呼吸書房

再生

物語は、とうとう最後の一曲に差し掛かった。西日の梯子が降りそそぐ小さな教会の壇上で、ひとりのリュート弾きが、ささやかなアリアを奏でようとしている。その一曲を奏で終えたら、物語には幕が降りる。彼もまた、物語とともに、読者の前から退場する。もし、この物語が書籍として綴られていたなら、残りページはほんの僅か。左手に感じる重みは薄れ、右手にばかり過去が重なり、窓から吹きこむ風のちょっとした悪戯で最後のページの最後の一行が露わになってしまう、そんな地点で、作家は続きが書けなくなってしまった。
 物理的な不可能ではない。作家は五体満足で健康そのもの、右手にはペンを握れるし、パソコンのキーボードだって問題なく打てる。ただ、物語の続きだけが綴れない。真っ白なワードエディタの前でかれこれ半年ほど途方に暮れ、無理に引き摺り出した言葉で余白を埋めてみても、人の肌に若木を接木したかのような不自然さで、まったく噛みあわない。無理なものは無理、そのまま未完の物語として放り投げれば良いものを、作家は物語と主人公たるリュート弾きを心から愛しており、彼を忘却に葬り去ることなどどうしてもできなかった。作家は苦闘した。それまでの展開を練り直し、構成を変え、多くの枝葉を没にして、物語を終わりへと辿り着かせようとした。だが、どのように書き直しても、リュート弾きが最後に奏でる一曲で、物語は止まってしまう。物語が終わりを拒んでいるのか、作家自身が終わりを拒んでいるのか。作家はしくしく泣き、最後の足掻きとして、描写を延々と連ねはじめた。教会に佇むリュート弾きの姿を。緻密な描写は物語を遅延させ、ときには時間さえ止めてみせる。物語が進みさえしなければ、作家はかろうじて言葉を綴ることができた。それはこんな具合に——
 弦を抑える指先にまばゆく光が照り映える。ステンドグラスを通過した黄金色の西日は、かすかに俯く青年の喉元に影を落とし、丸みを帯びたリュートの背には甘やかな光沢を落とした。リュート、アラビア語の「樹木」に由来する美しい楽器、その背は艶やかな樫の実に似て、胸元にはロゼッタ、薔薇の名を冠したサウンドホールが幾何学的な透かし彫りで刻まれる。空洞から響く音色のやさしいこと。青年は壇上に腰掛け、膝上にリュートを乗せて、抱き寄せるように身を屈めた。ほつれた髪が一房、肩から流れ落ち、伏せられた長い睫毛の向こうでブルーグレーの淡い瞳が彼方を見つめ、鼓膜と指先の感覚を際立たせるため、認識の背後に退いてゆく。調弦。雨を織りあげたようなガットの複弦を爪弾き、ペグを回す。青年の他に、教会に人の気配はない。皆どこへ行ってしまったのだろう。ロココ調の金装飾を刻まれた祭壇は黙して語らない。美しい教会に比して、青年の身なりはあまりに質素だった。長旅に汚れ、服装は喪に服すかのような黒づくめ、綿のシャツは毛羽立ち、ブーツの爪先もほつれかけている。ただリュートだけが、黄金に劣らぬほどに輝いていた。磨き抜かれたリュートは、青年の腕に安らぎ、くすぐられるのを待っている。弦に添えられた右手の甲にすっと骨の陰影が立ち、……
 こんな具合で、およそ五万字。あるいは五年。小説は、一秒に満たない一瞬を、五分にもそれ以上にも引き伸ばせるが、そのとき、音楽は生きていられない。再生速度を四分の一に落とされた旋律から歌声を聞き取るのは不可能だ。作家にもそれは分かっているはずなのに、往生際悪く、クライマックス前の転調パートだけを延々と繰りかえす壊れたプレイヤーのように、再生、一時停止、巻き戻し、スロー再生、また巻き戻し、リピート、またリピートを重ね、先に進まない言葉を綴った。はたしてどれくらい書き続けたのだろう、引き伸ばされた無音の中、音楽を奏でようとする姿勢のままで待ち続けたリュート弾きが、やがて言葉の外で溜息をついた。
「もう良いんだよ」
 作家には聞こえない。ピグマリオンの幸運は、神の祝福がなければ訪れない。それでもリュート弾きは顔を上げ、目尻に呆れを滲ませて、そっと笑った。
「僕らは終わったりしない」
 ぱちん、弦が切れるような音は、もちろん幻聴だ。作家は我に返り、眼前の真っ白なワードエディタを見つめた。延々と書き続けたはずの、数万字以上に及ぶ呪文は、あとかたもなく消えていた。作家はしばらく呆然とした後、おそるおそる、物語の続きを書きはじめた。言葉はもう、物語を引き伸ばさなかった。茜差す祭壇の前で、リュート弾きはようやく弦を爪弾いた。旋律が生まれ、流れてゆく。物語の終わりを飾る、最後の一曲が。
 さあ、聴いて。