呼吸書房

樹木のバカンス|試し読み


『walking postcard vol.6』掲載、『すべての樹木は光』30年後の後日談です。
物語は既に幕を下ろした後。登場人物はチジュ、ニイジェ、本編未登場の新キャラクターのみ。全体の三分の一にあたる冒頭10000字をこちらに公開します。
本編『すべての樹木は光』結末への言及があるため、ネタバレを回避したい方はご留意ください。ささやかな再会のひとときを楽しんでいただけますように。

ベンチに樹木が座っている。
 もちろんそんなはずはない。瞬きをして見つめれば、そこに見えるのは一人の青年だ。歩き疲れたように脱力し、膝に乗せたミネラルウォーターのボトルを手慰みに揺らしながら、正面の噴水を眺めている。ベンチはちょうど日向と木陰の狭間にあり、ボトルが角度を変える度、青年の指先に屈折光の淡い虹が散った。その手にチジュは見覚えがあった。三十年前、まだ子どもだった自分と一緒に遊んでくれたときのまま、皺一つない滑らかな手が、プラスチックの蓋を回し、口元まで水を運んだ。やはり彼は歳を取らないのだな、と感心する自分がやけに遠く感じられた。
 あまりに長く見つめすぎたのだろう、青年が怪訝そうに視線を返してきた。深緑の瞳。もう間違いない。それでも人違いかもしれないと、チジュは躊躇いがちに「ニイジェ?」と彼を呼んだ。とたん、これは面倒なことになったぞ、という感情を一切隠さずに青年は頬を歪めた。
「誰のことだか分かんないな」
 その表情もよく知っている。しらばっくれるときの顔だ。
「きみは変わらないね……久しぶり、ニイ。覚えてない? 僕らの家に居たときのこと」
 ニイジェは目を丸くして、チジュの顔をまじまじと見た。すぐに分からないのも当然だ。彼が知っている自分は十歳そこらの子どもであって、疲れた中年男性となった自分にはたいして面影も無いはずだった。
「驚いた。チジュかい?」
「覚えててくれて嬉しいよ」
「どうしてこんなところに」
 どうしてこんなところに、なんて、尋ねたいのはこちらの方だ。ニイジェは三十年前に忽然と姿を消し、それ以来ずっと音信不通だった。もう会えることはないだろうと思っていた。かつて彼が人の世界から立ち去った時には、戻ってくるまで六十七年掛かったのだ。それを思えば、三十年はずっと短い。
 ニイジェがベンチの片側に寄ったので、隣に座る。ひとまず自分から質問に答えようとして、チジュは言葉に詰まった。他人へのうまい説明を用意していなかった。話すにも長くなりそうで、掻い摘んだ現状をそのまま述べることにした。
「長年勤めた会社を辞めた。仕事に心底うんざりした。転職する気も起きなくて、やけくその四十代一人旅をしてる。主に遺跡巡り。そろそろ一ヶ月半」
 指折り数えあげると、ニイジェは口笛を吹いた。
「そりゃ良いや。そういや、この町も遺跡が有名だったね」
「そういうこと。ニイは?」
「伐採されそうになって逃げてきた」
「なるほど……なるほどじゃないな」
 打ちかけた相槌を引っ込める。よほど神妙な顔をしてしまったのか、目を合わせたとたんにニイジェは笑いだした。呆れと優しさの混じった、人間らしい、ありふれた若者の笑い声だった。
 彼は人間だ。そして同時に、彼は人間ではない。
 ニイジェは樹木でもある。


三十年前、ニイジェが現れたときのことを、チジュはよく覚えている。当時、家に居たのは祖父と母と、自分と、姉のアジュだけだった。父は出稼ぎで遠くの街へ出ていた。真夜中、悲鳴じみた母の大声に、ベッドから飛び起きた。母の元へ駆けつけたかったが、恐怖で動けなかった。強盗だったらどうしよう? 警察に電話するべきか? 電話があるのは母家だ、中庭を突っ切らないと辿りつけない。半泣きでアジュを起こそうとしたが、起きない。やがて母の声は聞こえなくなり、心配が恐怖に勝った。震えながら一人で母家に向かうと、明かりの点いた食堂に、母と祖父と、そしてニイジェがいた。祖父はニイジェの手に額を擦りつけ、泣いていた。かつて行方不明になった兄だと、祖父は言った。間違いない、何十年経とうと見間違うものか。覚えている。生きていた、生きていたんだ、帰ってきたんだ……。
 変身する人間の存在は、町の住民なら誰でも知っている。そういう人間は時折現れる。ニイジェもまたその一人だった。彼が熱帯雨林の只中で樹木に変身していた期間は、およそ六十七年。彼を兄と呼んで泣く祖父はとうに齢八十を越え、身体中が皺に覆われているのに、樹木から人に戻ったニイジェは若い姿のままだった。
 ニイジェは初めのうち、口もきけず、目も合わず、あらゆるものに無反応だった。人間の形をしているだけの樹木だった。母は不気味がって近づこうとしなかったが、祖父はずっとニイジェの傍にいて、話しかけつづけた。他愛のない雑談、昔話、天気の話、今日の食事について。そうして十日も経った頃、眠りから覚めるようにして、ニイジェは突然に言葉を取り戻した。喋りはじめたニイジェは、たちまち感情も表情も人間そのものになった。価値観と常識が数十年ほど古びてはいたが、それだけだ。アジュはすぐにニイジェを年上の遊び相手と見なした。チジュも加わり、何度となく一緒に遊んだ。ニイジェは、親切で、温厚で、すこし風変わりな、年上の友人だった。少なくとも三十年前のチジュにとっては。——ニイジェと同じ家で過ごしたのは、ほんの数ヶ月だけだ。現れたときと同じように、彼はある日、忽然といなくなってしまった。
「きみって視力悪かったんだっけ」
 問われた内容に頭が追いつくまで数秒かかった。向かいの席に座ったニイジェが自身の目元をとんとんと指で叩いてみせ、ようやく、ああ眼鏡か、とチジュは思い至った。たしかに子どもの頃の自分は眼鏡を掛けていなかった。
「大学に入った頃からだんだん悪くしてね。裸眼で過ごすのはすこしきついかな」
「老眼鏡かと思った」
「実年齢百歳越えが何を言ってるんだ」
 ベンチで長話もなんだから、と公園併設のカフェテラスに誘ったのはチジュの方だが、改めて奇妙な状況だ。三十年ぶりの再会といっても、歳を取ったのは自分だけで、ニイジェは何ひとつ変わっていないのだから、こちらが過去に戻ったかのような錯覚を覚える。かつての祖父も同じ混乱を味わったのだろうか。
 快い晴天にも関わらず、カフェの屋外席に人影はまばらだった。これなら少しくらい変わった話をしても、誰の耳にも留まらないだろう。
 運ばれてきた珈琲にそのまま口をつけると、ニイジェが小さな驚きの声をあげた。カップの水面越しに視線が合う。
「いや、砂糖も要らないのかと思って……そりゃそうだよな」
 ニイジェはグラスの氷をストローで掻き回し、かすかに微笑んだ。
「大きくなったんだねえ、チジュ」
「……そんな孫を見るみたいな目で」
「似たようなものじゃないか。きみはゲアの孫なんだし」
「血縁はないけどね、ニイお爺ちゃん」
「やめてくれよ」
 昔のような軽口を交わす内、奇妙な再会への困惑も徐々に収まってきた。チジュは「ところで」と咳払いをして、先ほどから気になって仕方なかったことを口にした。
「伐採されそうってどういうこと」
「言葉どおりの意味」
 ニイジェは肩越しに、この町の傍にある低山を指差した。
「ここ数年くらいは山麓沿いの森にいたんだけど、急に周囲が明るくなって土壌の味もおかしくなって、何事だろうと人間に戻ってみたら、ほんの十数歩先から森がなくなってたんだ。何もかも切り倒されて整地されてた」
 チジュは嘆息した。あまりにもありふれた話だった。この国に数多ある大規模農園がまたひとつ増えたのだろう。アブラヤシ、サトウキビ、カカオ、コーヒー、熱帯雨林を切り拓いて栽培される作物はいくらでもある。あるいは採掘場になったのかもしれない。どちらにせよ樹木は生きていけない。
「僕が見てる間にもどんどん伐採が進んでたし、あの森は直になくなるね。どうしようもないから、ひとまず町に降りてこれからどうするか考えようと……チジュ、向こう百年くらいは残りそうな熱帯雨林、どこか知らない?」
「ええ……」
 戸惑いつつ、チジュはスマートフォンを取り出した(また電話の形が変わってる、とニイジェが小声でぼやいた)。この国の地図を表示してみる。
「百年先のことなんてわからないけど、国立公園の自然保護区なら流石に残るんじゃないか」
「ここから近い?」
 経路検索を掛けると、そこそこ無情な距離が出た。
「バスに乗れば近隣までは……」
 チジュが最後まで言い終わる前に、ニイジェは深刻な声音で「知ってるだろ」と呻いた。
「僕は、とてつもなく、車が苦手だって」
 そういえばそうだった。三十年前も、ニイジェは車をとことん避けていた。一度だけ試しに乗ってみたらひどい車酔いになった、と聞いたような記憶がある。
 チジュは改めて検索結果の経路を眺めた。高速道路を避けた場合、車で片道およそ八時間の距離。思い浮かんだひとつの提案を、いくつかの方向から検討する。顎に手を添え、しばらく迷い、それでもチジュは言うことにした。
「……送っていこうか?」
「うん?」
「車で、国立公園まで。こまめに休憩しながら一日に少しずつ、何泊か掛けて。それも無理なら、ニイが樹木に変身してる間に一気に運んでも良い」
 ニイジェは呆気に取られた様子で、グラスを持ちあげたまま静止した。やがてじわじわと、その眉間に皺が刻まれる。どうしてそこまで、と訝しむのも当然だろう。チジュは控えめに、両手を軽く挙げて「ついでだよ」と言った。
「さっき言ったとおり、僕は旅行中だ。それも行き当たりばったりのね。行先も期間も決めてない。だから一週間くらい寄り道したって何てことない。ニイを送った後で観光もできるし」
「それにしたって酔狂じゃないか」
「なにか良いことがしたいんだよ」
 呟いてしまってから、チジュは片手で顔を覆った。もう遅い。自嘲めいて口の端が歪むのを、きっと見られてしまっただろう。目を合わせられないまま、ぼそぼそと内面を吐露する。
「ここ数年の仕事がさ、最悪だったんだ。別に激務だったわけじゃない、給料も悪くなかった、ただ会社の上層部がおかしくなって、詐欺みたいな商品を延々と作らされただけ。同僚は割りきれてたけど、僕は駄目だった、誰かを騙してる、毀損してる、何かしらに加担しつづける自分に耐えられなくて、何もかも嫌になって、辞めた」
「なるほどねえ」
「心底どうでもよさそうに言うな……」
「ごめんよ、働いたことなくて」
 ニイジェはくくくと笑って、「でも、その感情はわかる」と頬杖をついた。
「なんでもいいから何か良いことがしたい、自分がすこしはマシな存在に思えるようなことを」
 低く歌うように口ずさみ、ニイジェがこちらへ手を差し出してくる。
「どうやらお互いに利用できるみたいだし、それならお願いしようかな。言っておくけど、本当に少しずつしか進めないと思うぞ」
「変身してる間に一日で運ぶ案は却下?」
「怖いから嫌だ」
「了解」
 握手を交わした後、チジュはさっそく長期レンタカーの予約を済ませた。もともと明日にはチェックアウトの予定だったので、午前中に宿の前で待ち合わせればちょうど良いだろう。チジュが操作するスマートフォンの画面をニイジェは興味深げに眺めていたが、ふいに「あっ」と声をあげた。
「そうだ、連絡を頼みたい友達がいるんだけど」
「友達?」
 かなり大きな声で聞き返してしまった。ニイジェが片眉を上げた。
「いま何考えたか当てようか」
「ごめん、悪い、意外すぎて……てっきり、三十年ずっと樹木だったのかと思ってたから」
「このところは五年に一度くらい人間をやってるよ。僕にも色々あってね」
 カメラマンであるという『友達』の名前で検索を掛けると、シンプルなポートフォリオサイトがヒットした。朝霧に輝く熱帯雨林の写真、鮮やかな色彩の鳥の接写、巨木の樹皮をびっしりと覆う血管のようなガジュマルの気根。なんとなく、彼とニイジェが友人になった経緯を想像できる気がした。サイトに記されたメールアドレスへ、ニイジェに言われた内容——久しぶり、起きたよ、森がなくなりそうだから国立公園に送ってもらう、しばらくはこっちに居る、等々——を、チジュの連絡先も併記して送る。これで準備は整った。
 翌日、ニイジェは酔い止め薬の服用にも関わらず乗車してから十分で顔面蒼白になり、その日の走行時間は休憩込みで二時間もたなかった。当初の予定を諦めて早々に道路沿いの適当なホテルにチェックインする頃には、人間でいるのもやっとの様子で、口もきけずにベッドに倒れこんでしまった。心底気の毒だったがチジュにできることは何もなく、ニイジェの枕元に水を置いてから、旅程を練り直すことにした。予想よりも長い旅行になりそうだ。手のひらの中でスマートフォンが振動する。例の『友達』から返信が届いていた。


ニイジェが多少なりとも車に慣れるまで、数日かかった。こまめな休憩は必須だし、一日に進める距離も微々たるものだが、移動を終えた後に軽い雑談ができるようになっただけ大きな進歩だ。とはいえ疲労は大きいようで、しばしば明るいうちに「休憩してくる」と部屋を出ていってしまう。翌朝には髪に葉っぱをつけて戻ってくるから、宿の裏庭あたりで樹木になって休んでいるのだろう。
「人間の身体で眠るより、やっぱり樹木の方が楽なのか?」
 チェックインを終え、客室のソファで休むニイジェに興味本位で尋ねてみると、曖昧な声が返ってきた。
「どうだろうなあ。最後に一晩ずっと人間のまま過ごしたのが……いつだったっけ」
 チジュは二人分のお茶を淹れつつ、窓の向こうを見やった。天気予報どおり重たげな黒雲が広がり、木々の枝葉がざわついている。
「今夜は部屋にいたら。夜から強風と大雨らしい」
「そうする」
「……大丈夫?」
「目眩がやばい。でも初日よりは楽になった」
 ソファの肘置きに顔を伏せたまま、ニイジェがひらひらと片手を振った。『そっとしておいてほしい』の意を汲み、チジュは窓辺に移動して読みかけの本を開いた。ページを捲り、文字を辿るごとに、周囲の風音は遠ざかる。言葉に沈んでいく。やがて、ふとした一節に遠い記憶を呼び起こされ、チジュは手を止めた。
 ほんとうは、尋ねたいことがたくさんある。この三十年、どのように生きてきたのか。どうして急にいなくなってしまったのか。祖父——ニイジェの弟が死んだときにさえ、戻ってこなかったのはどうして。いなくなるその日まで、どんな思いを抱いて、あの家で暮らしていたのかを。
 三十年は長い。樹木になれるニイジェには短い時間かもしれないが、チジュにとって三十年前は遥か彼方だ。立ちすくんでしまうほどに。ニイジェ自身もまったく昔のことに触れないし、あまり進んで話したくはないのかもしれない。どちらにせよ、すべてはもう過去の話だ。無理に尋ねて困らせるのも気が引けた。唯でさえニイジェは慣れない移動で疲れきっているのだから。チジュはひととき目を閉じ、開いて、視界から滑り落ちていた文字をふたたび拾い集めていった。
 嵐は夜半には過ぎ去った。翌朝、チジュが眩しさに目を開けると、東向きの窓から朝日がいっぱいに差し込んでいた。今日の宿はカーテンが安物だったらしい。おまけに天井で回るシーリングファンが一定間隔の反射光を枕元に送ってよこしている。アラーム設定時刻の二時間前に目が覚めてしまうわけだ。チジュは手探りで眼鏡を掴み、隣のベッドを見やった。予想どおり、タオルケットに包まれた樹木が一本、ベッドに横たわっていた。
 彼の変身を間近に見るのも久しぶりだ。幸い、対処はおおよそ覚えていた。シャワー共用の宿じゃなくて良かった、と思いつつ、樹木を抱えあげる。シャワーブース内に樹木を立てかけ、水勢を全開にして放置すること五分、剥きだしになった根の先々まで充分に水が行き渡ったのを確かめてからシャワーを止める。これでそのうち起きてくるだろう。
 珈琲とトーストで朝食を摂りつつ、チジュはテーブルに地図を広げた。仕事を辞めた翌日に買ったもので、ここまでの道程が日付とともにマーカーで書き入れてある。働きはじめてから長らく訪れる機会もなかった国内各地の遺跡から遺跡へ、気の向くままに国土を横断していた線は、ニイジェと合流してから極端に速度を落とし、散歩のようにゆっくりと、着実に、国立公園へ近づいていた。距離としては今日にも辿りつけそうだが、到着は最短で明日になるだろう——今日は寄り道が決まっている。ニイジェの友人がこちらへやってくるのだ。
 シャワーブースから人が足を滑らせたような物音と、鈍い悲鳴が聞こえた。やや置いて、バスタオルを羽織ったニイジェがよろよろと部屋に戻ってきた。
「おはよう。すごい音したな」
「滑っただけだよ……水やりありがとう。やっぱり朝まで人間でいるのは無理だったか」
 ニイジェの前髪を伝って、地図の上に水滴が落ちてくる。チジュは地図が濡れないように庇いつつ、今日通るルートを指で示してみせた。
「海沿いの道だからだいぶ楽だと思う。ラトさんがこっちに着くのは夜らしいし、時間的にも余裕だな。のんびり走っても夕方には着く……ニイ、チョコレートだけじゃ朝食にならないだろ」
「変身直後の朝からなにか食べるのってきついんだよ」
「空腹で酔い止めを飲むのはやめた方がいい。やっぱり変身してる間に運ぼうか? 助手席に植木鉢とか置いてさ」
「遠慮しとく。移送される植木の気持ちがよくわかりそうだ」
 ニイジェはトーストにチョコレートクリームを塗り広げ、一口ずつゆっくりと齧った。チジュは二杯目の珈琲を淹れた。急ぐことないよ、と誰にともなく呟く。時間だけは充分にあるのだから。
 正午のすこし前に出発した。天気は晴れ、真っ白な積雲が風に流れ、気まぐれに太陽を遮ってゆく。ニイジェは相変わらず、車に乗る前から既に居心地が悪そうで、運転席まで緊張が伝わってきた。これでも初日より随分ましになった方だ。
「ゆっくり走るから。なるべく遠くを見てて」
 ぽつぽつと短い雑談を交わしながら市街地を走った。全開にした車窓から風が吹きこみ、せわしなくシャツの袖をはためかせる。チジュはカーラジオのスイッチを入れ、誰とも知れない楽しげな声で車内の沈黙を薄めた。この数日の経験上、あと三十分も走ったらいったん休憩を挟む方が良いだろう。
「ちょっと」
 などと考えていたら五分で苦情が入った。
「早くない? もう酔った?」
「いや、まだ大丈夫、たぶん。あのさ、なにか喋っててほしいんだけど。その方が気が紛れる」
「ラジオじゃ駄目だった?」
「ろくに知らない人たちのお喋りを楽しんで聞く才能がない」
「知ってると思うけど、僕もそんなに喋るの得意じゃないんだよ、運転しながらだと尚更。ニイも喋ってくれ」
 ええ、うーん、というような苦悶の声が返ったので、「昔話とか話すの上手だっただろ」と励ましを送る。前方に据えた視界の端で、ニイジェが頭を抱えた。
「こんな高速で移動しながら昔話は無理」
「じゃあ今の話で良いから、そうだ、ラトさんのこと話してくれよ。今夜会うのに何も知らないんだぞ。いつどこで出会ったとかさ」
「いつだっけ……最近の気がするけど、たぶん違うんだろうな」
 ニイジェはしばらく指折り数え、今日の暦を改めてチジュに尋ねてから「二十年ぐらい前だと思う」と頷いた。
「もう人間に戻るつもりはなかったから、」
 世間話としての声音だった。ハンドルを握る手が強張ったが、チジュは動揺が顔に出ないように努め、言葉の先を待った。
「森のずいぶん奥にいたんだ。あの町から山ひとつ越えた辺りかな。それなりに居心地の良い森で、すっかり根を下ろしたつもりでいたんだけど、ラトに叩き起こされたんだよ。鉈で」
「鉈で?」
 とっさに助手席を見てしまった。「ちゃんと前を見てくれ」と本気で怯えられたので、車道に視線を戻す。
「鉈って、あの鉈か? 薮や木の枝を薙ぎ払うのに使う……」
「その鉈だよ。当時のラトは駆け出しのカメラマンでね、熱帯雨林の撮影に来て、下生えを払いながら歩いてたら進路上に僕が生えてたってわけ」
「最悪じゃないか」
 樹木に変身したニイジェは、それほど幹が太くなかったような覚えがある。鉈の勢い次第ではあっけなく真っ二つになっていたかもしれない。
「枝をいくつか切り落とされたあたりで飛び起きた。ラトも腰を抜かしてたな。進路を塞いでた唯の樹木がいきなり人間に変わるんだから」
 想像して、チジュはカメラマンの彼にやや同情した。一歩何かが違ったら、樹木と思って人間を伐採していたかもしれないなんて、心臓に悪すぎる。
「何十年も樹木として生きたのに、やっぱり僕は人間なのかって思ったよ」
 飴の包みを開けながら、ニイジェはため息をついた。
「身体の一部がいきなり無くなっても、樹木はどうしようもないけど、僕は目を開けられる。目を開けずにはいられなかった」
「——樹木に、痛覚って」
「無いよ。でも人間とは別の、違う感覚はある。人の感覚で喩えるなら……視界の一部がいきなり欠落するような……暗闇に喰われるみたいな。蝉の子どもに根っこ齧られたり、鳥に枝葉引きちぎられて巣材にされたり程度なら我慢できたんだけどなあ」
「その出会いで友人になってるのが凄いよ」
「僕もそう思う。数年に一度くらいしか会わないのに、どうして覚えててくれるんだろうな」
 カーブに沿ってゆるやかにハンドルを切りつつ、チジュは腕時計に視線を落とした。普段なら休憩を挟むタイミングだが、ニイジェの様子を見る限りでは、まだ大丈夫そうだ。
 小さなトンネルを抜ける。下ってゆく道の向こうに、水平線が見えた。
「海だ」
 チジュは呟いた。海はまだ遠く、晴天の眩い青を映し、数えきれない光の粒がさざめくように揺れていた。あの反射光はすべて波のかたちだ。ニイジェが窓枠に腕を置き、軽く身を乗り出した。
「ニイ、危ないから腕引っこめて」
「初めて見た」
 チジュは目を瞬いた。驚きの声をあげた訳ではないが、ニイジェはゆるりと振り向いて、また海に視線を戻した。
「僕が生まれたのは百年以上前なんだ、遠出の機会なんて無かったんだよ」
 車道はやがて海岸沿いの幹線道路に合流した。ここからは平坦な道のりだ。ちょうど助手席が海側なので、しばらくは眺めるものにも困らないだろう。
「休憩は?」
「まだ大丈夫、遠くを見てるとだいぶ楽。しんどくなったら言うよ」
「よろしく」
 カーラジオの音量をささやかに上げて、チジュは運転に集中した。ここまで、車酔いの対処だなんだで感慨に耽る余裕もなかったが、思えばこうして誰かを隣に乗せて運転するのはほんとうに久しぶりのことだ。二十年近く前、ニイジェがラトに伐採されかかっていた頃、チジュは学生のうちにと免許を取ったのだった。家族や友人、ときには恋人を乗せて、たくさんの場所に出かけた。記憶は年月に擦り減って、誰とどこに行ったのかは曖昧になり、混ざりあい、断片的な風景の印象と、楽しかったような感情の名残ばかりを覚えている。
 会話が途絶えてしばらく経ち、ふと見るとニイジェは眠っていた。ようやく車内で気を抜けるようになったのなら良いことだ。チジュはそう考えて、海沿いのドライブを一人のんびりと楽しんでいたが、やがてニイジェの身体が樹木に変わりはじめたので、慌てて海岸の駐車場に車を停めた。
 助手席に座る樹木はなかなかに目立つ。通行人の視線を感じつつ、チジュは『ちょっと植木を運んでるだけですよ』という顔を取り繕って、ニイジェを起こそうと試みた。幹を軽く叩いたり、枝葉を揺すったりしたあげく、水を浴びせないと駄目だという結論に至った。つまり無理だ。自分で起きるのを待つしかない。根が乾いてしまわないよう、濡らしたタオルを気休めに乗せる。今日の宿、つまり待ち合わせ場所まで、車であと一時間。
「変身してる間に運ばれるのは嫌だって言ったくせに……」
 ぼやいてみるが返事はない。遠慮なくラジオの音量を上げ、チジュはエンジンをかけなおした。
 幸い、宿の駐車場はすいていた。海岸沿いに位置しているためか、敷地の隅には御誂え向きにシャワーヘッド付きのホースリールもあった。本来はマリンスポーツに興じた宿泊客がサーフボードやなにかを洗えるように設置してあるのだろうが、ありがたく使わせてもらうことにする。存分に水を浴びせた樹木を、車の後部座席に横たわらせ、待つこと十五分。寝ぼけ眼でニイジェは人間に戻り、「ここどこ?」と宣ったので、チジュは笑ってしまった。戻ってきてくれて何よりだ。さすがに樹木を抱えながらチェックインするわけにもいかないだろう。