呼吸書房

聴衆は生きている

妙に温かな洞窟だった。外は吐息が凍る寒さだというのに、春の夜のような暗闇がひたりと肌に触れてくる。緩く傾斜した滑りやすい地面に足を取られないよう、旅人は洞窟の壁面に手を沿えた。やはり仄かに温かい気がした。
 カンテラの光輪越しに、空気中の塵がゆっくりと移動するのが見える。洞窟の奥に向かって風が流れているのだ。外気を吸い込むように。吸い込まれるように、と旅人は自らに語り直し、風下へ、洞窟の奥へと降りていった。
 洞窟にはさまざまな生き物がいた。鼠や蝙蝠はもちろんのこと、寒さから逃れてきたのだろうか、狐狸の類や、穴熊に山犬まで。まさか熊は居ないだろうが、冬眠場所としては打ってつけのようにも思える。暗闇に対の光が、獣たちの目が瞬く度、心臓がすうと冷え、背筋に汗が滲んだ。水気と、黴と、蝙蝠の糞が分解されゆく匂いとで嗅覚は既に麻痺しつつあり、聴覚ばかりが冴え冴えと際立って、無害な足音のひとつひとつを余さず拾いあげ、内耳神経の内で幾重にも増幅させた。旅人は瞑目した。立ち止まり、息さえ止めて、耳を澄ませた。そして、たしかに聞いた。洞窟には相応しくない、弦楽器の旋律を。
 もはや旅人は迷わなかった。音楽に導かれ、さらに先へ進んだ。
 演奏は、同じ一曲を繰り返していた。曲の終わりと始まりが絶妙に溶けあっていて、注意深く聞いていてもD.C.の在り処をほとんど意識できない。あまりにも淀みなく完璧な演奏は、およそ人の手によるものとは思えず、洞窟の最奥で回転し続ける蓄音機を連想させた。
 だが、そうではなかった。旅人が近づくにつれ、旋律には困惑が混じりはじめた。休符ではない箇所で不自然に音が飛び、滑らかに続くはずの小節に段差が生じる。旅人の来訪に驚き、訝しむ指先の震えが伝わってくるようだった。
 旅人はカンテラを高く掲げた。演奏がぴたりと止んだ。静寂が洞窟を深く包んだ。
 もう道案内は必要ない。光が既に届いている。岩陰の向こうに動く影を認めて、旅人は静かに声を掛けた。
「こんばんは」
 そこには人間がいた。音楽家だと、一目でわかった。木彫りの椅子に腰掛け、古びたチェロを腕に抱き、弓を握ったままの手で苦しそうに目元を庇っている。旅人はすぐにカンテラに覆いを掛けた。
「すみません、失礼を。まだ、言葉は分かりますか?」
 辺りが半月の夜ほどの暗さを取り戻すと、音楽家はおずおずと腕を下ろした。そして旅人を見つめ、長い逡巡の後、ぎこちなく口を開いたが、その唇の間からは隙間風のような掠れ声がこぼれ落ちただけだった。言葉は覚えていても、声の出し方を思い出せないのだ。旅人は音楽家の傍らで片膝を付いた。
「まさか本当だとは思わなかった。ただのお伽話か、尾鰭のついた噂話だとばかり。貴方はいったい、いつから此処に……」
 音楽家は、足首を鎖で繋がれていた。
 それは、麓の町で語り継がれていた物語。
 山間で眠る巨人の耳の中に、一人の音楽家が囚われて、終わらない演奏を続けているという話。
『もちろん、巨人なんてものが居たのはずっとずっと昔のことだ。けれどね、今でも、静かな夜には、山から吹き下ろす風の中にかすかな旋律が聞こえる気がするんだよ』
 音楽家をこの地に縛る鉄の足枷に触れようとして、旅人は顔を顰めた。鈍い打音。手を払われたのだ。
 音楽家は唇の前に人差し指を立て、沈黙を示した。そして、チェロを奏でた。ほんの数小節。先ほどまでの曲とは違う。揺らぎのない、甘く、優美で、伸びやかなレガート。
 それは雄弁だった。声よりもずっと。旅人は口ごもり、音楽家を見つめた。覆い越しに漏れるカンテラのわずかな光では、その口元が弧を描いているかどうかもわからない。
「このまま、ずっと、此処にいるつもりですか」
 ゆっくりと、音楽家は頷いた。旅人は半歩後ずさった。
「どうして……?」
 音楽家は応えない。言葉では答えられない。ただ、チェロを奏ではじめる。
 数百年の長きに渡り、聴衆を欠いた暗闇で延々と繰り返されたに違いないその音楽は、完璧だった。満ち足りていた。誰にも届かず、忘却されることもなく——知らないものを忘れ去ることは誰にもできない——そんな孤独の底で、およそ響いて良い音色ではなかった。旅人は怖気づき、一挙に、自分がとんでもなく場違いな、この空間に存在すべきでない異物だという感覚に見舞われた。
 薄闇を貫いて、音楽家は旅人を一瞥した。旅人はその眼差しの中に、狂気か、あるいは絶望を探した。二秒にも満たない僅かな間、二人の視線は絡みあい、旅人が何も言えずにいる内に音楽家は瞼を閉ざした。そのまま弾き続ける。演奏に身を委ね、チェロと共に甘く揺れながら。
 それきり、音楽家はもう二度と旅人を見なかった。旅人が話しかけても、もう応えなかった。やがて重い足取りで旅人が立ち去っても、音楽はいつまでもそこにあった。演奏は続けられた。続けられている。人間は、そうして微笑んでいる。