新月をグラスに注いで
あっ、ウィスキー割れた。
転倒しながら、里沙はぼんやりと思った。なんてことだ。せっかく奮発して良いヤツを買ったのに。いや、そもそも、こんな年になって玄関前で転ぶとか……!
埃っぽいアパートの廊下に転がってさえいなければ、里沙はそこそこに綺麗で実年齢より数段は若く見える女性だった。だが、長い睫毛も、流行をしっかりと把握した髪型も、シンプルだが手を抜いていない服装も、砂埃にまみれてしまえば一様に魔法が解ける。仕事帰りのくたびれたアラサー女性は、目を吊り上げて周囲を見回した。誰も見てなかっただろうな、オイ。
強打した肘の傷みで涙がにじみ、視界がぼやけているが、深夜十一時のぼろアパートの廊下には蛍光灯が点滅しているばかりで、人の気配はなかった。隣の部屋のカップルには悲鳴を聞かれたかもしれないが、まあ良い。
捻った足首をさすりながら、里沙はしばらく廊下にうずくまっていた。
なにか変なものにつまずいた感じだった。
酒はこれから飲むのであって、別に酔っぱらっちゃいない。ヒールがグラついた訳でもない。しかし、見える範囲の場所には、人の足をひっかけるようなものは何もなかった。里沙の足から脱げた真っ赤なエナメルのハイヒールが一つ転がっているだけだ。里沙は眉を下げて呻いた。
「ついてねぇ……」
立ち上がった拍子にビニール袋から琥珀色の滴が落ちた。袋の中で、ウィスキーが漏れはじめているのだ。ウィスキーもやばいが、同じ袋に突っ込んでしまった缶ビールや夕飯用の弁当もやばい。くそ最悪だ、と里沙は悪態をついた。休日用の上等なシェリーカスク・ウィスキーを少しでも救出すべく、急いでドアノブを引く。ドアは十センチほど開いたところで、ふいに、つっかえたように動かなくなった。里沙の眉間に皺が寄った。
「……なんでやねん」
チェーンなんて掛けていない。蝶番がどうかなったか。隙間に足を突っ込んで力任せに蹴り飛ばすと、足もとから、人間の後頭部を合成金属製アパートドアに強打した時と同じ音がした。あと、女子の悲鳴が。
里沙は足もとと玄関前の廊下を凝視した。
何もない。
何もいない。
ハイヒールの脱げた足で、一歩前に踏み出してみる。人間の腕を踏んだような感触があった。
「………………」
なんだこれ。
里沙は一分近く沈黙してから、ドスの効いた声で言った。
「ちょっと」
空間は無言である。
「どけや。あと返事」
「………ご。ごめんなさい」
かぼそい、女子高生のような声で、足元の空気が喋った。
しばらくそこにいるよう超常現象に命令してから、里沙はキッチンに走った。流しに積み上がった汚れ食器を無理やりまとめ、作業場を作る。袋の中にこぼれたウィスキーをグラスに移し、無事だった分はペットボトルに詰め替えて冷蔵庫へ。ついでに、缶ビールを二缶ほど引っ張りだした。一缶を一息で飲み干し、部屋の隅で口を開けているゴミ袋に放りなげる。ビール缶は狙いどおりの弧を描いて、先客の缶の山に突っ込んでいった。良い音だ。
酒缶、雑誌、脱ぎっぱなしの服の山に侵略されて実際の間取りの半分以下になっている部屋の中央に里沙はどかっと腰を降ろし、ビールとつまみ、弁当、水割りにしたウィスキーをテーブルに並べた。一応、向かいの席には人間ひとり分のスペースが空いている。雑誌タワーの狭間にかろうじて、といった感じだったが。
さて、と里沙は頬杖をついた。
「座れば?」
開きっぱなしの玄関にちょいちょいと手招きすると、ドアがビクッと動いた。
「今割れたウィスキーの値段なんだけども」
「う……。……その。お、おじゃまします……」
閉まりかけたドアが、観念したようにもう一度開き、ゆっくりと閉まった。蝶番が軋む。何も見えず、足音もほとんどしなかったが、玄関に散らかしている里沙の靴が勝手に倒れたりずれたりして、何者かの通過を知らせた。干しっぱなしのタオルをそろりと持ち上げ、雑誌の一部を崩し(そして慌てて直し)、ようやっと里沙の正面に辿りついたそれは、遠慮しいしい座布団に座った。
里沙は目の前の現象——何もいないように見えるのに、左端だけ人が座っているように凹んでいる座布団——をビール片手にしげしげと眺めてから、最も意味不明な部分は面倒なので後回しにして、手近な質問を投げた。
「とりあえず……あんた、なんで人の家の前で転がってたわけ?」
「そ、その、いつのまにか、眠っちゃってたみたいで……」
……あんまり答えになってないぞ。
里沙は無言で二缶めのビールを飲み干した。酒の飲み過ぎでついに脳が駄目になったかとも思ったが、幻覚に蹴躓くことはないだろうし、そもそもリアルな生活感がありすぎる。目に見えないだけで、そこには全く普通の人間がいるような感じなのだ。
やがて、里沙の長い沈黙を怒りと受け取ったらしく、目の前の現象は勝手に喋りはじめた。
「えと……あの……、ごめんなさい、ウィスキーと、あと、転んだときの……。すいません、あんなところで寝るつもりなかったんですけど犬がずっと道路にいて出れなくて、べ、弁償とかできるだけはしますから」
蚊の鳴くような、ひきつった早口。里沙は半目で手を振った。
「あー。あのさぁ、もうちょい音量あがる?」
「あっ、ご、ごめんなさい、喋るの久しぶりで、わたし、日本語ちゃんと話せてますよね? 変じゃないですか?」
いちいち泣きそうに喋る超現象だ。里沙はなんだかゲンナリしてきたが、表向きは笑って肯定の言葉を述べてやった。目の前の声も笑い返した。細く、高い、緊張気味の愛想笑いの響き。
「よかったです。……ウィスキー、本当にごめんなさい」
「まあだいたいは無事だったし、いいよ別に。怒っちゃないって。ねぇあんた、声的に女の子だよね? 女子高生とか?」
「そうです。……えっ、あれ? お姉さん、私のこと、見えてるんじゃ……」
「いやぁなにも。ぜーんぜん。空気が喋ってるようにしか見えんよ」
「ええっ?」
座布団がぱっと跳ね上がった。
「じゃ、じゃあなんで私を家に……だって、こんなの、気持ち悪いじゃないですか?」
頭上から降ってくる狼狽の声に、里沙はちょっと考えてからウィスキーを啜った。心地よい熱さが喉を滑り降りていく。里沙はため息を付いた。
「……あんた、やっぱり透明人間なのかぁ」
「やっぱりも、なにも、それ以外の何があるんですか」
「最初は幽霊かと思ったんだけど。で、うわーついに幽霊と絡めるとかラッキーってちょっと思ったんだけど」
「ちが……違います、まだ生きてます。透明だけど、まだ、死んでないです……」
立ち尽くしてしまった彼女を、とりあえずもう一度座布団に座らせて、里沙はキッチンとテーブルを往復した。つまみの皿に柿ピーとするめいかとチーズ各種を盛り、思いついたようにクッキーの袋も出してくる。もともと積んであった雑誌やら何やらも含めてテーブルの許容量がいっぱいになった頃、ようやく、かぼそい声が聞こえた。
「わたし、なんでここにいるんでしょうか」
「……うん?」
里沙は彼女のことなど忘れたように柿ピーをボリボリしていたので、透明な声は少し音量を上げた。それでやっと、普通の人の小さな独り言くらいの大きさになった。
「わたし、ひとの家の中にいるのも、ひとと喋るのも、四ヶ月ぶりくらいです」
「へー。じゃあ、それまでは、透明人間じゃなかったんだ」
相づちと共にクッキーの袋を差し出すと、条件反射的なものだろう、透明な指がクッキーを摘んだ。ゆっくり宙に浮いたクッキーは、地上八十センチくらいの高さでぱくりと消えた。チョコレートチップをかじる音。咀嚼。透明人間はため息をついた。
「そうです。五月まではちゃんと高校にも行ってました」
「高校ねー。懐かしいな。みんなやっぱり校則破ってる? スカート丈とか髪色とか、この辺の子は気合い入ってるもんねー」
「……みんな短いです。わたしは、普通でしたけど」
「普通ってどれくらい? 膝丈?」
「膝下4センチくらい……」
「うわ怖っ」
里沙はウィスキーを吹き出した。
「なにそれ、信じらんない、花の女子高生が何やってんの! っていうか、あんた、今なにか着てるんでしょうね?」
「え。え? ……ええと。その。一応、はい。Tシャツだけですけど」
「なんだ、よかったー。全裸なのかと思ったよ。服も透けるんだ」
「長い時間着てるとだんだん透けてくるんです。でも、着たばっかりの時は、服だけが浮いてるみたいに……」
「えっなにそれ面白そう、ちょっとなんか着てみて」
透明な彼女はしばらく迷っているようだった。やがて、「お借りします」と呟き、積み上がった服の山から星柄のブラウスを摘みあげた。
ブラウスは一人でくるくると踊りまわり、細くきゃしゃな輪郭どおりに空中に浮かびあがった。里沙とサイズが合わないぶん、肩が落ち、裾も袖も余っているが、そこには確かに女性の身体が存在していた。里沙はクッキーを落とした。
「しゃ……」
「しゃ?」
「写真撮っていい?」
「それは、ちょっと、流石に」
星柄の袖が困ったようにぶんぶん振られ、それから、宙にぴたりと止まった。表と裏をひっくり返したり、角度を変えたり、透明な彼女が自分の腕をじっと見つめていることは里沙にもすぐ分かった。里沙は部屋の一角を指さした。
「鏡なら、クローゼットの隣にあるよ」
ありがとうございます、と上の空に返事をして、ブラウスはふわふわ部屋の奥へ歩いていった。
全身鏡の前で、ブラウスは、ずいぶん長くぼんやりと浮かんでいた。
「……自分の腕、久しぶりに見ました」
「どうせなら、そのへんのスカートとかジーンズも……ああ、サイズが合わないか。ねぇ女子高生。あんた身長どれくらい?」
「百六十二です」
「それでそのウェストかよ……憎いねえ。じゃあ、髪型は?」
「髪型? いえ、普通の、ロングヘアですけど……背中くらいまでの」
「ははぁ。どうせ染めてないんでしょ。黒髪ロングかー、ちゃんと手入れすればめちゃくちゃ綺麗だけど手抜きロングほど悲惨なものも無いんだよねぇ。あ、私ね、美容師なのよ」
思い出したように付け加えると、ブラウスの姿勢が微妙に強ばった。里沙は苦笑した。
「美容院とか苦手系のひと? ……ちょっと、まだブラウス脱がないでよ。どこにいるか分かんなくなるじゃん。ほら、まあ、あんたの苦手な美容師だけどさ、今は勤務時間外だし。お酒つきあってよ」
ぐーっと残りの水割りウィスキーを飲み干し、嬉しそうにロックを作り始めた里沙を見て、女子高生は疲れた声で言った。
「私、未成年です……」
「なに堅いこと言ってんのー、透明人間のくせに。ペットボトル詰め替えウィスキーなんて今夜中に出来るだけ飲んじゃわなきゃ。九千円のシェリーカスクとか、あんた、社会人になってもそんなには買えない良いお酒なんだからね。ちゃんと薄ーく割ってあげるから」
女子高生は長くため息をついた。諦めたようにふわふわと戻ってきたブラウスの袖、の、手のひら一つぶん手前の空気に向かって里沙はグラスを差し出した。炭酸水でごく薄く割った、ジュースのようなウィスキー。おそるおそるといった感じで、彼女は透明な口元にグラスを運ぶ。一口舐めて固まった。
「キツいならもっと薄く割るけど」
「……いいです。すいません」
「ねぇ。あんた、名前は?」
「月代です」
「フーン。ちなみに私は里沙だよ」
「……何にも聞かないんですね」
空中にグラスを浮かべたまま、月代はずいぶん長く黙っていた。それ以上飲めないのなら別にテーブルに置いてしまっていいのに、そんなこと思いつきもしないのだ。
ゆらゆら揺れるブラウスのずり落ちた肩が強ばっている。
里沙はロックのウィスキーを傾けながら、職場で染み付いた習慣どおりに身体の力を抜いて、彼女の言葉の続きを待った。手のひらの体温でグラスの氷が溶けはじめる。はて、なんでこんなことになってるんだったかな、と里沙は酔いが回ってぼうっとする頭で考えた。休日前の夜に、なんだって、初対面の女子高生とサシで飲んでるんだろうか。
「なんで透明になったんだとか、家には帰らないのかとか、親はどうしてるんだとか」
やっと、聞き取れないような小さな声で、月代は喋った。
「私、そういうの聞かれるのが怖くて、人に近づかないようにしていたのに」
「んー……聞いても良いけどさ。別に興味ないし。四ヶ月も透明人間やってるって人間に、家や高校はどうしたとか赤の他人が聞いてどうすんのよ。なんとかやってるんでしょ」
「……はい」
「あと、なんかめんどくさそうだし」
「それは……まあ……」
曖昧に言葉を濁す月代に覆い被せるように、里沙はにやりと笑った。食べ終わった弁当のごみを、後方確認もせずに放り投げる。カツンと、割りばしが一本だけ床に落ちた。
「美容師はねぇ、人のめんどくさそうな地雷を踏まないように喋る癖がつくんだよ。ねえ女子高生。せっかくだからヘアカットしてあげようか?」
「……はい?」
声がひっくりかえった。相変わらず小さな声だったが、しゃっくりを呑みこむのに失敗したような変な声で、月代は生真面目に断った。
「いいです、そんな、意味ないですし。どうせ見えないのに」
「女子高生が何ヶ月も髪伸ばしっぱなしなんて良くないぞぉ? 今なら私がメイクもサービスしてあげるからさあ……って、そうだよ、あんた顔透明なんじゃん! 無色とかやばいよ美白どころじゃないよ! ファンデ塗ったらどうなるのか試してもいい?」
「いえ、だからその……私にしても意味がないんです……お姉さん、もしかしたら、ちょっと飲みすぎなんじゃ」
「何言ってんのよぉ、まだウィスキーが半分も残ってるんだぞーどこかの透明人間のせいでなー! ほら、あんたももっと飲みなさいよ! くそっバカ亮二め、人を捨てといて都合良い時にメール寄越しやがってあんにゃろうホイホイ面倒見に行くと思うなよ!? ちくしょー!」
里沙はグラスをテーブルにガンッと叩きつけてそのまま突っ伏した。ちなみに一週間前、彼女は数年付き合った彼氏からこっぴどく振られている。星柄のブラウスはテーブルの向かいでぽかんと浮かび上がったまま、両手にまだウィスキーのグラスを握っていて、透明な体温の温度差でグラスに付着した水分が指の隙間からこぼれ落ちていた。
それ以来。透明な彼女は、ときどき家へやってくるようになった。あの晩、トイレに直行し、酔っぱらいに免疫のない女子高生に朝まで看病させるという駄目人間っぷりを見せつけたにも関わらず、だ。
月に一回か二回ほど、決まって深夜、里沙の部屋に明かりが付いている時だけ、控えめにノックがされる。扉を開いても、当然そこには空っぽの廊下しか見えない。しかし、彼女はいる。里沙の顔色に疲労が滲んでいると、通りすがっただけだとかなんとか言って、そのまますぐに帰ってしまうのだが。
部屋に招き入れると、自主的に服を一枚はおる。散らかった部屋に人ひとり分の空白を作り、ちょこんと座り、お菓子やらおつまみやらのお土産を差し出して、何でもないお喋りを少し。そして、里沙がビールを二缶あけるより早く、そそくさと帰っていく。二人の会話はほとんど近況報告から成り立っていて、月代は里沙の美容師生活を別世界の物語のように聞いた。里沙は、透明人間でいることの不都合や面白さにずいぶん詳しくなった。互いの過去については全く話さなかった。
月代はよく黙った。そうなると、まるで服を着た透明なマネキン相手にひとりごとを垂れ流しているようになる。黙るならいっそ本か雑誌でも読んでくれれば良いのだが、ぴくりとも動かずに黙ってしまうのだ。最初は困ったが、そのうち慣れてしまった。
自分に自信がなくて、冗談と悪意の区別が付かず、共感を求めれば肯定を返し、意見を求めれば黙ってしまう、そして、どうやら自分自身が大嫌いであるらしい月代がもし高校時代に同級生だったら、真っ先にいじめにかかったのではないか、と里沙はときどき思った。月代の皮膚も髪も顔も見たことはないのに、長い黒髪で表情を隠して、長いスカートを持て余して、教室で細い肩を強ばらせている彼女をありありと想像できた。学生時代、どんな教室にも、彼女のような人間がいたものだ。
「あんた、好きな歌とかある?」
「歌ですか……」
月代はぼんやりと言った。
「ええと。その……ごめんなさい。あんまり、ないです」
「マジか……」
「あっ、えと、す、少しはありますよ? タイトルが今ちょっと思い出せないですけど、夏祭りの歌とか」
「えーよ無理せんで。んー、まぁ、暇な時とか、うちのCD聞いてて良いかんね。数だけはいっぱいあるし」
「はい。ありがとうございます」
それから、月代は来る度に里沙のCDを端から順に聞いていって、最後の一枚を聞き終えると嬉しそうに報告に来た。宿題をちゃんとやりましたよ、と親か先生に報告するような声だった。お気に入りの一曲を見つけたのかどうか、里沙は聞きそびれた。
月代に貸す服が、薄手のブラウスからトレーナーやパーカーになり、セーターになっても、彼女は透明なままだった。声も相変わらず小さかった。表情の見えない月代と会話するために、里沙はいつも耳を澄ませた。一度イタズラで彼女の透明な唇にルージュを引いてみたのだが、空中で震える小さな赤い唇がシュールすぎて会話にならなかったので、やはり表情を掴む手がかりは視覚以外に頼るしかなかった。小さな声の響きに感情さえ聞き取れれば、ただの内気で人見知りな思春期少女と喋っているのと変わらない。透明人間との会話に慣れるにつれて、里沙はこんなことを思った。目が見えない人ってのはいつもこんな気分で人と喋っているんだろうか、いや、私の場合は服の姿勢や仕草やジェスチャーが見えるんだからずっと楽だろう。
たまには弊害が出た。
「里沙ぁ。あんた昨日メール返してくんなかったじゃん。どうしたの?」
「え? 昨日? ……あ。ほんとだ。ごめん、夜か。気づかなかったわ」
「なに、寝落ち? あ、それとも、お楽しみ中で」
「まだフリーだってばー」
「え! なに、だって、フラれたの夏でしょ。もうすぐ冬じゃん。なにやってんの? 夜とか休日とかめっちゃ暇じゃない?」
「うっさいわ。いいんだよ、たまにお客が来るから」
「えっ」
「えっ?」
「なに、今度はどの常連さんに手ぇ出しちゃった訳」
「違う!」
携帯のバイブレーションさえ煩わしかった。目に見えない女子高生と過ごすのは一ヶ月のうち僅かな時間に過ぎない。お喋りが弾むという訳でもなかったけれど、透明な声と向き合って耳を澄ませ、酒を片手にゆっくりと非日常な会話を交わす短い時間が、里沙は嫌いではなかった。
季節は冬。
ある日、里沙は、アパートの廊下で、最近出没したという若い女子の幽霊の噂話を聞いた。
年が明けていく。
月代が家に来なくなって二ヶ月が経っていた。
互いをほとんど知らない、ただの話し相手。赤の他人。別にいつ縁が切れてもおかしくはない。それでも里沙は、もやもやした苛立ちを抱えながら、小さなノックの音を待ち続けた。街中や、家の周辺、アパートの階段を昇った先の殺風景な廊下を歩く時、ふと視線を巡らせてみた。もしかしたら、透明な彼女がその辺にいるかもしれない。また無防備に眠っているかもしれない。
しかし、その姿を見つけられることはなかった。
心配や苛立ちは少しずつ、少しずつ淡い忘却に覆われて、あの不思議な透明女子高生はどこかへ行ってしまったか、里沙などどうでもよくなってしまったか、もしかしたら姿と色彩を取り戻して日常に帰っていったのかもしれないと思った。
(——ま、元気にやってるんだろうさ)
里沙は元通りの日常の中で、職場の美容院と自宅を往復し、たまの休日に遊びに出掛けては、深夜の帰宅を繰り返していた。
その日も、仕事を上がってから同僚と遅くまで遊んでいたのだ。里沙は駅からの帰路を自転車で飛ばし、途中で寒さに耐えかねてコンビニに入った。いつも通りのビールと、おでんを二人分どっさりと買い込む。今日の夜食と明日の朝食だ。真冬は出かける回数は減らしておくに限る。
「ありがとうございましたー」
軽々しいチャイムと共に自動ドアが開き、冷気がばっと襲いかかってきた。里沙は首を竦めた。今夜は本当に風が強い。北風で耳がちぎれそうだ。
「くそ……。今度引っ越すときは、絶対、駅とコンビニが近いアパートに……」
手袋をはめた両手を擦り合わせる。耳当ては家に置いてきてしまった。息が真っ白だ。里沙は寒さで痺れる鼻をすすって、自転車のスタンドを蹴った。背中から小さなくしゃみが聞こえて、誰も彼も大変だな、と思う。何気なく振り返って、里沙は目を眇めた。
コンビニ前の道路には、誰もいなかった。
「……月代?」
呟いても返答はない。
里沙は、両手を前に突き出して、そろりそろりと前進した。一歩一歩、手のひらの先に何かが触れるのではないかと目を凝らして、ゆっくり足を進める。腕を左右に、ゆっくりと振る。誰もいない歩道に、里沙の影だけが黒く動いた。いや、もうひとつ——白い吐息が宙を舞っている。二人分ばらばらに。人の息が、ふたつ、ここにある。
やがて、薬指の先が空気に突き当たった。里沙はとっさに手袋を外し、空気を強く掴んだ。
「月代?」
驚くほど冷たい体温が、右手に伝わってきた。これは肩だ。剥き出しの。里沙はもう一方の手もがむしゃらに動かして、やっと月代の身体を見つけた。
「なんだってこんなとこに——」
途中で声を失って、里沙は何度か空振りしながら右手を月代の額に当てた。続けて首筋に。里沙は呻いた。月代の首筋は熱く燃えていた。
「……ちょっと、月代、あんた、なんか、喋れ。今すぐ。声は? 返事できる?」
月代の透明な身体はあまりに細く、ふにゃふにゃして頼りなかった。両手で支えたとたん、安堵したのか知らないか一気に力が抜け、透明な体重が里沙の肩にがくりと落ちかかってきた。何も聞き取れない掠れた声が、耳元で震えた。
「聞こえな……おい、いつからこんなだった? あー、もう、めんどくさいったらないよ、免許とっときゃよかった! タクシー……駄目か、自転車の荷台乗れる?」
問いかけながら、白い息が舞う場所へ耳を寄せると、ようやく囁き声が耳に入った。返事かと思ったら、「ごめんなさい」だったので、里沙は呆れた。
「誰がそんなこと聞いたよ。そうじゃなくて、自転車の荷台に」
言葉の途中で、里沙ははっと視線を上げた。歩道の向こうから人が歩いてくる。こんなところで時間を喰ってる場合じゃない、と里沙は月代の身体を抱えて無理やり自転車の後部座席に乗せた。ぞっとするほど軽かった。
「肩か腰に掴まって。っていうか、落ちても気づけないんだから、ほんと掴まって、絶対離すなよ。離したら殴るよ」
返事はない。背中に掛かった頼りない体重と、弱々しく自分の腰の周りに回された腕を何度も確かめて、里沙はペダルを踏んだ。
住宅街を飛ばした。段差で自転車が跳ねる度に肝が冷えた。自転車カゴに突っ込んだおでんが傾いて、ポリ袋の隙間から湯気が白く立っている。背中越しの月代の体温、そして視界の障害物だけに里沙の神経は集中されていて、今日明日の食糧とビールが台無しになったことなど全く気づいていなかった。
月代を背負っていてもアパートの階段は二階まで簡単に上れた。生きているのが不思議な軽さで、里沙は心配を通り越してだんだん腹が立ってきた。とにかく、この熱だ、布団に突っ込んだら薬を買いに行ってこなければ。
「はい、体温計。透明人間でも人と体温一緒なんでしょ? たぶん」
少し意識がはっきりしてきたらしい月代が、ぼそぼそと何か言った。簡易ベッドの傍に膝をついて、耳を澄ませる。何か聴き取るより早く、ピピッ、と電子音が鳴った。
「何度? 出た?」
無言で空中に浮かび上がった体温計を受け取って見ると、39.2度だった。この熱で屋外にいたのか、と里沙は顔をしかめた。もしこのまま悪化するようだったら、どの病院に連れていけば良いのだろう。
「もう一回聞くけど具合悪いのいつから?」
囁き声を繋ぐと、「一昨日だと思う」になった。里沙は半目になった。
「あんた嘘つく時いっつも語尾が震えるよね」
透明な声はしばらく沈黙してから、「……すいません、五日前です」と白状した。
「馬鹿。いいね、寝てなさい、動くんじゃないよ」
里沙は透明な額に濡れタオルを乗せてから、寒空の下へ駆け戻った。
熱冷ましとスポーツドリンク、風邪薬、うどん、ヨーグルト、とにかく看病に必要なものを探し、コンビニや深夜営業のドラッグストアをはしごする。
戻ってみると、部屋は静まり返っていた。名前を呼んでみたが返事がない。布団はちゃんと宙に浮かび上がったままで、触れた手の先には人の体温が感じられた。里沙は耳を澄ませた。自分の呼吸のほかに、乱れた寝息がもう一つ聞こえる。ちゃんとここにいるのだ。何も見えなくても。
誰に見つけられることもなく、真冬の屋外で熱に蝕まれていたこの透明な少女の存在を、里沙は初めて恐ろしいと思った。理解できないことは恐怖ではない。理解できてしまうから恐怖を想像する。例えば。透明な彼女に車が突っ込んでしまったら、血飛沫は舞うのだろうか。それともやはり誰にも見えず、血の匂いと感触だけが周囲にぶちまけられるのか。例えば。人気のない場所で、誰にも見つけられず、助けも求められず、苦痛に直面したら。もしくは死を迎えたら。彼女の身体はどうなるのだろうか。
彼女の存在は、人の視界に決して認識されない。
「あんたが目に見えないことは別に怖くなかったよ」
里沙は月代の側にしゃがみこんで、首筋のタオルを交換した。熱はまだ高い。
「あんたは、自分が透明人間だってことをちっとも哀しんでないもんね」
苦しそうな寝息は続いている。顔色が分からないのは不便だな、と里沙は溜息をついた。でも、まあ、眠れるうちに眠らせておいてやろう。目が覚めたら、薬やおかゆを出してやろう。運が良いことに明日は休日だ。今回ばかりはタイミングに感謝しなければならない。初めて会ったときは、本当に、最悪な場所とタイミングで、私のウィスキーを台無しにしてくれやがったけど。ああ、思い出したらむかついてきた。
「あの時、偶然に蹴躓けたから良いけどさあ。私は、あんたの心や感情の方がよっぽど怖いね」
ブツブツ文句を言ってみるが、もちろん返事はない。
布団からはみだしている部分は無いだろうかと、里沙は月代の手足を手探りで探した。右手だけ、毛布からはみだして外にぱたりと落ちていた。里沙の親指と人差し指の輪に収まってしまう、ほとんど骨と皮しかないがりがりの腕だった。脈は打っているのに、まるで骸骨のようだ。
「あんた、普段なに食べてんのよ……」
月代を寝かせているのは、プラスチックの衣装ケースの上にマットレスと布団を敷いただけの簡易ベッドだ。寝心地が悪いだろうなと思っていたが、これだけ軽ければ何も関係ない気がする。里沙は心に決めた。こいつが治ったら、絶対どこかに連れていって何か食わせてやる。こんなガリガリじゃ羨むことも出来やしない。
その前に、と里沙は自分の部屋を振り返った。ちゃんとしたパジャマを発掘して、着替えやタオルも発掘して、座って何か食べられる環境を作らなければ。ああ、というか、いいかげん、部屋を片づけよう……。
「掃除は……埃立つし……また今度で……」
部屋の片隅に積みあがっているタオルや洗濯物の山にひとまず取りかかる。山の最下層から夏物が出てきて、里沙はひきつった苦笑いを浮かべた。
洗濯物とタオルを畳み終わる頃、月代が目を覚ました。宙に浮いた布団が寝返りに合わせるように動いている。里沙はすぐに気が付いて、にやっと笑った。
「起きた?」
「……はい。すいません、こんな、迷惑かけて」
声が幾分かましになっていた。里沙は大袈裟に溜息をつきながら、こっそり胸を撫で下ろした。
「いやーほんとにね。どうせなら風邪引きはじめの頃に来なさいよね。おかげでビールも飲めやしない」
「う……ごめんなさい……」
「食欲ある? 薬飲まないと駄目でしょ、それ」
里沙はテーブルに置きっぱなしにしていたコンビニの袋をがさがさとかき回して、うどんやおかゆのパックを取り出した。普段あんまり自炊してないけどまあこれくらいなら作れるだろう、作れる、よな、たぶん、うん。
「どっちがいい?」
「……じゃあ、おかゆがいいです」
「はいはい。ああ、ポカリとか枕元に置いといたから飲んでね。ストロー付きだから」
「里沙さん」
「ん?」
おかゆパックの裏の説明文を熟読しながらキッチンに向かっていた里沙は、振り返って、ベッドを見た。布団がもぞもぞと動いて、枕まですっぽりと隠してしまっている。これなら普通の人間が寝ているのと変わらないなと思っていると、少しだけ隙間が空いて、月代が透明な顔を出した。
「ごめんなさい。出来るだけ早く治します」
「……おう。治ったら、一緒にご飯でも行こうぜ」
「無理ですよ」
「大丈夫。任せなさい」
月代は驚くほど早く回復した。三日後には普通の食事も出来るようになり、置き手紙で逃げられる前に里沙は先手を打って、今日は自分が帰宅するまで家にいるように約束させた。怪訝そうな返事をする月代に、「病み上がりだから心配なんだ」とそれらしく説明しておく。
全速力で仕事を終え、寄り道もせず、ビールも買わず、里沙は直帰した。ロングTシャツをはおって大人しく留守番していた月代を捕まえて、鏡の前に立たせる。事態が飲み込めずうろたえているらしい声を無視して、里沙は予め発掘しておいた服の束を取り出した。
「よし、着たまえ」
「……こ、これ全部ですか? なんでそんな」
「そう、全部、きっちりよろしくね。ちょっと思いつきを試したいんだよ」
里沙はにやりと笑った。空中にぶらぶら浮いた巨大な紙袋が、口を開けて傾いている。月代が中を覗きこんで呆気に取られているんだろう。
「ワンピース、タイツ、ブーツ、マフラー、ウィッグ、ニット帽と手袋と、一番下のモフモフのやつがコートね。一応、ブーツ以外は、サイズが微妙にズレててもなんとかなるとは思うんだけど、ま、とりあえず、着てみて?」
「う……はい」
有無を言わさぬ、な感じで微笑むと、ロングTシャツはしおしおと背中を丸めた。
それから、Tシャツが空中でくるりとひっくり返り、畳まれて床に降り、里沙の用意した服がひとつずつ宙に浮かび、月代の透明な身体にぴたりと合わさるのを、里沙はじっと見ていた。ウィッグの扱いが分からないらしく、空中でいじくりまわしていたので少しだけ手伝ってやる。マフラーを巻き終えた月代がコートを持ち上げたところで、里沙は手を挙げた。
「とりあえずストップ。ありがと」
「あ。もういいですか、良かった。じゃあ脱いでも……」
「ちょい待ち。鏡の前にちゃんと立って」
「はぁ……」
透明な顔以外の全てを服で覆った月代が、所在無げに全身鏡の前に立つ。ウィッグがどうにも浮いているが、ニット帽を被っているのでなんとか落ちずに済んでいた。
月代が首を傾げる。
「あのう。私、いつまでこれ着てればいいんですか」
「もうちょい。待って、服の感じをちゃんと確かめたいから」
「せめて窓を開けたいんですが……これすごく暑いです……」
「ああ、どうぞ」
ワンピースの裾をふわふわと揺らして、月代が窓辺へ歩いていく。完璧な人間の後ろ姿を見ながら、里沙は一人で唸った。
「まさかここまで上手くいくとは」
冷たく爽やかな風を連れて、月代が戻ってくる。
「鏡の前に立ってればいいんですか?」
「うん。というか、あんたはどう思う、これ」
「え? いや、私は、服とか、ちっとも分からないので……。マネキンの役ならいくらでもお手伝いしますけど、意見とかはちょっと……。この服、里沙さんが着るんでしょう? 里沙さんの好きなように」
「いや、あんたにあげるんだよ」
ぷつりと、月代は沈黙した。
彼女の言葉の続きを待たずに、里沙は言った。
「一緒に飯でも食べに行こうってこないだ言ったの覚えてる? あんた熱で朦朧としてたし、知らないかな」
ワンピースの肩口に両手を置いて、細い肩ごしに鏡を覗きこむ。月代はされるまま、腕をだらりと下げて突っ立っていた。
「ほら、これなら、パッと見は普通の人間みたいだし、余裕で大丈夫でしょ。後ろ姿とか完璧だもん」
「……里沙さん」
「ほいほい」
「ちょっと待ってください。さっきから、その、何を言ってるんですか」
「この服着て一緒に出掛けようぜ」
「な、なんで」
「あんた見てるとイライラするから」
里沙は舌を出した。
「というのは理由の半分で、あと半分はまあ、色々混ざっててよくわからんね。思いついたから実行してみた」
「……そんなこと、言われても、だって、わたし、無理です、こんなの、だって、顔もないのに。無理です。やめてください」
「なんだよー月代は私と一緒になんかご飯食べに行けないって言うのかよおー」
「無理です、絶対に無理、怖い、い、嫌です!」
月代の身体が里沙の手の間からすり抜けて、玄関へ走った。手袋がドアノブを握り、ハッと凍りついたように動かなくなる。鍵は開いている。しかし、出ることは出来ない。透明に戻らない限りは。
振り返りながら、月代は震えていた。
窓の隙間から冷たい風が吹き込んで、ワンピースの裾を揺らす。ウィッグを震わせる。けれど手袋の指先や、細いタイツの足首に小刻みな振動を伝えているのは、月代の身体だった。
「……悪かったよ。怖がらすつもりじゃなかった。でも」
彼女の、見えない両眼を見据える。
「一つだけ言っとくよ。私はプロだ。あんたさえその気になれば、その透明な顔も、髪も、身体も、メイクとヘアカットで全部どうにか誤魔化してあげるよ。外を歩いてても誰にもばれない程度にね」
月代は動かない。ドアノブに手を掛けたまま、立ち尽くしている。里沙は返事を期待せずに呟いた。
「いつまでも透明なまま生きていけると思ってんの?」
あ、泣いたかな。
里沙はほんの少し頬を歪めて、笑った。玄関に背を向ける。黒一色に染まった半開きの窓に、里沙が映っていた。黒い鏡の向こうには、まばらな外灯と住宅街の明かり。吹き込む風の冷たさに、雪になるかもしれない、と思う。
「……ごめんなさい」
掠れた声が聞こえた。
「顔も声も怖いって確かによく言われるけどね、別に私は怒ってないんだよ。いま怒っていいのはあんたの方だ」
「…………」
「あ、タンマ、『私のせいで』と『迷惑かけて』は禁止ワードだから」
「……う」
数拍、言葉に詰まってから、月代は呻いた。
「なんでこんな。こんなの、……お、おせっかいです」
「あー、そういうの良いね。もっと言ってよ」
「迷惑ですっ」
涙声だった。里沙が聞いた月代の声としては、今までで一番大きな声だったかもしれない。
寒さで吐息が白く凍る。
身体が動かなくなる前に、里沙は静かに窓を閉めた。
「ねぇ。ほんとにさ、私と一緒にご飯食べに行きたくならない? 隣駅の臨海公園に新しく出来たベーグル屋とかどうよ。遅くまで開いてる」
ドアの蝶番が軋んだ。里沙は振り返らない。
「またおいで」
ドアが閉まった。里沙は振り返った。玄関にそのまま脱ぎ散らかされていった服たちが、花のように積み重なっていた。
「容赦ないなぁ。くそ。畳むのはこっちなんだぞ」
思わず笑ってしまう。
「ちゃんとイヤって言えるんじゃん、あんた」
晩冬の夕暮れは、一日一日、少しずつ長くなってゆく。空が澄んだ茜色に変わり、地上が黒い影で切り抜かれ、外灯が灯り——里沙は窓の傍に座って、夕焼け空が夜空に移り変わる様を眺めていた。部屋から見えるのは何もない道路と住宅街の屋根だけだ。それから空。電線に切られた街の空。茜と浅葱のグラデーションの中空に、白い月がぽっかりと浮いている。
視線はときどき手首に落ちた。腕時計は、約束の四分前を指している。
チャイムが鳴った。
「どーぞ」
何も聞かずに里沙は声を投げた。鍵はもう開けてある。
静かに開いた扉の前には誰も見えない。すぐに声がした。
「……お邪魔します。お久しぶり、です」
「やーやー久しぶり。置き手紙読んでくれたんね」
「はい」
「手紙とか高校以来だったよ。ちょっとウケちゃった。直接投函するくらいなら、声掛けてくれりゃ良かったのに」
足音がひたひたと近づいてきて、途中で一度止まった。部屋の様子が様変わりしていること、里沙が珍しくエプロンを付けていることに驚いているのかもしれない。里沙の腰には仕事用の道具入れが下がっており、隣には小さな台車がスタンバイしている。部屋はほとんど片付いて、全身鏡の前にはビニールシートが引かれ、椅子が一脚置かれていた。
「じゃ、洗面所で頭濡らしてきてねー」
「……その、ほんとに、髪切らなきゃだめですか」
「美容師として、女の命を放置プレイなんて認めらないね」
里沙はふふんと笑って、自分の髪を束ねなおした。普段はゆるいカールを付けて肩口に垂らしているが、今日はとびきりの集中力が必要だ。頭頂の近くできつく一本に纏めると、キャラメルブラウンのポニーテールが左右に弾んだ。
鏡の脇、クローゼットには、いつか見立てた服がそのままハンガーに掛かって待機している。
水音が止んだ。水滴をぽたぽたと落としながら、タオルで空中を——正確には見えない髪を、わしゃわしゃと掻きまわして戻ってきた月代にひととおりヘアケアの重大さについて説教してから、里沙は咳払いした。椅子をくるりと回して、月代に向ける。
「そいじゃ、どうぞ。月代サン」
「なんか、ちょっと、帰りたくなってきました……」
「大丈夫だいじょーぶ、どういうヘアスタイルにしますかーとか、分け目位置はどうしますかーとか普段はどういうトリートメント使ってますかあーとか細かく聞かないから」
「……本当に」
「大丈夫。任せろ」
月代はしばらく立ったまま、多分うつむいていた。タオルが頭の輪郭から少し前に落ちて、フードのような影を作っている。里沙は月代の透明な背中をぽんと叩いた。
「……おねがいします」
「よっしゃ」
椅子が静かに軋んだ。月代の透明な肩に、職場から拝借してきたカットクロス・ケープをふわりと掛ける。
「いやー、透明人間のヘアカットとメイク担当とか、私が世界で初めてなんじゃない? テンションあがるわぁ」
ニヤニヤを隠そうともせずに、里沙は月代の透明な髪を一房、手で包んだ。髪質は柔らかい。少し荒れている。伸ばしっぱなしロングの宿命というか、先端は枝毛ばかりだ。透明人間生活に甘んじて、ろくにトリートメントもやってないんだろう。
「セミロングで良い?」
「そんなに切らなきゃ駄目ですか……」
「いや、私の趣味だけど」
「ええ……。ううん、別に、どうせ見えないし……里沙さんの好きで良いです。それに、上からウィッグ付けるんでしょう?」
「分かってないなーあんたは。ま、じゃあいいや、私の好きにするよ」
容赦なくざくざく切ってゆく。月代は身体を強ばらせながら、じっと座っている。切った髪も切る髪も、目には見えない。里沙は指先に全神経を集中させて、身体に染み着いた感覚のとおり仕事を進めていった。現在地を見失うと、一度両手で髪の具合を触って確かめる。
冬の室内なのに、額に汗をかいた。
「……すいません。やっぱり、いいです。見えないのにこんな」
「黙ってろ。私には見えてんだ」
長さはもう大丈夫だ。ハサミを細やかに動かし、髪に段を付け、流れる癖を導いていく。目に見えないだとか細かいことは関係ないのだ。しっとりと濡れた透明な一筋ひとすじを、確かめ、指で辿り、整え、トリートメントも済ませる。ブローで髪を充分に躍らせてから、仕上げにふわりと空気を含ませた。カラーもカールもストパーもなし、ごく単純な透明のセミロングカット。王道の清純派だ。派手ではないけれど俯いたって表情は隠れないし、風が吹けば明るく、スカート丈膝下四センチの女子高生にもきっとよく似合う。里沙は額の汗を腕で拭って、鼻息荒く呟いた。
「やばいな。私天才だな」
「頭が軽くて落ち着かないです……」
「とりあえず、先に服着ておいで」
カットクロスをばさりと振ると、透明な髪がさらさらと音を立てて落ちた。相当な量を切ったから、あとで念入りに掃除機も掛けなければ。
三段ティアードの淡いワンピースが、小豆色のタイツに支えられてとぼとぼと戻ってくる。椅子に座った月代の髪を確かめるように何度か撫でてから、里沙は自分の腰に両手を当てた。
「はい、じゃ、次ね。顔作るぞ」
「里沙さん……。その、ほんとに、やるんですか」
「まーね。だって、でなきゃ一緒に飯食えないだろ」
「この部屋でも食べられるじゃないですか」
「大人になっちゃうとね、マンネリ防止が大事なのよ、女子高生」
「だって、私、もう、自分の顔、覚えてないのに」
「ああ、私もときどき自分のスッピン忘れるわ。っていうか忘れたいわ。アイラインと付け睫毛バシバシの時がデフォルトだったら良かったのに……」
「でも」
「はーい、でも禁止ねー」
里沙はそれ以上の月夜の弁明を全て黙殺して、指先に集中した。
透明な空気を、化粧水と乳液、下地で覆い、リキッドとパウダーのファンデーションで肌色に濁してゆく。少しずつ表れる輪郭と頬の陰影、細い首筋に、里沙はほっと息をついた。透明な肌で上手く発色するかどうかは、正直、賭けだった。駄目だったら特殊メイクの領域に足を突っこもうかと思っていたくらいだ。よかった。ちょっと目に見えなくても、結局は同じ人間の体温と肌の層面なのだ。
指先とスポンジで肌色を叩き、伸ばし、パウダーをはたく。瞼と目頭、目の切れ込みをコンシーラーの指先で描きだしながら、里沙は笑った。
「良い感じですよお客さん。昼ならともかく、冬の夜ならこれでバッチリだわ」
空間は無言である。正確に言うと、ファンデーションの下で唇を引き結んでいる。喋ったら粉が口に入るとでも思ってるんだろうか。
ブラシでふわりとチークを入れ、鼻筋も整える。月代の顔には、もう、透明な部分はどこにも残されていなかった。こんな顔だったのかと感心しつつ、里沙は手を動かしつづけた。
眉をブラシとペンシルで丁寧に描き出し、瞼にはアイラインとアイシャドウで立体感を。二重を刻み込む。見えない睫毛をカールさせる自信は無かったので、先にマスカラを走らせると透明な睫毛がさっと焦茶色に染まった。
「よし。目、開いて」
月代が不安げに瞬きをする。里沙は一瞬息を呑んだ。透明な眼球のことをすっかり忘れていた。これじゃホラーだ、真冬の夜にサングラスを掛ける訳にもいかないし。
「どうなったんですか。鏡、見ても」
「あっあっちょっと待って、仕上げまだだから、芸術の途中を覗き見するなんて犯罪だよ月代! とにかく鏡はまだ駄目!」
里沙はばたばたと戸棚を引っくり返して、未開封のカラーコンタクトを引っ張り出してきた。……いけるか。まあ一晩なら大丈夫だろう。
「コンタクトの経験ある?」
「無いです……裸眼です」
「三時間耐えて」
「ひっ」
月代が短い悲鳴を上げたが、里沙は敢えて無視してレンズを突っ込んだ。ついでにウィッグも被せる。前髪の下、焦茶の瞳がふたつ涙で滲んで、里沙を見上げた。
「おー……初めまして」
「もういいですか……終わりましたか」
「待って。最後の仕上げ」
里沙は、自分のお気に入りのリップをくるりと回して、筆に淡いオレンジを乗せた。月代の向かいに改めて腰を降ろし、彼女の小さな唇を色づけてゆく。いつか悪戯した中途半端なルージュとは違う、今度は完璧な女性の唇だ。月代はきゅっと口元と肩に力を入れて、忙しなく視線を動かしている。里沙は一度も視線をあげることなく、ゆっくりと、微笑みのラインを辿っていった。
最後の一筆を厳かに肌から離し、里沙は満面の笑みで両手を叩いた。
「出来た! 完璧!」
椅子を勢いよく鏡に向ける。
色を取り戻した女子高生は、ぽかんと、鏡の中の自分を見つめた。
「……これ、私ですか」
「ちゃんとしたメイク初体験だっけ? そりゃ別人に見えるだろうね」
里沙はうきうきとエプロンを外しながら、束ねていた髪を一気に解いた。手櫛で髪を軽く掻き混ぜ、頭を振る。
「いやぁ、楽しかった。面白かったよ。初めて店に立った日のこととか思い出しちゃった。やっぱり新鮮さは大事だねぇ」
ぐぐっと両腕を頭上に伸ばして、大きな欠伸をする。集中しすぎてクタクタだ。出掛ける前に、コーヒーでも一杯飲もう。ビールは帰ってきてからのお楽しみにすればいい。
「で、どうですよ、月代さん。仕上がりの感想は? 私の趣味が入ってるから若干ケバいかもしれないけど、ま、今夜くらい楽しんでみてちょうだいよ」
月代は無言だ。鏡を凝視したまま動かない。
ちょっとだけ心配になって、里沙は月代の顔を覗き込んだ。初めてまともに見る彼女の表情は、途方に暮れたような、どんな顔をして良いのか分からないような、遠くを見つめたままの、泣き顔だった。里沙は硬直した。
「……落ちるじゃん!?」
「ひうっ」
「あんたねぇ、メイクしたら女は泣いちゃいけないんだってくらい知ってなさいよ! ああ、ああ、ファンデーションに涙の筋がっ……」
「だ、だって、だって、こんな、ひどいですよ、これじゃ、私、全然、透明人間じゃない。……私、ほんとは、ずっと、透明でいたかった。だって、透明なのは凄く、すっごく、楽ちんなんです。怖くないんです。ずっと、空気になりたいって思ってたら、ほんとに透明になれて、誰にも見つからなくなって誰にも迷惑を掛けなくてよくなって、とっても、安心したのに……」
里沙は片眉を上げたまま、月代を見下ろした。珍しい、一度にこんなに喋ってる、と思った。
「分かってるわそんなの。でも、それじゃ、一緒に出掛けられないじゃん」
「……里沙さんはおかしいです。私なんかを」
「何、今更分かったの? 馬鹿だねぇ。ほら、出掛ける準備して、メイク崩れたとこも直すから。今何時? …ああ、もう八時か。向こう付いて九時かな。あの公園ね、ベーグル屋の傍にベンチがあって、海と夜景が綺麗だぞお。海風がちょっと冷たいかもしれないけどね」
月代は、長い睫毛をぱちぱちと震わせて、小さな唇を噤んだ。呟く。
「こんなにしてもらっても、戻って来られないのに」
「知らんわ」
涙の跡をさっと塗りつぶし、里沙は月代の手を引いて家を飛び出した。冬の夜を自転車二人乗りで、駅まで走り抜けていく。マフラーが二人ぶん北風に揺れる。コンビニや自動販売機、駅や電車の眩い蛍光灯にも魔法は破れやしない。通行人ごときの視線は魔法の存在にさえ気付かない。一晩の魔法を脅かすのは、冷たく心地よい海風だけだ。それでも、一晩のあいだ、きっと魔法は解けない。
真っ暗な西の空に、傾いた月が浮かんでいた。夜空の闇が濃くなるにつれて、都会の空にも星が灯りはじめる。月が沈めば、光を取り戻した星がもっと空を眩しくするだろう。
里沙と月代は、閉店間際のベーグル・ショップでひとつずつ、フルーツベーグルと熱い飲み物のセットをテイクアウトして、海際のベンチに座った。人は疎らだ。外灯も、生き物も疎らだ。そして、誰も彼女たちの秘密に気付くことはなかった。
焼き立てのベーグルに一生懸命、息を吹きかけて、ばくりと噛みつく。里沙は紙コップに入ったホットワインを啜りながら、ベーグルを咥えて何か考えているらしい月代を見ていた。唇のルージュが薄っすら剥がれて、クリームチーズを淡く色づけていた。
「美味しい?」
「……美味しいです」
「そりゃ良かった。また来ようよ」