呼吸書房

作家と刑罰

とある高名な作家が死んだ。
 地獄へ落とされた後、彼に科された刑罰は、火の味を描写せよというものだった。
「火の味ですって?」
「然り」
 地獄の官吏は作家の眼前に立ち、厳粛な面もちで頷いた。作家は呆れ混じりの微笑を浮かべた。椅子に拘束されていなければ、この生真面目な官吏の肩を叩き、もっとましな冗談を言うようにと諭すこともできるのだが。
「存在しないものは書けませんよ」
「心にもないことを」
「……本心のつもりなんですがね」
 作家は椅子の背に凭れかかり、文机の上に用意された己が罰を眺めた。
 一枚の白紙。一本の鉛筆。一本の匙。一枚の、燃える皿。
 想像上の火ではなく、直に火を食した上で書けと、どうやらそういうことらしい。なるほどここは死後の世界だ、火を食道に流しこんだところで、火傷と窒息に命を奪われることはない。失神くらいはするかもしれないが。
 試しに、鉛筆を白紙に滑らせてみると、その黒い線は書かれる傍から溶けて消えてしまうのだった。
「描写の言葉でなければ存在できないようになっている」
「ご説明どうも」
 作家は生前と同じように、手の中で鉛筆を弄んだ。
「官吏よ。罰する者を違えてはおりませんか」
「何故?」
「我々の業は人間を書くことです。現身の人間を書くか、異なる存在に投影された人間を書くかという差異はありますが。このような、自然の本質を盗むのは詩人の仕事でしょう」
「人間を書いたために罰されるのではない」
「おや。では何の咎で」
 官吏は黙ってその四本の腕を組み、仁王立ちとなって作家を見下ろした。答えるつもりはないらしい。
 なるほど。始めるしかないようだ。
 作家は生前の味覚に別れを告げるように、長く嘆息した。そして左手に匙を、右手に鉛筆を持ち、燃える皿から火を一匙すくいあげ口に含んだ。
 たちまち舌と口腔が焼け爛れた。
 かつてプロメテウスはひとに火を与えた咎で、無数の大鷲に肝臓を啄まれた。彼はその神性ゆえに喰われる端から再生し、再生する端から喰われるという苦痛に三万年苛まれたが、失う命を失った肉体もまた同じ。たとえどのような傷を受けようと、罪が償われるそのときまで、肉体は何度でも蘇る。
 作家は文机に突っ伏し、激痛の大波が鎮まるのを待った。仮に、燃え上がる火に味が存在していたとしても、これでは何も感じられるはずがない。きつく握りこまれた鉛筆が右手の中で軋み、ひび割れた。
 官吏はその苦悶を一瞥し、ただ命じた。
「書け」
 せめて水を、と作家は言いたかった。しかし焼けた舌では何も話すことができなかった。震える右手を動かし、紙の上に言葉を綴ると、それは書く傍から灰のように消えていった。

“激痛”

“苦痛”

“痛い”

“辛い”

“血管に塩を流すような”

“辛さと甘さの判別がつかない”

「無理です」
 ようやく蘇った舌で、作家は息も絶え絶えに訴えた。官吏は取り合わなかった。
「書かなければ乾きが、火を喰らわねば飢えが、その苦痛に代わるだけだ」
「刑期は」
「地獄において刑期は意味を為さない」
 それを聞くや、作家は顔を歪めて鈍く笑った。それもそうだ。死後の世界において、いったい時間に何の意味があるだろう?
 そして固く目を閉じ、ふたたび火を口に含んだ。口腔で沸騰する唾と吐息にえずきながら、無理やりにその熱を飲みこむと、まず肺と食道が、続けて胃が、燃えあがった。作家は悲鳴を上げる代わりにひたすら右手を動かしつづけた。綴られる端から消えてゆく言葉たちは、その一筆ごとに、火事に落ちる一滴の雨のように、作家の苦痛を癒した。

“焦げる臭いに混じって舌を刺す、”

“刃物のように強い酒、飲み下す端から身の内が作り変えられてゆくような”

“吹きこぼれる南天を一息で喉に流しこみその一粒一粒が笑い声として弾ける”

“怒りと歓喜をいっぺんに呼び覚ます強烈な酒にも似た香気、鼻孔と肺とを蹂躙され、犯され、脳が痺れたようになり、喉を落ちてゆく光の爆発、やがて胃に到達するその、感情の、破壊と執着、そして歓びが、体の中に燃える、震わせる、吐息に火の匂いが混じる、四肢の隅まで血が湧き立つ”

“竜の肉”

ふいに、何者かに腕を掴まれたような唐突さで、作家は書くことを止め、そのままぴくりとも動かなくなった。そして、長い硬直の後、沼のように真っ暗な両眼で傍らの官吏を見上げ、低く唸った。
「もっと紙を寄越せ。擦り減らないペンを。枯れないインク壷を」
 官吏はほんの僅か片眉を上げただけで、すばやく両手を打ちあわせた。すると文机の上にはすべてが揃っていた。作家はぶつぶつと譫言を呟きながら、猛然とペンを動かしはじめた。
「——長い物語が要る。それと膨大な登場人物、彼らひとりひとりの歓びと憎悪が、彼らの世界をすべて費やして、ようやく届くかどうか。いや、届くまい、届くはずがない。しかしこれしかないのだ」
 もう言葉は消えてゆかなかった。蟻を整列させたような作家の筆跡に埋め尽くされた紙束は、見る間にも堆く積み上がり、作家の背丈を追い抜いた。作家はときどき思い出したかのように火を口に含み、歯を食いしばり、目をぎらぎらと光らせながら言葉という言葉を掻き集めていった。言葉を探るための呟きはしばしば歌に取って代わり、囁くように口ずさむ作家の口元からは細い黒煙が、煙草のように立ち上った。そして今、分厚い紙束の底には、長い長い物語が、無数の登場人物に託された無数の世界が構築されつつあった。
 ただ、火の味を描くためだけに。