ありとあらゆる扉の先に
人間は扉が好きだ。扉の向こうに物語を夢見る。輝かしい夏への扉、魔法の国に通じる衣装箪笥の扉、扉の先にあるかもしれない、此処とは異なるどこかの世界。そんなものは存在しないと分かっていても、夢を見ずにはいられない——いいや、違う、そんなものは存在しないと分かっているから、安心して物語を託せるのだ。もし、万が一、天文学的な確率だとしても、世界に存在する扉のどれかがランダムで異なる場所へ繋がってしまうとしたら、落ちついて風呂にも入れやしない。下着姿でくぐった脱衣所のドアが、真っ昼間のサン・マルコ広場に通じていたらどうする?
そんな奇跡は起こらない。だから私は今日も、心安らかに自室のドアを開き、トイレに鍵を掛け、洗面所の古い扉を片足で押し開け、のんびりと出社の支度ができる。魔法の世界に繋がる扉がこの世界のどこにもないと知りながら生きてゆくのは、すこしばかり寂しいけれども。
寝癖直しに手間取り、普段の時間から数分遅れで、玄関扉を開ける。何の変哲もないアパートメントドアを。私は靴箱の脇にある全身鏡に視線を向けていた。だから気づくのが一拍遅れた。十一月の朝にふさわしくない、灼熱の日差しと、砂塵が、ばっと吹き込んだ。
瞬きもできなかった。目の眩む、恐ろしいほどに真っ青な空。天翔ける紅い竜の群れ。歌う炎。砂の海。地平線を舐める砂丘。ドアノブに片手を置いたまま、数瞬、私はとっさにドアを閉めた。扉の向こうに閉ざしてしまえば、周囲はすべて日常のままだった。居並ぶ私の靴、傘立て、明日の資源ごみに出すための古紙束。私は深呼吸をして、もう一度、そろそろと細く扉を開けた。その向こうにはもちろん砂漠など無く、見慣れたアパートの廊下が広がっていた。
私は狐に化かされたような心地で出社した。帰宅してからもう一度ドアを開閉してみたが、何の異常もなかった。ただひとつ、玄関にうっすらと散らばった、黄金色の砂塵を除いては。
あれは白昼夢だったのか、それとも、人生にただ一度の奇跡だったのだろうか。私には分からない。けれど、考えずにはいられない。あの日、あのとき、もしも扉を閉めずに、あの砂漠へ、夢にまで見た魔法の国へと、足を踏み出していたら、どうなったのだろう。——どうしてそうしなかったのだろう?
扉を開ける度に、私はひそかに期待しては、裏切られ続ける。きっと死ぬまで、何千という扉に願うのだ。
どうか、もう一度。