びている。
 温室を歩く人々はみな、足元よりも頭上に夢中だ。天井を破りそうなほどに背の高いダイオウヤシに、宙空の玉座を思わせるオウギバショウ。トゥーリの背後で誰かが興奮気味に指差すのは、ちょうど同時期に開花したヨウラクボクとヒスイカズラだ。降りそそぐように咲きこぼれる紅色と翡翠の花序は、連なる蝶のかたちにも似ていた。記念撮影の画角に入らないよう、トゥーリは微笑んで数歩下がった。
 これらの木々が、現実の熱帯雨林でともに繁茂することはない。原生地のはるかな相違など、ここでは夢のように消えてしまう。
 温室は存在しないもののために作られた。
 本来ならばその土地で生存できない植物を、枯らすことなく長らえさせ、遠い熱帯の景観を幻として呼び招く。かつて富裕層の庭園で生まれたガラス造りの温室は、やがて巨大化し、植物園に欠かせない建造物となった。月日とともに空調機構が発展しても、最終的に構築されるものはずっと変わらない。温室は異邦の生命を生かす結界なのだ。
 長いホースを黙々とリールに巻きつけながら、トゥーリは額の汗を拭った。白い肌は赤く熱を帯び、淡い金髪は結いあげてなお、首筋に湿気をこもらせる。勢いよく引きよせたホースから眼鏡に水滴が跳ね、灌水表と湿度の計測データが視界(ブラウザ)上でぐにゃりと歪んだ。旧型のレンズは濡れると投影の精度が極端に落ちる。視界を拡張する安全な網膜インプラントが主流となった現在、眼鏡はとっくに時代遅れで、不便なことばかりだ。せめてコンタクト型に変えるべきだと重々わかっていても、どうしても慣れることができなかった。
 外した眼鏡を拭いつつ、温室を一瞥する。植物たちが輪郭を失って混ざりあい、緑の光となって揺らめく狭間、顔のぼやけた人々が行き交う。あるいは立ちどまり、あるいはベンチに腰を降ろす。太陽に雲が掛かったのか、日差しがひととき翳って、すぐに戻った。近視の裸眼でなければ見えない、焦点の溶けた曖昧な光に目を細めたとき、ふと樹木とすれ違ったような気がして、トゥーリは振りかえった。眼鏡を掛ければ視界はクリアに焦点を結ぶ。揺れていたのは木漏れ日ではなく、若葉色のスカートで、枝葉と錯覚したのはすべらかな褐色の手足だった。突拍子もない見間違いにひとりで照れ笑いをしてしまう。
 よく見れば彼女には見覚えがあった。このところ、月に何度か姿を見せる、顔馴染みのお客だ。言葉を交わしたわけでも、殊更に目立つわけでもないが、自然と記憶に残っていた。滞在時間が長いのだ。彼女は温室にやってくると、いつも同じベンチに座る。そして長いこと植物を眺めている。ひとり静かに、何もせずに。端的に言って珍しかった。来園者の多くは、温室のひとところには留まらない。珍しい植物に感嘆しつつも、順路に沿って通りすぎてゆくものだ。彼女はそうではなかった。同僚とともに丹精込めて造りあげた温室をそこまで熱心に見てもらえるのは、植栽管理の一員としてただ嬉しかった。トゥーリは口元を緩めて彼女を見送り、作業に戻った。
 送風機による均質な空気の流れが、しゃっくりのような一拍の沈黙を挟んで、ふたたび再開する。計画停電の時間だった。自家発電への切り替えは今日も滞りなく済んだようだ。研究棟へ移す育苗ポットを携えて、トゥーリは温室から外に出た。早春の肌寒い風が、管理された熱帯の温度を損なわないよう、すばやくドアを閉める。この街は冬でもそれほど冷えこまないが、それでも温室との温度差は大きい。
 首を縮めながら、植物園の敷地を横切る。温室に余熱と余剰電力を供給してくれる清掃工場の煙突の向こうに、暗い雲が広がっていた。どうも天気が崩れそうだと、トゥーリは足を早めた。視界の端、早春のバラ園をそぞろ歩く人々の頭上で、静かな駆動音を立てて透明な屋根が伸びていった。
 研究棟は普段よりもざわめいていた。国境を超えて何十年も提携関係にあった遠い北国の植物園が閉鎖するというニュースが届いたらしい。「もう温室が維持できないそうだ」「資金の打ち切りが……」声高な噂話は、通りすがりでも十分に耳に入った。
 慌ただしく階段を降りてきた園長のディナタが、トゥーリが抱える育苗ポットを見て丁重に道を開けた。ディナタは目尻の皺を深めて「来週から修羅場だぞ」と獰猛に笑った。
「先方の植物を二割、うちで引き受ける。絶滅危惧種も込みでね」
 トゥーリは愕然として「二割?」とオウム返しに答えた。閉鎖の決まった植物園から生体が譲渡されるのは初めてではないが、それにしても多すぎる。両手が苗で塞がっていなければ頭を抱えたいぐらいだった。
「貴重なコレクションをむざむざ散逸させるわけにもいかないだろう? 高山冷温室にも百鉢は追加で入れるから宜しく頼む」
 楽しげに言い放ち、ディナタはコートの裾をひるがえして階段を降りていった。呆然と立ち尽くすトゥーリの元に、思い出したような声が階下から響いた。
「早番なら急いで上がった方が良いぞ! あと十五分で雷雨と雹が来る」
「先に言ってください!」
 大急ぎで苗を届け、私服に着替えて通用口から飛びだしたときには、もう雷が鳴っていた。まばらに落ちた雫が、たちまち冷たい豪雨となり、強風に煽られて吹きつけてくる。雨に混じって雹が降りそそぎ、傘をバチバチと打ち鳴らした。トゥーリはよろめきながら急いだが、途中で無慈悲にバスに抜かされた。あれに乗りたかったのに! バス停は前方に見えていた。乗客が昇降を終え、ゆっくりとドアが閉まっていく。駄目もとで「待って」と叫んでみたものの、無人運転のバスはきっかり時間どおりに出発していった。悪態が口をついて出た。
 唯一の救いはバス停に屋根があることだ。次のバスは十七分後。トゥーリはため息をついて傘を畳み、ベンチに座った。眼鏡も髪も濡れそぼり、ハンドタオル一枚では大した役にも立たない。風の冷たさに身震いし、コートの襟をかき合わせた。
 案内表示の前には先客がひとり佇んでいた。横顔を見て、トゥーリはすぐに気づいた。今日、温室ですれちがった、彼女だ。ぼやけた視界で樹木と見間違えた、黒髪の女性。帰り際にちょうど雨とぶつかったのだろう。声を掛けるか迷って、やめておいた。こちらにとっては顔馴染みでも、彼女が植物園のスタッフを覚えているとは思えない。
 雹は止む気配がなかった。時折、小石ほどに大きなものも屋根を打った。路上に重なった氷の粒が、ゆっくりと排水溝に流れていった。
 別路線のバスが一本停車し、ドアを開けた。彼女は乗らなかった。後ずさり、周囲を見回しているうち、バスは出発してしまった。バスを見送る彼女の不安げな気配に、トゥーリは思わず「あの」と声を掛けていた。
「なにかお困りですか? どちらまで?」
 彼女は驚きに身を竦めたようだった。深緑の瞳が瞬いてトゥーリを見つめた。彼女は雹にかき消されそうな小さい声で「乗り方が分からなくて」と言った。
 言い添えられた目的地に、トゥーリは微笑んだ。温室のガイドツアーで接客用の笑顔はそれなりに鍛えている。
「私が乗るバスもそこまで行きますよ。途中までご一緒しましょうか」
「ありがとうございます」
 申し訳なさそうな一礼が返ってきた。トゥーリはベンチの隣を空けながら、ガイドのときも来園者に対してそうするように、そっと観察の視線を向けた。隣に座った彼女は印象よりも年若く見えた。二十代前半、もしくはまだ十代かもしれない。声は硬く、緊張と不安の響きがある。雨に濡れた黒髪が額と首筋に張りついて寒そうだった。手首には旧式の補助端末(ブレスレット)が光っていた。この辺りではもう珍しいが、まだ使えるはずだ。
「そのブレスレット、そう、それです。生体情報を端末に登録済みなら、ただ乗るだけで大丈夫ですよ」
 彼女はようやく表情を緩めた。「よかった」と呟いて手首を撫でる。
「借り物で、まだ使い方がよく分からないんです。誰かの真似をして乗ろうにも、こんなの誰も付けていなくて」
 トゥーリは共感をこめて相槌を打った。網膜インプラントによる視界拡張が主流になってからというもの、わざわざ物理的な端末を使っているのはよほどの物好きか、ご老人か、体質や持病の関係でインプラントが難しいなどの事情を持つ者がほとんどだ。とはいえ、少数派でもゼロではない。彼女を力づけるように、トゥーリは明るく笑ってみせた。
「けっこう古いやつですからねえ。でも、まだ使えますよ。わたしの眼鏡も、とっくに型落ちのやつを誤魔化しているところで」
 彼女は言われて初めて気づいたように、トゥーリの顔をじっと見た。それから小首を傾げた。
「もしかして、温室のスタッフさんですか?」
 顔を覚えられていたらしい。眼鏡を掛けている人間は少ないから、印象に残りやすかったのかもしれない。トゥーリは照れながら肯定を返し、素知らぬ顔で「今日は温室にいらしたんですか」と尋ねた。彼女は頷いた。
「このところ、よく行ってるんです。落ちつけるし、居心地も良くて」
「そうでしたか」このときばかりは接客用ではなく本心の笑みが出た。
「普段は徒歩で来るんですけど、今日は流石に、歩いて帰ったらずぶ濡れになりそうで」
 頭上で雷が轟いた。二人は揃って視線を上げた。いつのまにか雹は途絶え、ただ激しい雨が屋根に打ちつけていた。早春の短い午後を過ぎ、世界は夕暮れを迎えつつあった。まだ計画停電の時間は明けていないはずだ。バス停の電光表示も、瞬く街灯も、多くはバッテリー供給によって駆動していた。
「スコールみたい」
 空を見上げたままで彼女はそう言った。
 水たまりを跳ねあげて、バスがやってきた。トゥーリに促されて彼女はこわごわと乗車ドアをくぐり、その手首で認証の電子音が軽やかに鳴った。目に見えてほっとした様子で、彼女ははじめて笑った。
 二人掛けの椅子にしか空席がなく、トゥーリは彼女と並んで座った。もうしばらく道連れになりそうなので、世間話を投げかけることにする。
「わたしも、この国に来たころは、バスの乗り方が分からなくて苦労しました。もちろん地下鉄も右往左往で。当たり前すぎることって説明も書いてないんですよねえ」
「……遠くからいらしたんですか?」
「ええ。もう二十年は前、ひとりでね。十七歳のときでした」
 トゥーリは穏やかな声で、遠い北国の名前を告げた。冬が五ヶ月も続く、淡いオーロラの舞う国。かつてはその名を言うだけで、なぜトゥーリがこんな異国まで来たのかを人々は暗黙のうちに察し、同情や憐憫、あるいは好奇の目を向けたものだった。もう昔のことだ。ひとは忘れる。世代も移り変わる。彼女はただ、耳慣れない言葉を聞いたかのように、曖昧に頷いただけだった。「わたしも」と彼女は言った。
「遠いところから来ました。毎日わからないことばかりで」
「案外、国外旅行者向けのガイドブックなんか良かったですよ。バスの乗り方も、電源プラグの使い方も、タブーの仕草も、水の買い方も、まとめて書いてありますから。自動翻訳すれば大体は読めますしね」
「真似してみます」
 はにかんで笑う彼女に、あなたは何処から来たのですか、と尋ねかけて、トゥーリは口を噤んだ。あの頃、少なくとも自分は、訊かれたくなかったのだから。ただ想像を巡らせるに留める。きっと南の国ではないかと思う。スコール、遠い熱帯の通り雨が降りそそぐところ。温室の植物たちが、かつて根付いていたところ。もちろんそれは感傷で、大半は現地で採取されたわけではない。種のままで海を渡り、この国で発芽したものや、北国の植物園から株分けされたものが、温室で赤道の夢を見ているに過ぎない。
 合成音声が、彼女の降りる停留所を告げた。バスが速度を落とす。彼女は立ちあがり、改めてお礼の言葉を口にした。トゥーリは小さく手を振りながら「また来てくださいね」と言った。彼女は微笑んで、バスを降りていった。互いに名乗りはしないままだった。

それから彼女は月に何度か、温室に姿を見せた。いつも同じベンチに座って、いつも長いこと植物を眺めている。トゥーリと目が合うと挨拶をしてくれる。二言、三言、他愛もない雑談をすることもあった。見頃を迎えた花、日々の天気、ちょっとした服装や髪型の変化、やがては互いの呼び名について。
 園長が予告したとおり、トゥーリは——もとい、植栽管理の全職員は——何か月か大忙しだった。閉鎖が決まった北国の植物園から、膨大な量の植物を受け入れる必要があった。植物たちは掘り出され、根を水苔に包まれて、海を渡ってくる。土壌は国境の検疫を越えられない。トゥーリは日々、新たな鉢を用意し、新たな土に、新たな植物を移植した。複雑に張り巡らされた、柔らかな根と根の隙間を、それぞれに適した配合の土で埋め、水を与える。新たな場所に根付くことを祈る。どんな移植も植物にとっては負担だ。そのまま枯れてしまうものもある。この世にはもう百株もない、絶滅危惧種の根に触れる。手袋をした指が震える。無事に生き延びてくれるよう、朝晩と様子を見て、調子が悪ければ鉢の置き場所を変え、気温と光量の記録を見る。それでも、此処に辿りつけた植物たちは、生存という観点においてはまだ幸運な方なのだ。移植に耐えられない樹種はきっと多くが伐採されたことだろう。植物を失い、虚になった温室も、取り壊されたころだろう。
 季節が進み、温室は窓を開放する日が多くなった。機械の均質な風よりも、やはり自然風の方が心地よい。初夏の長い夕暮れどきに温室を歩くのがトゥーリはいっとう好きだった。この時間まで残っている来園者はそう多くない。交わされる声はひそやかで、通路には西日の影が長く落ちる。夜に花咲く植物たちが目覚めはじめる。蕾を膨らませたサガリバナの花序を見つけて、トゥーリはぱっと笑顔になり、お決まりのベンチに足を向けた。彼女は今日も来ていた。熱帯の植物たちに囲まれ、身じろぎもせず、静かに宙空を見上げていた。
「ユハさん!」
 彼女はゆっくりと目を瞬き、こちらを見た。
「こんにちは、トゥーリさん。もう閉園時間ですか?」
「向こうでサガリバナが咲きはじめてますよ! この時期はほんとに夜に咲く花が多くって」
 にこにこと笑うトゥーリにつられたのか、彼女も楽しげに目を細め、立ちあがった。サンダルから覗く素足に木漏れ日が触れていた。
 連れ立って温室を歩きながら、ふたりはささやかな会話を交わした。先週から急に暑くなったことや、もはや風物詩でしかない豪雨と冠水、温室の休憩室で供される季節限定のハーブティーのこと。話題は表層をさらさらと流れ、滑らかに移り変わった。彼女は相槌が上手く、相手の話したいことを自然に引きだしてしまうので、トゥーリは自分ばかり喋りすぎていないか、いつも心配だった。
 通路に張りだしたネムノキが彼女にぶつからないよう、トゥーリは片手で枝を持ちあげた。彼女は苦笑しながら身を屈め、柔らかな枝葉の下をくぐった。トゥーリはふと思い出して口を開いた。
「そういえば、先日言ってた調べものは順調ですか?」
「残念ながら進展なしです。図書館の使い方にやっと慣れてきたぐらいで」
 彼女は個人的なことをあまり語らない。だが、断片的に零された言葉から推測する限り、どうやら百年以上前の歴史に興味があり、何かを調べているらしかった。「ユハさんって、もしかして史学科の学生さんだったりします?」と尋ねてみたところ「そんな感じです」と笑顔で流されたので、それ以上は深入りしていない。自分たちは友人ではない。植物園職員と常連の、単なる世間話。ただ、若くして遠方から移住してきたと思わしき彼女に、ささやかな共感があるのも確かだった。トゥーリは考えこみ、口元に手を添えた。
「わたしも史学は専門外で……ああ、大学の同期にひとり、前世紀の植物園広報について論文を書いてた人がいたかなあ。専門施設で、ひたすら百年前のインターネットアーカイブを掘りかえしたとか」
「植物園っていろんな方が働いてるんですね。園長さんも元は研究者だったって聞きましたよ」
「そうそう、フタバガキ科の一斉開花と植生遷移の——あれ、言いましたっけ?」
「ご本人とちょっと雑談したときに」
「いつのまに! あのひと、職員でもなかなか会えないんですよ、いつも飛びまわってて」
 人工滝の裏側をくぐりながら、トゥーリは笑い声を立てた。せせらぐ水面の周囲にはニッパヤシやヒルギ類などのマングローブが植えられている。サガリバナもまた、自生地では水辺に生える樹木だ。大ぶりな葉で頭上を覆い、緑の天蓋からいくつもの花序が降りそそぐように咲く。樹齢四十年、トゥーリよりも年上のその木は、何人もの担当職員に見守られながら、夏のたびに花を咲かせてきた。樹皮はうっすらと苔に覆われ、幹に着生したビカクシダも豊かに葉を広げている。
「あそこです。見えますか?」
 トゥーリは開花しはじめた花序を指差した。連なる蕾のひとつが緩み、淡い紅に染まった雄蕊が、小さな花火のようにきらめいていた。
「真夜中にはすべての蕾が開きます。夜明けには散ってしまうから、夜間開館のときでもないとなかなか見られないんですけど」
 彼女は興味深そうに相槌を打ってから、はたと首を傾げた。
「夜間開館の日もあるんですね」
「ええ、毎年この時期の週末に何度か。今年はちょうど月末からですね。ユハさん、夜の温室って見たことありますか?」
 いいえ、と彼女は答えた。
「きっとすごく綺麗なんでしょうね」
「それはもう、幻想的ですよ。うちは照明も絞るので尚更……夜に咲く花は芳香を持つものが多いんです。送粉者の昆虫やコウモリを、暗闇の向こうから呼びよせるために」
 閉園十五分前の音楽とともに、視界(ブラウザ)にメッセージウィンドウが現れ、木々を隠した——温室担当者は各自巡回の上、見学者を出口まで誘導願います——三度の瞬きで表示を消し、トゥーリは振りかえった。背後から夕日に照らされた彼女は、カラテアの葉の影絵のようだった。「また来ます」と、彼女は朗らかに言った。
「予定を空けられたら、夜の温室にも伺いますね」
「ぜひ! お待ちしています。月の明るい夜が良いですよ。ほんとうに熱帯雨林にいるような、何が起きてもおかしくないような、そんな気分になれますから」
 別れの挨拶に持ちあげられていた彼女の手が、ふと強張った。「その……」口籠った声は、あの日、雹の打ちつけるバス停で聞いた声と同じ、途方に暮れた響きを帯びていた。遠い異国に投げだされたひとりの孤独が、トゥーリを見た。
「そんなことが本当にあると思いますか?」
 すぐに返事ができなかった。それは、顔馴染みの植物園職員に対してではなく、トゥーリという個人に向けられた声だった。彼女ははっとしたように手を引っこめ、出口に向かって歩きだした。
「ユハさん、」
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。なんでもないです!」
 彼女は明るく笑って、トゥーリに手を振った。
「また来ますね!」
 呼び止められなかった。彼女は一度も振りかえらずに、夕暮れの温室をのびやかな足取りで帰っていった。
 それから彼女はぱったりと来なくなった。
 月に数度は来ていたのに、顔を見ないままで一ヶ月が経った。彼女はトゥーリの他にも顔馴染みがいたようで、温室担当の同僚から「最近、ベンチのひと見ないねえ」と話を振られることもあった。
 夜間開館は初夏の週末に行われる。夜にはしゃぐ子どもたちを、ひとりを、家族連れを、恋人たちを、園路の灯りが点々と、温室へと誘導する。日没の残光を宿した夜空に星はまだ見えず、地平線に重なるのは、高層ビル、湾岸工場、タワーマンション、屋上に瞬く航空障害灯から成る、透明な街のうつくしい輪郭線だ。涼やかに湿った夜風が、園内に生息する蛙と昆虫の歌声をつれて、温室の窓をくぐる。一定の周期で語りかける、柔らかな自動音声。『通路では立ち止まらずお進みください。三脚はご遠慮いただくよう……』トゥーリもまた入り口に立ち、夜の来園者を出迎えた。
「こんばんは。今夜はサガリバナが満開ですよ」
 にこやかな挨拶を繰りかえすうちに夜は更ける。最終入場時刻を過ぎ、トゥーリは温室の入り口を閉めながら、夜を見やった。敷地の外周を囲む人工林に外灯はない。塗りこめたような暗闇を、車道のヘッドライトが貫いて瞬く。今日が、今夏の夜間開館の最終日だった。彼女はやはり来なかった。
『閉園時刻になりました。温室担当スタッフ、各自巡回と施錠をお願いします』
『今年もお疲れさま! 事務棟にビール冷やしてあります。ご自由に!』
『ありがとう園長! 愛してる!』
『誘導スタッフ、引き続き、夜間非公開エリアに道を逸れる人がいないよう注意を……』
 トゥーリは『第一温室担当、巡回開始します』と入力し、規定された瞬きのリズムで職員連絡を縮小表示に切り替えた。
 夜間公開のあいだ、来園者を楽しませるために、温室には映像が投影されている。木々の間をゆったりと舞うホタルだとか、薄暗い照明の下でも読めるよう自ら発光する案内板だとか。どれも視界(ブラウザ)でしか認識できない幻だ。
「こっちの方が綺麗だよねえ」
 眼鏡を外しながら、トゥーリはふっと笑った。夜に咲く花々の白い花弁が淡くぼやけて月光に映え、夜の木陰がひそやかに広がる。透明な天井の向こう、空高く昇った丸い月は、この頼りない視力では五重に滲んで見えた。
 周囲は静まりかえっていた。サーキュレーターの規則的な送風音と、人工滝の水音くらいしか聞こえない。この第一温室は、休憩室やラン温室、冷温室を経て、第二温室へと繋がっている。こちらに残っている来園者はもういないだろう。とはいえ万が一があっては困るので、トゥーリは眼鏡を掛け直すと、ライトで周囲を照らしながらゆっくりと歩きはじめた。ベンチに腰かけてぼんやり長居する、彼女のような誰かが、他に居ないとも限らない。
「閉園です、施錠しますよー」
 通路の外、鬱蒼と重なったモンステラの根元や、噴水のように葉を広げたアスプレニウムの合間にもライトを当ててゆく。幻のホタルが視界を過ぎる。やはり誰も残ってはいないようだ。ベンチも空っぽで、落葉が数枚、座面に散らばっているだけだった。
 巡回完了の旨を共有しようと、トゥーリは視界(ブラウザ)にメッセージウィンドウを開いた。とたん、ノイズ音とともに表示が崩れた。「うわ」と呻いて目を瞑る。眼鏡の故障だ。半年前にも修理したのに、やはり寿命なのか。音声入力に切り替えようと瞬きをしたところで、視界が真っ赤になった。
 赤いオーロラだった。熱帯を抱いた天蓋の遥か頭上に、幼い日に見た故郷の夜空、もう二十年は見ていない、遠い寒帯の空が広がっていた。そんなはずはないと思う。視界の故障がたまたま、そう見えただけ。トゥーリは眼鏡を外した。オーロラは消えなかった。揺らめき、重なりあいながら、昏い赤から清明な紫、白々とした碧へと目まぐるしく変わってゆく。天井の格子は裸眼では捉えられずにぼやけ、まるで屋外に放り出されたようで、とっさに周囲を見回したが、身に馴染んだ職場、何年も世話をした温室を見間違えるはずはない。たとえ夜でも、照明が僅かでも、足元を照らす誘導灯の左右に広がる暗闇に、ライトアップされた樹木たちの他には夜の木陰しか見えなくても。
 停電。
 それは秒に満たない瞬電だったが、何かを一変させた。背後から風が吹き、梢をざわめかせ、夜に咲く花々の甘い芳香をさらった。外の匂いがした。考える前に足が動いた。早足で、小走りで、隣の第二温室へ、まだ他の担当職員がいるはずだ。眼鏡の電源を落とし、何の機能もない単なるレンズに戻す。矯正された視力で見ても、空には変わらずオーロラがあった。
 通路は曲がりくねっているが、温室はけっして広大ではない。すぐにガラスの扉が現れるはずだった。何かがおかしいと気づいたとき、トゥーリは既に十分以上も温室を進んでいた。第二温室どころか、もう出口を抜けていても良い距離だ。いつしか足元の照明は途絶えていた。ドアに備わっているはずの非常灯もどこにも見えない。波打つオーロラと月光の他に光源もなく、樹木たちの影が黒々と空を切り抜いている。
 トゥーリは立ち尽くした。天井の構造が変わっていた。特殊ガラスの天蓋を支える特徴的な格子は、温室の設計によってそれぞれに固有のものだ。だから分かる。ここは元の温室ではない。
「なんで……?」
 ライトで足元を照らす。いつしか通路の敷石も、柵も、植栽の種類も変わっていた。それでも熱帯温室である限り、植栽の基本的な顔ぶれはおおよそ共通している。ウチワヤシ、モンステラ、サゴヤシ、ムユウジュ、アスプレニウム、カラテア、サラノキ、プルメリア、シェフレラ、ガジュマル、サガリバナ——幹には学名のラベルが留められていた。見覚えがあった。数年前、植物園同士の出張交流で見たものだ。ラベルに刻印されていたのは、既に閉園した遠い北国の植物園のロゴマークだった。
 白昼夢だ。
 なんだ、そうか、とトゥーリは肩の力を抜いた。この温室は解体された。失われた。もうどこにもない。植物たちは伐採され、あるいは移譲されて、世界中にちらばった。一部はうちで引き取り、手ずから植え替えたのだから間違いない。あの植物園ならば、たしかにオーロラが見えてもおかしくないかもしれない。自然なことだ。
 眠りについた温室は、ひそやかで、時が止まったようにうつくしかった。足が赴くままにトゥーリは先へ進んだ。歓迎するかのように、温室の幽霊はどこまでも道を開いた。敷石の感触が変わっても、もう驚きはなかった。また別の温室へ、さらに知らない温室へと道は続いた。透明な誰かの足音や笑い声の木霊が、夜風の狭間からこぼれおちた。何も不思議ではない、温室には人間がいるものだ。舞台に観客がいるように。
 誰かの気配が駆けてきて、トゥーリは眉をひそめた。足音は植栽を突っ切ってくる。いくら夢とはいえ植栽を踏むのは止めてほしい、またカラテアの茎が折れてしまう。ライトを向けようとしたとき、正面から風が巻き起こった。とっさに翳した手指の間から垣間見えたのは、揺れる黒髪、褐色の手足、片方だけ残ったハイヒール、恐怖にこわばった横顔——
「ユハさん?」
 叫んだとき、人影はもう木立の向こうに消えていた。どれだけライトを向けても植物たちとガラスの壁しか見えなかった。トゥーリは唖然として、とにかく回りこもうと通路を駆けた。追いかけなくてはと思った。湿った敷石に足を取られそうになりながら、温室の葉影をあちこち照らした。誰もいない。時折、誰かが横切ったような、誰かが倒れていたような、そんな気配を感じるだけで、生きている人間はどこにもいなかった。行き違ってしまったのかもしれない、とトゥーリは踵を返した。眼前にガラスがあった。
 ほとんどぶつかるように足を止めると、なめらかに自動ドアが開かれた。
 身に馴染んだ職場、元の温室に、トゥーリは立っていた。
 休憩室へ続く通路は煌々と明るかった。信じられない思いで両手を見つめる。汗ばんでいた。息が切れているのは、ここまで走ってきたからだ。彼女を追いかけようとして。
 白昼夢だ。
 ——本当にそうか?
 トゥーリはそろりと眼鏡に手を添えて、電源を入れた。視界はやはり壊れたままだった。
「トゥーリ! こんなところに居た!」
 通路の向こうから同僚が駆けてきた。どうやら探されていたらしい。連絡を入れられなかったことと、心配を掛けたことを詫びながら、トゥーリはそっと振りかえった。夜の温室がそこにあった。都市の明るい夜空には一等星ばかりが光り、オーロラなど見る影もなかった。
 彼女は助けを求めていたのではないか、という思いが、その後も長くトゥーリの胸中に残った。夢と断ずるにはあまりに鮮明な体験だった。だが、彼女のことを、トゥーリは何も知らなかった。呼び名と、断片的な雑談、彼女もまた遠くから来たらしいということの他には、何も。
 トゥーリはただ待った。彼女がふたたび訪れる日を。
 一年が経った。
 彼女はまだ来ない。

(幕間)

咳は長く続いた。ようやく呼吸が落ちついても、息を吸うたびに肋骨が痛み、呻き声が喉からせりあがった。声は言葉にならなかった。彼女は言葉を失っていた。
 滲む涙のためか、それとも、久しぶりの視覚に混乱したためか、周囲は極彩色のぼやけた霞にしか見えない。ここがどこで、今がいつで、自分が誰なのかということもわからない。それを疑問にも思えない。ただ身体の記憶に従って、彼女は起きあがろうとした。五回続けて失敗し、素肌のあちこちに傷がついた。言葉を失っても感情は残っている。苦痛、不快、恐怖、不安がひたひたと打ち寄せ、涙となってあふれた。
 六回目でようやく、彼女は肘を支えにして膝をつくことができた。不快な熱い涙を拭うと、肌に張りついていた樹皮の欠片がぱらぱらと剥がれて落ちた。腕にも、頬にも、首筋にも、熱帯雨林の赤い泥がこびりつき、擦るとざらりと痛かった。
 手近な樹木に掴まりながら、震える足でゆっくりと立つ。素足の指先に蟻がまとわりつき、耳のあたりで蚊が旋回した。少しずつ、本当に少しずつ、彼女の両眼は人間としての機能を思い出しつつあったが、なお周囲は曖昧だった。光と、輝く緑と、影に居並ぶ樹木たち、その樹皮を覆う無数の植物。つい先ほどまで樹木であった彼女が根を張っていた土壌は、ひとつの樹木を失ったことで千々に乱れ、傷口のようにどこまでも無言だった。引っくりかえった土塊、千切れた根の欠片、住処の激変に蠢めく幼虫、樹冠から墜落した様々な残骸。何もかもがぼんやりと遠く、彼女の心に触れるものはなかった。たったひとつ、林床に残された、真っ赤な足跡を除いては。
 境の溶けあった視界で、その足跡だけが鮮明だった。人間の血液と同じ色、人間の足裏と同じ形の足跡は、てんてんと木立の向こうへ続いていた。視界に焼きつく赤色を彼女は見つめ、やがて、足跡を追ってぎこちなく歩きはじめた。
 赤い足跡は森を貫き、どこまでも、どこまでも続いた。木漏れ日にきらめく鮮血のように艶やかでありながら、彼女の素足に踏まれても擦れず、滲まず、肌を汚しもしない。その歩幅は広く、枝葉や板根に行手を塞がれようとも、ただ先へと進んでゆく。時折、転んだような形跡があった。形の崩れた足跡と、赤い手形。地面に手をつき、跳ね起きて、また駆けていったのだろう。誰かが。どこかへ。
「どこに行くの?」
 何かが彼女に声を掛けた。
 彼女は立ちどまらなかった。言葉を失った者にとって、その声は、鳥の囀りや蛙の輪唱と同じものでしかなかった。木陰に双眼が光り、歩きつづける彼女を目で追った。
「ずいぶん古い魔法だ。ひとの言葉を忘れてしまったのかな。樹木の言葉は覚えている?」
 何かがするりと傍に来て、彼女の腕に触れた。
「どこへ行くのか知らないけれど、忘れたままでは辿りつけないよ」
 その手は人間のように温かく、けれどほどけた指先は人間の形をしていなかった。微細な白い根に頬を撫でられ、彼女はようやく足を止めた。見ると傍らに瞳があった。その虹彩は凪いだ夕暮れの湖面のようで、水面には世界が映っていた。覗きこめば、小さなふたつの鏡は辛抱強く、瞬きもせず、彼女を見返した。やがて、水面に映る人影が誰であるかを思い出したとき、彼女の瞳が震えた。水晶体が微睡みから目覚め、拡散していた焦点が集束し、蘇った困惑に目が見開かれた一瞬を逃さず、もう一度、何かは尋ねた。
「どこへ行くの?」
「帰る」
 囁きは掠れていたが、たしかに言葉を成した。腕を強く振り払って、彼女は走りだした。氾濫する緑の底でも見分けられる真っ赤な足跡を道標に、曖昧で鮮烈な恐れに背を押され、土壌を素足の形に抉りながら、一散に走った。
 木立の向こうに足音が消えてゆくのを、何かはじっと見送っていた。やがて舞い降りてきた鳥を手首に留まらせ、ひそやかに笑う。
 ほどけた指先の白い根は、音もなく互いに絡まって、いつしか人間らしい五指を編みあげていた。形作られた皮膚と指紋を矯めつ眇めつしてから、人間のような姿をした不思議な瞳の持ち主は、手首に食いこむ鍵爪をつついて「きみも見てただろ」と話しかけた。鳥は素知らぬ顔で羽繕いをつづけた。その鳥は、樹木であった娘の枝葉を棲家として何年も暮らしてきた鳥だった。倒木の瞬間にすばやく飛び立ち、周囲を旋回しながら、慣れ親しんだ樹木が人間に変わってゆくのを見ていた。鳥はそれほど驚かなかった。鳥は、人間に変わる樹木を、もうひとり知っていた。
 その樹木、あるいは人間は、彼女が消えていった暗い林床をもう一度見やった。刻まれたばかりの真新しい足跡は、歩幅も、大きさも、赤い足跡とまったく同じ形だった。
「百年よりも長い魔法だった」
 声音には哀れみのような響きがあった。
「あの子を覚えている人間は、もうひとりもいないだろうに」

2. キオ

彼女は、真新しい鞄ひとつでやってきた。
 冷たい雨が降りしきる、冬の盛りの平日に、若い役人と不動産屋につきそわれて、彼女はアパートメントの入口にあらわれた。エントランスのロビーは古ぼけていたが、こまめに掃除されて風通しがよく、窓際にはソファテーブルもあった。キオはその日、昼間からソファのひとつに席を占め、窓に流れる雨の模様をひとつずつ描き写していたところだった。
「お部屋は二階です。中庭には階段奥の扉から出られます、今日はちょっと天気が悪いですが」
「ありがとうございます。明日にも行ってみます」
「置いてある家具はそのまま使っていただいて大丈夫です。電気と水道の開始手続きについては——」
 キオの傍らを通りすぎながら、彼女はひかえめに「こんにちは」と言った。キオはちらっと顔をあげただけで、何も言わずに目を伏せた。大人に話しかけられて良いことのあった試しがない。黙々と紙に鉛筆を走らせるうち、大人たちは階段を上っていった。
 それきり彼女のことは忘れていたのだが、一ヶ月も経たないうちに、噂話が聞こえてくるようになった。
「ねえ聞いた? 上に引っ越してきたお姉さんのこと!」
 主に噂を運んできたのは、ひとまわり齢が離れた姉のシュナだった。シュナは社交的で、噂好きで、住人にも顔が広かった。舞いこんだ非日常に嬉々としながら、シュナは彼女の噂話を家族に共有した。
 曰く、彼女には、過去の記憶がない。
 この街に来る前のことを、ほとんど覚えていない。
 身寄りもない、頼る相手もいない、記憶喪失の身であると。
 両親は目を丸くして、それは大変だ、なにかと不便だろう、あんな若い身空で、そのうち夕食にでも呼ぼうかと話しあっていたが、キオは描きかけの絵について考えるのに忙しく、あまり聞いていなかった。
 眠れない夜、キオはいつも外に出た。とはいえキオはまだ子どもで、夜の街をひとりでさまようのは許されず、もっぱらアパートメントの中庭を歩きまわった。外灯の明かりが届かない場所、夜が深く沈みこむ片隅、わずかでも星が見える暗がりを、キオは知りつくしていた。この街の冬に雪は降らない。薄手の上着にマフラーを巻いただけで、何時間でも外にいられる。歩くのに飽きると、友人の根元に座って休んだ。中庭の隅にあるシマトネリコの木が、キオのいちばん古い友だちだった。
「良い夜だね、トゥーリ」
「良い夜だね、キオ。絵は進んだ?」
「もうすこし」
 六歳のとき、キオは木に名前をつけた。それからというもの、ふたりは声を交わさずにお喋りができるようになった。冬のさなかにも青々と、二階の窓まで常緑の枝葉を広げるトゥーリの木陰が、キオの秘密基地だった。すべらかな樹皮のくぼみに耳をよせると、いつでもやさしいささやきが聞こえた。目を閉じると声はより鮮明になった。トゥーリの子守唄に耳を傾けながらぼんやりする時間が、キオは何より好きだった。
「誰か来るよ」とトゥーリがささやいた。
 キオは驚いて目を開けた。見れば、中庭に降りるドアが軋みながら開いて、あふれる光を背に、誰かの影がそろりと滑りでてきた。上着を羽織った女性のシルエットだった。こんな時間に中庭をうろつく住人は、キオの他にはほとんどいない。キオは膝を抱いて小さくなると、木陰で息をひそめた。
 彼女はためらうような足取りで、中庭を横切った。外灯の下を通ったときに横顔が見えた。キオよりもトゥーリが先に気づいた。
「あのひとだよ、先月越してきたひと」
「ああ、思い出した」
「ほんとにキオはすぐ忘れるね」
「ひとの顔なんて覚えてられないよ」
「なにしてるのかな、こんな時間に」
 彼女は歩いては立ちどまり、生垣に触れたり、若木を撫でたり、何かを探すように空を見あげたり、ため息をついたりしていた。やがてベンチに座りこみ、そのまま動かなくなった。
「眠れないのかなあ」
 トゥーリが不思議そうに言った。キオは身じろぎした。足がしびれていた。いま立ちあがったら彼女を驚かせてしまうことくらいはキオにもわかった。
「はやく帰ってくんないかな」
「さみしそうなひとだねえ」
  キオはそれから十分ほど動かずにいたが、とうとうくしゃみをしてしまい、ベンチの彼女はあきらかに肩を跳ねさせた。キオは観念して立ちあがり、トゥーリにおやすみの挨拶をしてから、早歩きで家に戻った。いちおう、彼女のそばを通るときにそれとなく頭を下げておいた。

春になると、小さな中庭は緑であふれた。
 ゆるんだ敷石の隙間からいっせいに芽が吹き、葉を広げ、瞬く間に花を咲かせた。どこかの鉢植えからこぼれ落ち、いつしか根づいてしまったクローバー、地面を覆ってゆくミント、住人の誰も名前を知らないあらゆる雑草。隣家と中庭とを区切るジャスミンの生垣は膨れあがり、日陰には背の低い草花が這い、庭木の樹皮は苔で色づいた。通いの庭師がいたのはずいぶん昔のことで、中庭もまたアパートメントと同じく年をとっていた。樹木はかたちが崩れ、柔らかな若葉は虫食いの穴だらけ、あちこちを蜂が飛びまわり、瑞々しい茎には毛虫や油虫がついた。それでも園芸好きの住民が素人なりに世話をやき、中庭はまだ秩序を保っていた。四十年以上にわたり、子どもたちは代わる代わるここを遊び場にして、休日の昼下がりには大人たちもベンチで歓談を楽しんだ。春の中庭にはいつも誰かがいた。
 だからキオは春の中庭にはあまり出ていかなかった。大人に話しかけられるのは面倒だったし、暗く無口で愛想のない子どもだと思われているのもわかっていた。なるべく人の少ない時間、それこそ真夜中にひっそりと歩きまわった。とはいえ、ときには完璧な春の週末というものがあり、うららかな陽光に背を向けて部屋にこもるなど馬鹿らしく思える日には、キオも昼間からトゥーリの木陰に居座った。トゥーリの幹はキオの肩幅よりも細く、隠れるには不十分だったが、ある程度は他人の視線を遮ってくれた。
「それで、トゥーリさんがバスの乗り方を教えてくれたの」
「たしかに地下鉄とバスじゃ勝手が違うもんね」
 背後から聞こえた会話に、トゥーリが「おやまあ」と言った。
「わたしのこと? わたしじゃない?」
 キオが幹越しに振りかえると、すこし離れたベンチに、あの冬の夜に見かけた彼女と、姉のシュナが並んで座っていた。ふたりはこちらを見ていなかったが、キオはさっと顔を引っこめた。
「近所に植物園があるのは知ってたけど、行ったことなかったな。ユハはどうやって知ったの?」
「ここを紹介してもらったときに、ジンシャさんが教えてくれて」
「ああ、あの、役所の支援員のひと」
「そう。なるべく緑が多いところに住みたいですって言ったら、ここは植物園が近いですよって」
「そうは言っても徒歩じゃ二十分くらい掛かるでしょ。自転車でも買ったら?」
「そこまではまだお金が……」
 こちらに気づかれてはいないようだ。キオは息をゆるめて、幹にもたれかかった。トゥーリがくすくすと笑った。
「わたしのことじゃなかったね」
「そりゃそうだよ。きみは木だもの」
「キオもびっくりしたくせに」
 からかうようなトゥーリの声音に、キオは鼻を鳴らして無視を決めこんだ。心臓にまだ早鐘の名残があった。
 木は、ひとの言葉で話したりしない。
 トゥーリの声も、言葉も、心までも、すべて自分の空想であることを、キオはずっと前から理解していた。それで何の問題もなかった。
 列をはぐれた黒蟻が一匹、幹をつたってキオの肩に移り、首筋へ近づいてきた。こそばゆさに声が出て、指先で払いおとした。真冬でもない限り、木陰には昆虫がつきもので、けして人間をひとりにしてはくれない。
「気にしないで。あいつ、人間より木が好きなの」
 背後の噂話に聞こえないふりをして、キオはヘッドホンで耳を塞いだ。心地よい風音や枝葉のざわめき、小鳥の歌声まで遠ざかってしまうのは残念だが、静けさには代えられない。決められたリズムで瞬いて、視界(ブラウザ)の隅にプレイリストを呼びだす。指先で中空をなぞり、聴きなれたアルバムのひとつを再生して、目を閉じる。春の木漏れ日が眼裏でちらちらと揺れて、暖かかった。
 彼女が話しかけてきたのは翌週のことだった。夕暮れどきだった。キオは木陰でうたた寝をしていた。春の盛りなのに季節外れに暑い日で、眠たげな微風がトゥーリの葉をさらさらと鳴らしていた。そのささやきの向こうに足音を聞いたように思い、キオが瞼を持ちあげると、彼女がこちらを覗きこんでいた。目があったとたん、彼女は猫のように後ずさった。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって、具合が悪いのかと思って」
 早口の謝罪に、キオは「ああ」と「いえ」の中間のような声を返した。トゥーリに「もうちょっと何か言って」と諭されたので、「大丈夫」と言い足しておく。微妙な沈黙のあと、彼女は間を埋めるように「絵が好きなの?」と言った。見ればわかるだろうとキオは思った。困惑をいくらか乗せた目線を向けると、彼女は口ごもりながら、おぼつかない手つきでキオの膝を指さした。
「その、そういうのって、どこに行けば買えるのかな」
「は……?」
 キオは膝上に乗せっぱなしだったスケッチブックを見た。うたた寝をする前に表紙は閉じてあった。間に挟んだ鉛筆が、今にも滑り落ちかけている。
「絵、描くの」
 問いを返すと、彼女は慌てたように手を振った。
「そういうわけじゃないんだけど。ただ懐かしくて……」
 キオはそこで初めて、彼女の顔をじっと見た。これまで視界に入れてはいても、見てはいなかった。姉と同じくらいの齢に思えるが、はっきりしない。彼女の、黒い睫毛に縁取られた深緑の瞳は、どことなくぼんやりと緩んでいるように思えた。ここを見ているようで、どこか遠くを見ている目だった。座ったまま見上げていると首が痛くなるくらいには背が高く、暑い一日だったからか髪はひとつに結いあげられていて、首筋には汗の滴があった。キオの長い無言を受けて、彼女は気まずそうに二の腕をさすった。
「教えてあげなよ」トゥーリがキオにしか聞こえない声でささやいた。
「……地下鉄でふたつ隣の駅前。北口のほう。古くてガタガタの画材屋だから、見ればわかると思う」
「ありがとう」
 彼女はほっとしたように笑った。キオも頷いた。話が終わったことに安堵しながらスケッチブックを開く。窓に流れる雨の模様、樹皮の凹凸、葉の葉脈、好きなものばかりを写しとった紙面。彼女はまだ何か言いたげに立っていたが、キオが鉛筆を走らせはじめると、小さく頭を下げて立ち去っていった。互いに名乗らないままだった。
「あのひとのこと、お姉さんはユハって呼んでたね」
「そうだっけ」
「そうだよお、どうして忘れちゃうの。代わりに覚えてるから、良いけど」
 強い風が吹いて、中庭の草木をいっせいに揺すぶった。トゥーリもまた葉をざわめかせ、ひとしきり楽しげに笑った。
「風が変わったよ。もうじき雨になる」
「うん……」
「あのひと、懐かしいって言ってたね」
 考えごとに先回りをされて、キオはぼんやり頷いた。シュナがいつか言っていた、彼女は記憶喪失だとかいう話がほんとうなら、懐かしむ過去もないはずだった。
「じゃあ、やっぱりただの噂だったんだ。それか、シュナの勘違い、早とちりかも」
「あのひとはどんな子どもだったのかな」
「なんか変なひとだったな」
「キオも変なひとだよ」
「そんなこと言う?」
「うそ、うそ。キオは良いひとだよ。とっても!」
 清々しく取り繕われて、キオはひとりで口の端を持ちあげた。ひとことも声を発さないお喋りを終えて、腰をはたきながら立ちあがると、建物に区切られた西の空から重たげな雲が広がりはじめていた。「また明日」と樹皮を撫でれば、トゥーリは静かに枝葉を揺らした。
 雨が降るごとに季節は一足進む。
 透きとおるようだった柔い若葉は、輝きを増していく太陽と幾度もの雨に打たれ、深緑へと変わっていった。雨はしばらく降りつづいた。雨の中庭はひっそりとして、梢を伝った雨垂れが鼓動のように絶えずしたたり、あちこちに水たまりをつくった。トゥーリも静かに雨に濡れていた。雨の日はトゥーリと話すには向かない。傍らに座りこめば服が濡れて風邪をひいてしまう。
 キオは自室のベッドに転がり、フィクションに浸って夜をやりすごした。映画、ゲーム、アニメーション、視界(ブラウザ)を駆けまわるキャラクターたち。ヘッドホンの音量を上げていたので、おざなりなノックに気づくのが遅れた。返事をする前に、シュナはドアを開けていた。
「なんだ、いるじゃん」
「なに」集中を邪魔されて不機嫌が思いきり声に出た。
「あんた、雨続きだからって出かけないにも程があるでしょ」
「授業はちゃんと出てる」
「月に一度くらいは登校しなって」
 無言で抗議の視線を向ければ、姉は「まあそれは良いや」とドアにもたれかかった。
「伝言。ユハがね、キオにありがとうってさ。なんか知らないけど、お店を教えてあげたんだって? ちゃんと買いものできたらしいよ」
 あのスケッチブックか、と思いながらキオは頷いた。伝言はそれで済んだろうに、シュナは立ち去ろうとせず、しげしげとキオを見下ろした。
「いつのまに仲良くなったの? あんた、極度も極度の人見知りでしょうに」
「べつに。そのとき話したっきりだよ」
「なあんだ」
 やっぱりね、と言わんばかりの笑い声に、キオは目を眇めた。なにか意地の悪いことを言いたくなって、そのまま冷たい声を出した。
「あのさ、あんまり変な噂とか広めない方がいいよ。あのひと、べつに記憶喪失とかじゃないでしょ」
 シュナの口が薄く開いて、閉じた。その眉がひそめられる。
「ユハとなにも話してないの?」
「なにが」
「あの子、生活に必要なこと、なにもかも知らなかった。だから支援員も付いてるし、ここに越してきたのも役所の紹介。なんだっけな、しばらく病院を転々としたけど、いっこうに記憶が戻らないから、個人IDも取りなおして、自立支援に切りかえたとかなんとか。ほんとよ、ユハったら、カフェでお金を払うのさえ、おぼつかなかったんだから。ネット検索も、AIの使い方も、電車の乗り方も……」
 今度はキオが眉をひそめる番だった。あの日に話した彼女は、スケッチブックを懐かしいと言ったのに?
 シュナはまだ話しつづけていたが、キオが黙りこくってしまったので、やがてため息をついて部屋を出ていった。雨音と静けさが戻り、キオは窓の外を見やった。中庭にはトゥーリがいる。考えごとの手助けをしてほしかったが、雨はまだ止みそうになかった。
 それからというもの、シュナは以前にも増して、彼女の話をするようになった。夕食やお茶の時間、家族が揃っているときに、ちょっとした噂話のひとつとして。曰く、彼女は植物園と図書館に通っている。なにか昔のことを調べている。ようやくAIに質問することを覚えた。独学で勉強をしている。支援員はどこかの学校に入るよう勧めているが、気乗りしないらしい。支援員は顔の造形が良い。お近づきになりたいがまったく相手にされない。年若い公務員で、よく日に焼けていて、趣味も良さそうなのに、素気なくされてばかりだ。途中で母が怪訝そうに「それもユハさんの話?」と口を挟んだ。シュナは「なにが? まさか!」と鼻をふくらませた。「わたしの話よ、ユハにジンシャのことどう思うかって聞いたら『良い人だよ』って、それで終わりだったんだから。おかげで遠慮もいらないってわけ」以降をキオはすべて聞き流した。
 やがて、家族の誰もが彼女の近況に詳しくなったころ、シュナは彼女を家に連れてきた。招かれた夕食の席で、彼女は恐縮しながら感謝を示し、料理を口に運んでは「おいしいです」とにっこりした。さらに具体的な感想まで述べて、レシピの秘訣を尋ねた。母はたちまち彼女を気に入ったようだった。
 初めのうちこそ、彼女の境遇にまつわる質問が山ほど飛びかったが、いつのまにか彼女は聞き手にまわり、周囲のお喋りをどんどん引きだした。キオにも何度か話を向けて、画材店を教えてくれた礼を改めて述べ、絵の巧さを褒めさえした。キオは普段どおり無口なままだったが、家の団欒がこれほど盛りあがったのは初めてで、ひそかに驚いていた。キオから見ても彼女は礼儀正しく、穏やかで、気遣いができ、聞き上手だった。とても記憶を失った人間のようには見えなかった。自分とはまったく違う人間だというのはよくわかったが。
 キオは途中で席を立ち、トイレに行くふりをして、ひとりで夜の中庭に出た。雨上がりだった。月をかすめながら流れる雲は、街の反照で鈍色に光った。庭木も敷石も濡れていた。虫の鳴き声がうるさかった。カーテンに遮られた窓の向こうから、楽しげな笑い声がくりかえし響いた。
「こんばんは、キオ。良い夜だね」
「うん」
 キオはトゥーリの根元に座りこんだ。「濡れちゃうよ」と心配そうな声がしたが、返事をしないままで目を閉じた。いくら無言でいてもトゥーリは言葉を急かしたりしない。たださらさらと葉をそよがせるだけ。夜風に撫でられているうちに、ようやく呼吸が楽になった。「疲れた」とぼやけば、トゥーリは優しく「どうしたの」と言った。
「皆、どうしてあんなに、喋るのが好きなんだろう」
「トゥーリもキオと喋るの好きだよ」
「きみは良いんだよ」
「特別だから?」
「それもあるけど」
「声を出さなくても喋れるから?」
「それもあるかな」
「トゥーリがキオの空想だから?」
「そうだね」
「それだけじゃないよ」
「うん」
 しばらくしてシュナが探しにきた。「やっぱりここにいた!」と呆れながら、シュナはキオの腕を掴み、容赦なく立たせた。
「あんた、ああいう賑やかなの、ほんとにだめなんだね」
 落とされた呟きは静かだった。落胆のようにも、失望のようにも、ただ悲しげなようにも聞こえた。キオにはわからなかった。
「席を立ったきりぜんぜん帰ってこないんだから。そろそろお開きだよ。ユハも心配してたし、挨拶くらいで良いから顔出して。わかった?」
 返事を待たずにシュナは家に戻っていった。キオはトゥーリにおやすみを言った。トゥーリは風に揺れながら「いい夢見てね」と言った。トゥーリはただの樹木であり、キオの空想であり、そのうえで、たしかにキオの大切な友人だった。
 だから、トゥーリの木陰に彼女が座りこんでいるのを見たとき、キオが感じたのは、驚きよりも怒りだった。友人を取られたかのような焦燥があった。蒸し暑い夜のことで、ぬるい風がキオの背を押した。わざと足音を立てながら早足で近づいていくと、彼女はぱっと顔をあげた。揃えた膝に長いこと顔を伏せていたのか、前髪が額にはりついていた。彼女はすぐに立ちあがった。
「ごめんね。ここはきみの場所だったね」
 言おうとしたことを先に言われて、キオは言葉に詰まった。あらためて考えれば、中庭の樹木であるトゥーリを、キオがひとりじめできる道理はないのだ。キオは結局「べつに」と呟き、さらに「いいよ」と付け足して、トゥーリの反対側にまわって腰を下ろした。彼女はあきらかに困っていた。立ち去るべきか、それとも残るべきか、しばらくためらった後で、もとの場所に座った気配がした。
 彼女は沈黙に耐えられない性質のようで、やがてとりとめもなく喋りだした。ささやかな雑談ばかりだった。「この木の根元がいちばん座りやすかったの」とか「ずいぶん暑くなってきたね」とか「もうすぐ植物園で夜間開館があるんだってね」とか。黙っていればいいのにとキオは思ったが、トゥーリに促され、三回に一回くらいは返事をした。そのうちに、会話を望まれていないと察したのか、彼女も静かになった。身じろぎも聞こえなくなり、帰ったかなとキオが思いはじめた頃、彼女は小さな声で言った。
「きみはちょっとだけ似てるの、昔の知りあいに」
 トゥーリが「そうなの?」と不思議そうに相槌を打った。キオは黙っていた。そういえば先日の夕食で「断片的に覚えていることもある」と言っていたような気がする。彼女がかすかに笑う気配がした。
「ひとりでも平気なところとか、木陰で眠るのが好きなところとか」
「似てるね!」とトゥーリ。キオは無言を通した。
「人間でいるのは疲れるって、言ってたっけ。今ならちょっとだけ分かるかも」
 ぽつりと呟かれた声は独り言のようだった。キオは返事をしなかった。どう言うべきかわからなかった。たしかに人間と過ごすのは疲れるが、トゥーリと一緒なら平気なのだから。
 ともあれ、どうやら彼女は疲れているらしい。キオは気まずさに顔をしかめた。元気づけるべきなのかもしれないが、面倒だった。自分はただ、静かに夜を過ごしたかっただけなのに。
「どうしたの」
 トゥーリが優しく言った。キオにではなく、彼女に。
 キオはトゥーリを見上げ、それから彼女を振りかえった。ゆたかな枝葉がつくりだす夜の木陰で、彼女はぼんやりと宙を見つめていた。キオは立ちあがった。
「この木は優しいから」
 短くそれだけを言った。彼女は目を丸くしてキオを見た。
「話を聞いてくれる」
 嘘だ。木はひとの話に耳を傾けたりしない。
 それでも、いまは自分よりも彼女のそばにトゥーリが必要だと思った。キオは振りかえらずに家へ戻った。夜の中庭には彼女だけが残された。
 彼女はしばらく瞬きをくりかえしていたが、やがて、もたれていた樹木を撫でた。確かめるように何度も。シマトネリコのつめたい樹皮が、彼女の手のひらに細やかな見えない傷をつけた。
「大切にされてるんだね」
 彼女は寝返りを打つように身じろぎ、硬い幹に片頬を寄せた。夜風、枝葉のざわめき、虫たちの歌、聞こえる音はそれだけだった。誰も彼女に話しかけず、彼女も何も言わなかった。シマトネリコは静かに空を遮り、彼女が足の痺れに耐えられなくなるまで、彼女の細い肩を支えていた。

キオは、彼女とトゥーリの取りあいになるのではとひそかに心配したが、次の日も、その次の日も、彼女とは出会わないままに終わった。三日目の朝、トゥーリの方が「あのひと、元気かな?」と尋ねてきた。
「あれから会ってないよ」
「そっかあ」
「気になる?」
 トゥーリは珍しく「うーん」と言い淀んだ。硬い羽音とともに飛んできた蝉が、トゥーリの幹にしがみついて大音声で鳴きはじめた。日向に比べればましだが、木陰にいてもキオは首筋に汗が伝うのを感じた。
「シュナにも聞いてみるよ。なにか知ってるかもしれないし」
「今日はどこかにお出かけ?」
「図書館。家は暑いから……しばらく日中は避難しないと」
 この辺りは慢性的な電力不足で、冷暖房の需要が大きい時間帯には地区ごとの持ちまわりで計画停電が行われる。大半の家屋には自家発電の設備があるし、停電になっても断熱機構が数時間は室温を保ってくれるが、この古いアパートメントではそうもいかない。水道が不調な日もあるほどで、つい先日も保守点検の業者が来ていた。
 キオは考えごとをしながらアパートメントの薄暗いロビーを抜けた。窓際のソファテーブルをちらりと見てみたが、今日は誰もいないようだった。彼女も。
 エントランスドアの脇に掲示された工事告知に、このときキオは気づかなかった。
 夜、キオはシュナの部屋をノックして、彼女に最近会ったかと尋ねた。シュナは首を傾げながら「昨日ちょっと部屋に行ったけど」と答えた。
「ていうか、連絡先、知らないんだっけ? 教えてあげようか」
「いや、いい」
 自分と彼女は友達ではない。
「じゃあなんで……なにか用事?」
 キオは口ごもった。彼女が元気かどうか、気にしているのはトゥーリだ。家族の誰も、キオが中庭のシマトネリコを友達にしていることを知らない。
「この前、庭で見かけたとき、落ちこんでたみたいだったから」
 すこし悩んでから、嘘ではない言いまわしをした。シュナは見るからに驚いて身を捻り、肘を椅子にぶつけた。派手な音がした。
「あんたが誰かの心配を……!」
「うるさいな」
 キオは思いきり眉間に皺を寄せたが、シュナは気にも留めなかった。むしろどこか嬉しそうに、肘をさすりながら「そうねえ」と呟いた。
「昨日会ったときは元気だったけど。次の週末は泊まりがけで遠出するんだ、って準備してたし。なんか大きい図書館に行くんだってさ。それとも別の……こないだ恋人ができるかもとか言ってたし、そっちかな」
 ぶつぶつ言いはじめたシュナを前に、キオがもう戻ろうかと考えはじめた矢先、母が居間から声を掛けてきた。
「二人とも、明日は朝八時から工事で断水だからね。早めに寝なさいよ」
 キオはシュナと顔を見合わせた。初耳だった。シュナが廊下に顔を出して「なんの工事?」と訊いた。
「アパートの配管。老朽化したところを交換するみたい。母さんたちは仕事だから良いけど」
「絶対うるさいやつじゃん、私も早めに出かけるかあ」
 シュナは「じゃあお先に」と浴室に行ってしまい、話はそれきりになった。
 翌朝もキオはトゥーリに声をかけた。彼女について、シュナとの会話を伝えると、トゥーリは「それなら良かった」と満足げに枝葉を揺らした。
「ほんとに元気かは知らないけど、まあ、シュナが言うならたぶん元気だよ。ふたりは友達みたいだから」
「キオもユハと友達になれるんじゃないかな」
「……なんで?」
「ふたりとも(トゥーリ)が好きでしょ?」
 自信たっぷりに断言されて、キオはふっと笑った。たしかに自分はそうだが、彼女はどうだかわからない。でも、植物園の話をしていたし、植物は好きなのかもしれない。
「次に会ったら聞いてみるよ」
「トゥーリの木陰は、ふたりでも入れるからね」
「また夜に、トゥーリ」
「うん。いってらっしゃい、キオ」
 朝から日差しが強い日で、夕方になっても暑さは衰えなかった。図書館からの帰り道はゆるい登り坂で、汗に濡れたシャツがべったりと背中に張りついた。キオは家に着くなり鞄を放りだし、服も洗濯機に突っこんで、頭からシャワーを浴びた。それでようやく息がつけた。
 中庭はまだ暑いだろう。しばらく部屋でスケッチでもしようかと考えながら身体を拭いていると、ドアの外で足音がした。
「キオ、帰ってたの」
「ただいま」
「そう、あのね、もう中庭は見た?」
 母の声は妙にぎこちなかった。キオは部屋着を頭から被って、「なに?」とドアを開けた。
「私もさっき知ったんだけど、今回の工事、庭の一部も——」
 サンダルを突っかけてキオは外に走り出た。
 夕暮れに包まれた中庭の一角、敷地の端、寿命を迎えた配管の交換に際して障害となった植栽は、すべて取り払われていた。すべてなくなっていた。
 掘り起こされ、埋め戻された、柔らかな土に膝をつき、粉々になった根の欠けらを拾おうとして、手元が見えなくなった。風は静かに吹きぬけて、頭上には空だけがあった。木陰はもうなかった。
 キオは自室に鍵をかけて、電気もすべて消した。手足は土にまみれたままで、砂の散らばった枕はざらざらした。何度かドアが叩かれたが、無視した。そのうち眠ってしまった。夢も見ない眠りだった。
 ノックの音で夜半に目が覚めた。無視してもういちど眠りたかったが、ひどく喉が渇いていた。ざらつく手で頬をこすりながら、ドアを開けた。シュナが立っていた。
「聞いたよ」
 シュナは同情の表情を浮かべていたが、キオの目には入らなかった。シュナの手にあるペットボトルに目が釘づけになった。
「ユハがね、これ、あんたにって。拾えたのはこれだけだけど、あの木なら、挿し木で育てられるんじゃないかって」
 差し出されたボトルの中で、水面が揺れ、一本の枝葉がくるりと回った。瑞々しい、見慣れたシマトネリコの葉だった。
「トゥーリ」
 震える手で、キオはボトルを握りしめた。
「トゥーリ」
「なあに、キオ」
 
 彼女にお礼を言わなくてはと思った。
 翌日から彼女は家を空けていた。シュナが話したとおり、遠方の大きな図書館まで行ったらしかった。キオは挿し木についてひたすら調べ、ボトルの水をこまめに変えながら、小さな枝葉になったトゥーリの世話をした。
「あの子、いつ帰ってくるの?」
「予定だと三日くらいだって」
「ねえ、トゥーリも連れていってほしいな」
「お礼を言いに行くだけだよ」
「行こうよ、いまは一緒に行けるんだから」
 キオは机に頬杖をついて、外を見やった。もう中庭でトゥーリに寄りかかることはできないが、いまは机の上にトゥーリがいて、片手でどこにでも連れていける。彼女が帰ってきたら、トゥーリと一緒にお礼を言いに行こうと思った。
 彼女は三日経っても帰ってこなかった。
 誰も連絡が取れなかった。シュナも、役所の支援員も、警察も、彼女を見つけられなかった。
 ペットボトルの水中で、トゥーリは新たな根を伸ばしていった。生じたばかりの根は白く、柔く、幾重にも分かれながら広がっていった。充分な根が生えそろったころ、キオはトゥーリを植木鉢に移した。トゥーリは無事に根付き、やがて新たな葉をつけるほどになった。
 そうして一年が経った。
 彼女はまだ見つからない。

(幕間)

彼女はベンチに座っている。
 病院で、植物園で、バスの停留所で、アパートメントの中庭で、高速鉄道の待合室で。
 通りすがる人々は誰も彼女を気に留めなかった。彼女は群衆のひとり、どこにでもいるひとりの人間だった。平穏な日常に波風を立てず、違和感を喚起することもない。まるでそこにいないかのように。
 ときには誰かがやってきて、彼女に話しかけた。警察官、医師、看護師、カウンセラー、清掃員。おはようございます。今日は良い天気ですね。体調はどうですか。植栽管理者、植物園園長、幼な子の手を引いた母親。こんにちは。ここ、座ってもいいですか。役所の支援員、同じアパートで暮らす住民たち。彼女は微笑み、礼儀正しく返事をする。
 事情をよく知る支援員は、微笑みながら、ひそかに彼女に怯えている。ひとたび知れば彼女は異質だ。日常に開いた穴を眼前に見るようで、不安が掻き立てられる。善良な彼は、その恐れが伝わらないように注意深く振るまうが、声に滲む緊張を彼女はたやすく聞きとってしまう。自身も長らくそのように話してきたから。彼女は彼を責める気にはなれない。その恐れを隠そうとしてくれることに感謝している。
 ここでの暮らしには慣れましたか。ええ、おかげさまで。
 支援員は月に二度、アパートメントを訪ねてきて、ベンチで彼女と話をした。些細な雑談に、生活の近況報告。職務上はリモートの通話でも充分だったが、彼は対面での会話を選んだ。その方が恐れを減らしてゆけると分かっていたから。そうして同じような会話を何ヶ月も繰りかえした。
 記憶は戻りましたか。
 いいえ、まだ。
 支援員は眉をひそめかけ、すぐに表情を繕う。
 そうですか、大丈夫ですよ、どうか焦らないでくださいね。
 彼女は微笑む。医師やカウンセラーからも百回は同じことを言われているが、その倦怠を表には出さない。ありがとうございます、と百回目の返事をする。

彼女がどこから現れたのか、誰にもわからなかった。彼女自身にさえも。
 ある明け方、街の片隅にある古ぼけた公園の植え込みに倒れていた彼女は、ひとまず病院に保護された。連絡先を問われた彼女は口ごもり、自信なさげにいくつかの名前と電話番号を挙げた。そのどれもが存在しない番号だった。住所も同様だった。ご自分の名前は覚えていますか。彼女はしばらく黙った。そして答えた。警察がやってきて、捜索届にも失踪届にもあなたの名前はない、と言った。
 どうして公園で倒れていたのか、覚えていますか。
 わかりません。ごめんなさい。
 医師とカウンセラーは首を捻り、彼女は病院から病院へと移された。繰りかえされる質問に、彼女は同じ返答をした。
 何か覚えていることはありますか。
 はい。——でも、本当の記憶なのか、わかりません。
 わたしのことを知っているひとが、誰もいないから。

最終的に、彼女は記憶障害ということになった。
 彼女もそれを信じた。少なくとも心の半分までは。

こんにちは、ユハさん。ずいぶん暑くなりましたね。
 こんにちは、ジンシャさん。もうすっかり夏ですね。
 来週でしたか、旅行のご予定は。
 はい。予約のお手伝い、ありがとうございました。
 いえいえ、良いんです。お力になれて良かった。
 無事に辿りつけるか、ちょっと心配です。
 おひとりで暮らして半年以上も経ったんだ、一人旅だって平気ですよ。
 すこし前までバスにも乗れなかったのに。
 でも、今はもう大丈夫。そうでしょう?

彼女は微笑み、そうですね、と相槌を打った。
 それが彼女との最後の会話だった。

彼女が旅行先から帰ってこないという連絡を受けて、支援員は蒼白になった。事件に巻きこまれたのか、それとも、自ら望んでいなくなったのか、それさえわからなかった。
 彼女の状況に支援員はずっと胸を痛めていた。彼女の混濁した記憶が正しく元に戻り、本当の家族のもとへ帰れるようにと心から願っていた。きっと家族は心配している。必死になって彼女を探しているだろう。(彼女の名前を記した捜索届は出ていない。)もしかしたら両親もいないのかもしれない。そのショックで、記憶を失ってしまったとか。(彼女が挙げた連絡先はすべて存在しない。)こんなに若い女の子が。彼女は年齢さえあやふやだった。医師は、十代後半から二十代前半、という大雑把な判定をしていた。そんなことは見れば分かる。きっと誰かが彼女を探しているに違いないんだ。(家を出ても探されもしない若い女性は常に数えきれないほど存在する。)
 
 あの、ジンシャさん。
 人間は樹木に変身したりしないですよね?

まだ出会ったばかりのころに、一度だけ、彼女がそう尋ねてきたことがあった。目は合わず、声はかぼそかった。ジンシャは驚いたが、彼女に下された診断を思い、穏やかな声で返答した。

ええ、もちろん。
 人間は変身なんてしませんよ。神話とか、小説の中だけの話です。

気づけば、彼女はジンシャを見つめていた。言葉の奥を読みとろうとするように、懸命に、縋るように。瞬く深緑の瞳。日常に開いた深い穴が、こちらを見ていた。
 そうですよね。彼女はぽつりと呟き、明るく笑ってみせた。

変なことを聞いてごめんなさい。
 ただ、そんな夢を見ただけだったんです。