幽霊を贈る
桜鬼さん主催の文芸冊子『石蕗花』2022年夏号に寄稿した短編小説です。
発表から半年経過したため、本サイト上でも公開いたします。
昨日伐採した梅の木が、変わらず庭に立っている。
丹羽《にわ》は己の目を疑い、門扉に手を掛けたまま、夕星の灯る薄闇に滲み出る梅の枝振りを数えた。それは見紛うはずもない、丹羽が生まれる前からここにいた樹齢四十三年のあの梅と、そっくり同じ形だった。
ここ数年は徐々に実をつける数が減り、花も今年で最後だろうかと考えていた矢先、梅は静かに死んだのだった。あまりに密かな死だったので、丹羽は年が明けるまで梅の枯死に気づかなかった。例年なら白い花弁と芳香が庭を彩る頃になってようやく、今年の梅は開花が遅いのではなく、膨らむ花芽がひとつもないのだと分かり、長い付き合いの植木屋を呼んだが、もうできることは何もなかった。
「根が傷んじまってる。根が生きてりゃ、まだ何とかなったんだが。去年の秋の長雨かねえ」
植木屋は、掘り返した梅の根にそっと土を被せながら、「伐るしかないよ、丹羽さん」と言った。
丹羽はすぐに返事ができなかった。少なくとも、春までは待ちたいと思った。もしかしたら、花は駄目でも、葉だけは芽吹くかもしれない。桃が咲き、散り、桜が咲き、散って、木々の新芽がいっせいに開きはじめても、まだ思い切れなかった。五月、ひとつの葉も纏わないまま、庭の新緑に立ち尽くす枯木を見て、ようやく諦めがついたのだ。チェーンソーの唸りとともに、根本から切り倒されるところを、たしかに傍で見届けた。
それが、何事もなかったかのように、立っている。夢かもしれない。疲れているのかも。丹羽はそろそろと梅の脇を通り過ぎ、家に入り、念のため八時間眠ったが、翌朝も梅はそこにあった。陽の下で見ると、その身は仄かに透けていた。幽霊、と丹羽は思った。そうとしか思えない。しかし、人間の幽霊でさえ一度も見たことがないのに、どうして急に樹木の幽霊が見えるようになってしまったのか、まるで検討がつかなかった。初夏の朝日にきらきらと透けて佇む梅の木は、陽炎のように美しく、そして物悲しかった。幽霊と化してなお、梅は裸木のままだった。気づけば丹羽は梅に手を伸ばしていた。すり抜けると思った指先は、樹皮の表層で止まった。馴染みのある硬い樹皮の手触りに、丹羽は呆然となって、二度、三度と梅を撫でた。
「触れる」
そんな不思議があるものだろうか。
数日のうちに、丹羽はこの不思議をじっくり検分した。家族の誰にも梅の幽霊は見えていない。丹羽と同じように花を愛でた母も、手製の梅酒を愛飲した弟も、ただ単に梅との思い出を惜しみ、視線は根本——本来あるはずの切り株のあたり——を見つめるばかりだった。弟は切り株に腰掛けさえした。丹羽の視界では、弟が呑気に笑いながら梅の幹に半ば取り込まれているように見え、平静を装うのに苦労した。
木登りの試みはすぐに失敗した。触れると言っても、体重までは掛けられないらしい。足があっさりと幹を突き抜け、腐葉土か落葉の山を踏み抜くような感触に、丹羽は間抜けな悲鳴をあげながら真夜中の庭で顔面から転んだ。梅の幽霊には傷ひとつつかなかった。あげくのはてには、梅の前で念仏を唱えたり、お神酒を供えてみたり、塩を撒いたりもしてみたが、家族に「疲れているのでは」と心配されただけで終わった。梅の幽霊は何も言わず、何も変わらず、何も訴えず、蕾のひとつも付けないままで、庭にあり続けた。丹羽はやがて梅に慣れた。
「わたしの頭がおかしいんだって思うことにしたよ」
「まあ、そう考えるのがいちばん気楽だね。病院行った?」
「いいや? 別に困ってないし」
開き直りも甚だしい丹羽の返答を受けて、佐久は病床の身とは思えないほど楽しげに、手を叩いて笑った。梅の話を誰かに打ち明けるのは初めてだったが、佐久ならば笑ってくれると丹羽は知っていた。古い友人だ。もう何年も入退院を繰り返し、病院に飽き飽きしている。退屈を遠ざける土産話を、佐久はいつも望んでいた。
「見舞いの席で幽霊の話だなんて、あんた、わたしじゃなかったら許されないよ」
「言わないよ、こんな話。家族にも言ってない」
「それで? まさか、土産がこれだけってことはないでしょ」
「もちろん」
丹羽はサイドテーブルを引き寄せ、見舞いの道すがらに買ったばかりの包みを置いた。佐久が包装を解いてゆく。現れたガラスの花瓶に、佐久は問うような目で丹羽を見た。丹羽の手荷物には一輪の切花もない。病室にはすでに立派な花瓶があり、ひまわり、白百合、ダリア、デンファレ、リシアンサス、先客たちが持参した夏の花々でいっぱいだった。
丹羽は無言で、握っていたものを花瓶に入れた。カラン、という涼しげな音が、丹羽の耳にだけ聞こえた。丹羽は笑った。
「鋏は通らなかったけど、手折ることはできたんだよね」
その一言で、佐久は手土産の正体を悟った。目を瞠り、けれど声は潜めて、佐久は囁いた。
「ここにいるの? 梅の幽霊が」
「そう。持ってきちゃった」
「信じらんない、あんたヤバいよ」
口調と裏腹に、佐久はじわじわと口の端を上げ、花瓶を掲げ持った。窓から差す日差しを頼りに、さまざまな角度から透かし見る。
「何にも見えない」
「佐久にも見えないかあ」
「詳しく教えて、わたしにも分かるように」
梅の一枝がどのような姿かを、丹羽は語った。
指の力で手折れるほどの細い枝。枯れる前年に生えたばかりの、まだ若く、樹皮に仄かな青みを残す枝。節々に小さな冬芽をつけたまま、時を止めてしまった一枝は、途中で二又に分かれ、捻れながら先端近くで絡み合っている。丹羽は佐久の手を取り、何も見えていないだろう空中をなぞらせて、ここが節、ここに花芽がひとつ、ふたつ、と数えあげた。
「けっこう芽が付いてるんだ」
「この芽はかなり膨らんでるから、あと一月もあれば咲いてたかもしれない」
「土に植えてあげた方が良くない?」
病室の窓辺に、傍目には土しか入っていない植木鉢が置かれていたら、率直に言って不気味だ。丹羽は「このままで」と苦笑した。
佐久は壁伝いに立ち上がり、コップに水を汲んでくると、花瓶に注ぎ入れた。
「今ってちょうどお盆の時期だからさ、迎え火してる人たちが窓から見えるんだよね。わたし、幽霊って人間しかなれないもんだと思ってた。あと犬猫とか、カラスとか、身近な動物ぐらい? 樹木って未練とかなさそうだし、樹木が幽霊になれるなら、海なんて魚の幽霊でいっぱいでしょ、サバンナでは縞馬の幽霊が走り回って、……幽霊って名前じゃないのかもな、そのひとたちは」
ベッドの枕に背を預け、沈むようにすこしずつ横たわりながら、佐久は額に手を添えた。倦怠と頭痛に見舞われはじめたときの癖だ。丹羽はそっと手荷物をまとめた。
「また来るよ」
「ありがとう。いつでも来て。たぶん、この夏もどこへも行けないから。ねえ丹羽、この梅、この幽霊、わたしへの土産ってことで良いんだよね? 今更、やっぱり持って帰るなんて言わないでよ」
「言わないよ……でも、佐久、言ったでしょ、やっぱり、わたしの頭がおかしいんだって。幽霊なんてこの世にはいない。だから、わたしが持ってきたのは、ガラスの花瓶と、幽霊譚の土産話だけ」
「わかったわかった、良いよそういうことで」
佐久はひらひらと手を振って、丹羽を外へ追いやった。
病室に静寂が戻る。残された空っぽの花瓶が、身の内の水面に日差しを反射させていた。佐久が花瓶を揺らすと、水面には柔く波紋が生じた。互いに反響しながら収束してゆく。その調和のどこにも、ここにあるという一枝の気配は感じられなかった。
「あんたも時間が止まってるのか」
どこにも行けない日々は、まるで、同じ一年を延々と繰り返しているように感じられる。奇妙な親近感を覚えながら、佐久は枕に頬をつけ、空にしか見えない花瓶の中に、佇む梅の枝を空想した。冬芽のままで時を止めた幽霊。どうせなら満開の姿で幽霊になれば良いのにと思うのは、人間的な感覚に過ぎるだろうか。
丹羽は、梅に慣れはしたが、不思議を感じなくなった訳ではなかった。毎日、帰宅する度に、梅の幽霊を見上げては「居るなあ」と思う。それは真昼に浮かぶ半月の白さ、あるいは黄昏の明星に、何度でも目を奪われる心の動きとすこし似ていた。どうして梅が見えるのか、と考えることは止めた。どのみち答えが得られないなら、どうして梅はここに居るのか、とさまざまに思いを巡らせる方が楽しかった。何かを待っているのか。死んだことに気づいていないのか。何か自分に言いたいことがあるのか。最後の線はどうも無さそうに思う。
秋には佐久が都会の病院へ転院した。テキストメッセージでのやりとりが主になっても、佐久は梅の近況を知りたがり、何通かに一度は『庭の幽霊は元気ですか?』という定型文が記された。真面目にふざけているような、にやりと細められた瞳が文字の向こうに見えるようだ。丹羽も大真面目に返事を打った。毎回、庭の一角を撮影した写真を添えて。
『柿が絶好調です』
『鈴生りじゃん ウケる ていうか梅の隣に柿植えてたの?』
『写ってないから分かりにくいだけで実際はだいぶ離れてる』
『心霊写真って撮れないもんなんだな〜』
肉眼でははっきりと見える梅の幽霊が、カメラのレンズを通したとたんに見えなくなる、と分かったのもこの頃だった。梅の切り株しか写っていない写真を、丹羽はしみじみと眺め、自分以外の人間の正常な視界に思いを馳せた。
『雪です』
『うわ真っ白 こっちは全然だよ 幽霊にも積もった?』
『雪はすり抜けてるっぽい 不思議なことに』
冬の庭に佇む幽霊は、まったく普通の木のようだった。ただ葉を落とし、休眠しているだけの、いくつもの冬芽に命を行き渡らせ、春を待っている庭の木々たちと、何も変わらないように見えた。丹羽は手袋を外し、幽霊の樹皮に触れてみたが、他の木と同じ冬の温度しか感じられなかった。
佐久からのメッセージにも、ときどき写真が添付された。例のガラスの花瓶だった。空っぽなときもあれば、切花が数本入っていることもあった。「幽霊専用じゃなくても良いかと思って」と、久しぶりの電話で佐久はこともなげに言った。
「水替えのときに落としてなきゃ良いんだけど。わたしじゃ見えないし拾えないからさあ」
「大丈夫、案外、花瓶の中で根を張ってるかもよ」
「怖! それ大丈夫なやつ? でも落としてないなら良いや。わざわざ転院先にも大事に持ってきたんだから」
幽霊を信じている人が聞いたら卒倒するかもしれない話だ、と丹羽はときどき思った。不敬とかで。
二人は、梅を幽霊と呼んではいたが、それは他に名指すべき言葉が見つからなかったからだ。いつか佐久が言ったように、きっと本当は別の名前がふさわしいのだろう。でも、それはおそらく、人間の外にある言葉だった。
幽霊が現れてから三年目の六月、真夜中に、佐久はふと眠りから引き戻された。薬の切れ間の中途覚醒かと思ったが、何かがおかしい。ちょうど昼にベッドが空いたばかりで、いまは佐久の他に誰もいない病室の、湿り気を帯びた初夏の夜気に、高貴な芳香が満ちている。それは澄みわたる冬空にも似た、梅の香りだった。
佐久はベッドから身を起こし、カーテンを引いた。街灯の光とともに、十六夜の明るい月光が病室を照らした。窓辺に置かれた花瓶、そのガラスの内側にびっしりと根を張り巡らせた梅の一枝が、すべての花芽を綻ばせ、淡く灯る白の花弁を今しも開いてゆくところだった。見ている間にもいくつもの芽が膨らみ、蕾として色づき、ほどけていく。気づいたときには、佐久はゆっくりと窓を開けていた。何故かそうすべきだと思った。夜風が入りこみ、幽霊の花々を撫で、花弁が震え、宙に舞い、溶けるように消えていった。長く止まっていた時を、一晩で取り戻すように。
しばらく梅の開花に見入った後で、佐久は唐突に丹羽のことを思い出した。この一枝を有していたという、庭に佇む幽霊のことも。真夜中だが構うものか。丹羽の番号を呼び出そうとした矢先、着信が割って入った。液晶に浮かぶ名前を見る。笑いがこぼれた。
「もしもし。丹羽? うん、起きてた。というか起きた。——そっちも? そう。同じ。わたしにも見えてる。なんでだろうね、急に、わかんないけど。満開だよ。すごい良い匂いする。枝の一本でこうなんだから、丹羽の方は……ああ……良いな。一緒に見たかった。……一緒に見てるようなものだって? 確かに、元は同じだろうけど」
梅はますます咲き誇り、月下で仄かに透きとおり、かつての姿と同じように、全身で鳥の訪れを待っていた。いまは真夜中だ。一羽のメジロもヒヨドリも蜜を飲みに来ることはない。幽霊の花々は実を結ばない。花開く先から花弁は散り続ける。佐久はそっと花のひとつに触れた。ひとひらの花弁がたしかに指先に乗った。
枕に頭を乗せながらも、佐久は梅から目を離さなかった。ひとたび目を離したら、次の瞬間にはもう、忽然と消えているような気がした。
「ねえ丹羽、……なに、泣いてるの? まあ、わかるよ、言いたいことは。わたしたちきっと、とても良いものを見たんだと思う。死ぬまで一生忘れられない、時間すべてを塗り替えるようなものを」
眠りたくなかったのに、佐久はいつしか瞼を閉じていた。梅の匂いに抱かれながら、美しい夢を見たように思う。朝日が差して気がついたときには、もうガラスの花瓶は空っぽだった。残り香さえも掻き消えて、幽霊の影も形もない。現実の証として手元に残ったのは、昨夜の長い通話履歴と、佐久が寝入った後に送られた、丹羽からの短いテキストメッセージだった。
それから二度と、丹羽は幽霊を見ることはなかった。切り株の他に何もない庭の一角を眺めると、寂しさとともに必ずあの芳香が思い出された。それは言葉にしなくてもけっして失われない記憶だった。退院した佐久が庭へ遊びに来たときも、二人は幽霊の思い出話で笑いあっただけで、あの一夜の記憶はそっとしておいた。二人は生涯、この梅にまつわる不思議な出来事を、互い以外の誰にも話さなかった。
ある晴れた朝、丹羽はようやく切り株を掘り起こし、新しい梅の苗木を植えた。
やがて春が来る。