呼吸書房

ノクターン

旅先へギターを連れてゆくのが好きだ。
 それも一人旅のときに。

海を見たい気分だった。
 仕事帰りに思い立ち、その場で宿を押さえた。海沿いにある小さなホテルだ。バルコニー付きのシングルルームが運良くひとつ空いていた。手早く旅支度を済ませ、車にギターを積んだ。日頃弾いているものよりも一回り小さなアコースティックギター。それと、数日分の着替えをおざなりに詰め込んだバックパック。車に乗せるべき荷物なんてこれだけあれば充分で、あとはもうどこにでも行ける。

間遠な外灯と信号機、時折すれ違う対向車のヘッドランプに見送られながら、夜道を二時間ほど走った。日中ならば素晴らしい景色が望めたのだろうが、いま幹線道路の片側に横たわるのは、どこまでも続く真っ黒な闇だ。海の暗さが夜空を明るく際立たせた。仄かに落ちる月光で水平線の位置がわかる。明日の夜明けが楽しみになる。

ギターケースを携えてチェックインする客に対し、スタッフの反応はさまざまだ。
 カジュアルな安宿であればことさらに、遠慮のない好奇心を向けられることが多い。

「あなた、ミュージシャンなの?」
 いいえ。
「ライブツアーの途中?」
 まさか。
「それ、ミニギター?」
 これは同好の士だとわかる。
「真夜中には弾かないでくださいね」
 もちろん。
「ラウンジで弾いても良いよ、みんな喜ぶから」
 どうかな。

今回の宿ではどの反応でもなかった。フロントに居たのは壮年の男性で、たしかにギターケースへ視線を走らせておきながら、表情を波立たせることはなく、丁寧な所作でルームキーを差し出してきた。
「良い夜を」
 質問攻めにされるよりは、礼儀正しさで包まれた無関心の方がずっとありがたい。

客室は3階だった。ぱちんとスイッチを点ければ、天井でファンが回りはじめる。室内に渦巻く微風が生じ、カーテンがひそかに揺れた。蛍光灯の照明は眩しすぎて邪魔だ。枕元の間接照明だけに光を絞り、荷解きもそこそこに窓を開け放った。
 裸足でバルコニーへ出た。海沿いに立つホテルというだけあって、風にはかすかな潮騒が感じられた。眼下には月光と水平線が見えた。バルコニーの手すりにもたれながら、しばらく夜に見入った。ふと思いついてひさしぶりに煙草を引っ張り出し、火を点けた。一呼吸ごとに、静寂と暗闇に身体が馴染み、星を見分けられるようになる。

静寂といっても沈黙じゃない。潮騒に加えて、ホテルを囲む庭の草むらではコオロギが甘く鳴きかわしていたし、低く濁った蛙の応答も森の方から響いてくる。そして、他の客室にいる見知らぬ誰かのお喋りも。意味を聞き取れるほど鮮明ではないが、気配を感じるには充分な声。すこし身を乗りだしてみると、1階客室のテラスのひとつで、誰かがテーブルを囲んでいた。笑い声が幾度か湧きあがる。楽しそうだな、と思う。
 こういうとき、疎外感や寂しさを覚える人間もいるのだろうが、自分はそうではなかった。むしろ、旅先ですれ違い、今後もけっして出会うことはないだろう誰かの談笑を、こうして遠くから眺める時間が、時折どうしても必要だった。眠れない夜に縋るような気持ちで再生するささやかな音量のBGMみたいに。

煙草の一本を吸い終えたところで、ギターケースを開けた。緩めていたペグを回し、音を合わせてゆく。小柄なギターだが弦長がそこそこあるので、チューニングは普段と変わらない。E、A、D——3弦の調子が悪いらしく、どうやっても震えるG——B、E。開放弦を繰り返し爪弾く。振動が収束するのを待つ。半音階ずつ弦を押さえながら、運指の感覚を確かめる。普段のギターよりもフレット間隔が狭いので何度か指がもつれたが、そのうちに気にならなくなった。安価な合板のボディから響く音は値段相応といったところで、深みも安定感もなく、もどかしい。遠くまで飛び立とうとして叶わず、足元にぱらぱらと散らばるような音だ。チープで、そしてとても懐かしいそれは、学生の頃に初めて買ったギターをいつも思い起こさせた。

全弦を指の腹でそっと撫でる。
 誰かに聴かせるために弾くわけじゃない。
 バルコニーの椅子に腰掛けると、客室から溢れる光にフレットが鈍く光った。手元は迷わない。人生において数えきれないほど弾いてきた曲を、もう一度奏ではじめる。繰り返し。何度でも。主題を変奏し、時に即興を加えながら、ささやくような指弾きで、ゆるやかに次の曲へ繋ぐ。曲の途中を気まぐれに飛ばし、旋律を間違えては引き返し、お気に入りの庭園を端から端まで歩き回るみたいに、執拗に。もとより、聴いているのは自分だけだ。大量生産された簡素なギターは長い演奏に耐えられず、ビブラートを掛けるごとに調律がずれてゆく。崩れた和音は不穏な響きを伴う。あまりに酷く音が外れれば、笑いながら手を止めてチューニングを繰り返した。そしてもう一度弾きはじめる。

誰に聴かせるわけでもない、ただ自分を慈しむだけの音楽。それは散歩にも似ていた。これといった目的もなく、ただ身体を動かして、景色を楽しむための時間。それは孤独な楽しみかもしれない。だが、たとえ誰かに宛てた音楽でなくても、誰かがかならず聴いていることもまた確かなのだ。人間か、あるいは人間ではなくても。
 その音は耳を通り抜けて、意識にも昇らないかもしれない。すれ違うだけで、気に留められることもないのかもしれない。
 それでも、どんな演奏も、かならず誰かの世界を震わせている。

ふいに地上から短い拍手が聞こえた。
 夜の静寂を破る音に、思わず手を止めてしまう。楽しげな歓声が遠く響く。バルコニーの柵の間からそっと階下を覗き見てみれば、どうやら盛りあがった談笑の最中に、誰かが景気良く手を叩いたらしかった。なんとなく微笑んでから演奏に戻った。

夜が更けてゆく。やがて眠気が打ち寄せてきた。ギターを抱きかかえ、木質の硬い側面に凭れながら、家に帰ったら弦を張り替えなくては、とぼんやり思う。海から吹いてくる湿った夜風には潮の匂いが含まれていて、スチール弦を錆つかせるには絶好の環境だった。家で留守番しているマホガニー単板のギターはとてもここには連れて来られないな。
 
 鼻歌のリズムを取るように、ボディの表板を指先で叩く。
 反響したノック音が、サウンドホールから応答する。

夜が明けたら砂浜に出かけよう。素足で波打ち際を踏み、椰子の木陰でギターを弾こう。朝の海辺ならば、ストロークで思いきり弦を掻き鳴らしても、きっと誰も気に留めないだろうから。


 旅行中にお願いした水やりの謝礼として笑、山川夜高さんから頂いたリクエスト「何らかの弦楽器を弾いてる小説」でした。リュート・マンドリン・ギター・ウクレレなんでも……とのことでしたので、アコースティックギター、それもミニギターをチョイスしています。当初は「うちの登場人物にギター奏者いないよなぁ……」と思っていたのですが、いましたね、一人だけ。『樹木のバカンス』をお手元にお持ちの方は、テラス席での談笑シーンを読み返してみてください。

執筆にあたって、山川さんのワードパレット7番「煙草・慈しむ・BGM」をお借りしています:)