海を商う
遠い未来、水は密猟の対象になった。
宇宙に散らばる地球移民の子孫たちが、こぞって母星の水を欲したためだった。数光年の距離を越えて運ばれる地球の水は、たとえつまらない雨水でも、水たまりから掬ったような泥水でも、黄金以上の高値がついた。人工的に生成した水分では駄目なのだ、と彼らは口を揃えて言う。あの青い星、あの小さな青い星を満たしていた水でなければ駄目なのだと。それだけが本当の水なのだと。
別に珍しい話ではない。古来より、水はひとにとって信仰の対象だったのだから。
死ぬまでにたった一度で良いから地球の水が飲みたいと言って、彼らは泣いて水を求めた。求められたので商売が生まれた。一トンの海水と引き替えに、移民星の希少鉱物を大量に輸入する貿易形態によって、地球人は目も眩むような黄金時代を迎えた。地球がまるごと黄金に変わったようなものだ。地球上の貧困はついに消滅し、希少鉱物の恩恵の元、重工業と科学医療とエネルギー産業は未曾有の発展を遂げた。
もちろん、僅かながら警鐘の声はあった。古き二十一世紀の中世を例に挙げ、石油と同じように水を採り尽くしてしまったらどうするのかと非難する声を、ひとびとは笑った。石油に対して水の総量は比べものにならない。専門家の試算によれば、現在のペースで水の輸出を続けたとして、地球の生態系に多少なりとも影響が及ぶのは二千年先だということだった。
そして二千年が経った。
今では、この小さな星は、日々宇宙へと漏れてゆく水を押しとどめるために必死だ。海面は下がりつづけている。かつて海中に没したいくつもの島々がふたたび姿を現したが、それはもはや悲痛なニュースでしかなかった。水の星間輸出は禁じられ、密輸人には厳罰が定められた。地域によっては死刑さえ処された。
それでも、宇宙に水を売り渡す者は後を絶たなかった。
そして今日も。
「海水の持ち出しは禁止だ」
波打ち際に佇む小さな背中に銃を向けながら、監視人は淡々と告げた。もう何百回と繰りかえした台詞だった。
振りかえったその子供は、赤ぎれた両手にささやかなガラス瓶を抱えていた。日差しを反射して輝く瓶の中で、海水が揺れる。この星においては大気と同じく一銭の価値も持たないのに、宇宙へ出したとたん、黄金以上の価値を帯びる宝石。
ああ、見つけたくなかった。こんな子供。
密輸の現行犯は即座に引き渡さなければならない。監視人はすばやく視線を巡らせ、周囲にパトロールがいないことを確かめると、囁いた。
「すぐ海に戻せ。今すぐ。一度なら見逃してやる」
子供は動かない。その細い指が白むほどの力でガラス瓶を抱きしめたまま、瞬きもしない。潮騒に掻き消されて声が聞こえなかったのだろうか。監視人はもう一度言った。
「良い子だから」
子供はゆっくりと後ずさりを始めた。寄せては返す白波が子供の素足を飲みこんでゆく。潮騒の音、彼の背後に茫洋と広がる真っ青な海はどこまでも果てしなく、数十億年の昔とまったく同じように蠢いていた。彼方に暮らす人々が血を吐くほどに懐かしむもの、郷愁の欠片を胸に固く抱きしめたまま、子供は声高く叫んだ。
「ぼく学校へ行きたいんだよ」
そして、監視人が波打ち際へ踏みこむよりも早く、さっと身を翻すと、波間に飛びこんで、消えた。