樹木のバカンス
『walking postcard vol.6』掲載、『すべての樹木は光』30年後の後日談です。
物語は既に幕を下ろした後。登場人物はチジュ、ニイジェ、本編未登場の新キャラクターのみ。本編結末への言及があるため、ネタバレを回避したい方はご留意ください。ささやかな再会のひとときを楽しんでいただけますように。
本編『すべての樹木は光』も冒頭40000字を公開しています。
ある魔法の喪失を描く、熱帯雨林の樹木変身譚です。未読の方はこちらもどうぞ。
ベンチに樹木が座っている。
もちろんそんなはずはない。瞬きをして見つめれば、そこに見えるのは一人の青年だ。歩き疲れたように脱力し、膝に乗せたミネラルウォーターのボトルを手慰みに揺らしながら、正面の噴水を眺めている。ベンチはちょうど日向と木陰の狭間にあり、ボトルが角度を変える度、青年の指先に屈折光の淡い虹が散った。その手にチジュは見覚えがあった。三十年前、まだ子どもだった自分と一緒に遊んでくれたときのまま、皺一つない滑らかな手が、プラスチックの蓋を回し、口元まで水を運んだ。やはり彼は歳を取らないのだな、と感心する自分がやけに遠く感じられた。
あまりに長く見つめすぎたのだろう、青年が怪訝そうに視線を返してきた。深緑の瞳。もう間違いない。それでも人違いかもしれないと、チジュは躊躇いがちに「ニイジェ?」と彼を呼んだ。とたん、これは面倒なことになったぞ、という感情を一切隠さずに青年は頬を歪めた。
「誰のことだか分かんないな」
その表情もよく知っている。しらばっくれるときの顔だ。
「きみは変わらないね……久しぶり、ニイ。覚えてない? 僕らの家に居たときのこと」
ニイジェは目を丸くして、チジュの顔をまじまじと見た。すぐに分からないのも当然だ。彼が知っている自分は十歳そこらの子どもであって、疲れた中年男性となった自分にはたいして面影も無いはずだった。
「驚いた。チジュかい?」
「覚えててくれて嬉しいよ」
「どうしてこんなところに」
どうしてこんなところに、なんて、尋ねたいのはこちらの方だ。ニイジェは三十年前に忽然と姿を消し、それ以来ずっと音信不通だった。もう会えることはないだろうと思っていた。かつて彼が人の世界から立ち去った時には、戻ってくるまで六十七年掛かったのだ。それを思えば、三十年はずっと短い。
ニイジェがベンチの片側に寄ったので、隣に座る。ひとまず自分から質問に答えようとして、チジュは言葉に詰まった。他人へのうまい説明を用意していなかった。話すにも長くなりそうで、掻い摘んだ現状をそのまま述べることにした。
「長年勤めた会社を辞めた。仕事に心底うんざりした。転職する気も起きなくて、やけくその四十代一人旅をしてる。主に遺跡巡り。そろそろ一ヶ月半」
指折り数えあげると、ニイジェは口笛を吹いた。
「そりゃ良いや。そういや、この町も遺跡が有名だったね」
「そういうこと。ニイは?」
「伐採されそうになって逃げてきた」
「なるほど……なるほどじゃないな」
打ちかけた相槌を引っ込める。よほど神妙な顔をしてしまったのか、目を合わせたとたんにニイジェは笑いだした。呆れと優しさの混じった、人間らしい、ありふれた若者の笑い声だった。
彼は人間だ。そして同時に、彼は人間ではない。
ニイジェは樹木でもある。
三十年前、ニイジェが現れたときのことを、チジュはよく覚えている。当時、家に居たのは祖父と母と、自分と、姉のアジュだけだった。父は出稼ぎで遠くの街へ出ていた。真夜中、悲鳴じみた母の大声に、ベッドから飛び起きた。母の元へ駆けつけたかったが、恐怖で動けなかった。強盗だったらどうしよう? 警察に電話するべきか? 電話があるのは母家だ、中庭を突っ切らないと辿りつけない。半泣きでアジュを起こそうとしたが、起きない。やがて母の声は聞こえなくなり、心配が恐怖に勝った。震えながら一人で母家に向かうと、明かりの点いた食堂に、母と祖父と、そしてニイジェがいた。祖父はニイジェの手に額を擦りつけ、泣いていた。かつて行方不明になった兄だと、祖父は言った。間違いない、何十年経とうと見間違うものか。覚えている。生きていた、生きていたんだ、帰ってきたんだ……。
変身する人間の存在は、町の住民なら誰でも知っている。そういう人間は時折現れる。ニイジェもまたその一人だった。彼が熱帯雨林の只中で樹木に変身していた期間は、およそ六十七年。彼を兄と呼んで泣く祖父はとうに齢八十を越え、身体中が皺に覆われているのに、樹木から人に戻ったニイジェは若い姿のままだった。
ニイジェは初めのうち、口もきけず、目も合わず、あらゆるものに無反応だった。人間の形をしているだけの樹木だった。母は不気味がって近づこうとしなかったが、祖父はずっとニイジェの傍にいて、話しかけつづけた。他愛のない雑談、昔話、天気の話、今日の食事について。そうして十日も経った頃、眠りから覚めるようにして、ニイジェは突然に言葉を取り戻した。喋りはじめたニイジェは、たちまち感情も表情も人間そのものになった。価値観と常識が数十年ほど古びてはいたが、それだけだ。アジュはすぐにニイジェを年上の遊び相手と見なした。チジュも加わり、何度となく一緒に遊んだ。ニイジェは、親切で、温厚で、すこし風変わりな、年上の友人だった。少なくとも三十年前のチジュにとっては。——ニイジェと同じ家で過ごしたのは、ほんの数ヶ月だけだ。現れたときと同じように、彼はある日、忽然といなくなってしまった。
「きみって視力悪かったんだっけ」
問われた内容に頭が追いつくまで数秒かかった。向かいの席に座ったニイジェが自身の目元をとんとんと指で叩いてみせ、ようやく、ああ眼鏡か、とチジュは思い至った。たしかに子どもの頃の自分は眼鏡を掛けていなかった。
「大学に入った頃からだんだん悪くしてね。裸眼で過ごすのはすこしきついかな」
「老眼鏡かと思った」
「実年齢百歳越えが何を言ってるんだ」
ベンチで長話もなんだから、と公園併設のカフェテラスに誘ったのはチジュの方だが、改めて奇妙な状況だ。三十年ぶりの再会といっても、歳を取ったのは自分だけで、ニイジェは何ひとつ変わっていないのだから、こちらが過去に戻ったかのような錯覚を覚える。かつての祖父も同じ混乱を味わったのだろうか。
快い晴天にも関わらず、カフェの屋外席に人影はまばらだった。これなら少しくらい変わった話をしても、誰の耳にも留まらないだろう。
運ばれてきた珈琲にそのまま口をつけると、ニイジェが小さな驚きの声をあげた。カップの水面越しに視線が合う。
「いや、砂糖も要らないのかと思って……そりゃそうだよな」
ニイジェはグラスの氷をストローで掻き回し、かすかに微笑んだ。
「大きくなったんだねえ、チジュ」
「……そんな孫を見るみたいな目で」
「似たようなものじゃないか。きみはゲアの孫なんだし」
「血縁はないけどね、ニイお爺ちゃん」
「やめてくれよ」
昔のような軽口を交わす内、奇妙な再会への困惑も徐々に収まってきた。チジュは「ところで」と咳払いをして、先ほどから気になって仕方なかったことを口にした。
「伐採されそうってどういうこと」
「言葉どおりの意味」
ニイジェは肩越しに、この町の傍にある低山を指差した。
「ここ数年くらいは山麓沿いの森にいたんだけど、急に周囲が明るくなって土壌の味もおかしくなって、何事だろうと人間に戻ってみたら、ほんの十数歩先から森がなくなってたんだ。何もかも切り倒されて整地されてた」
チジュは嘆息した。あまりにもありふれた話だった。この国に数多ある大規模農園がまたひとつ増えたのだろう。アブラヤシ、サトウキビ、カカオ、コーヒー、熱帯雨林を切り拓いて栽培される作物はいくらでもある。あるいは採掘場になったのかもしれない。どちらにせよ樹木は生きていけない。
「僕が見てる間にもどんどん伐採が進んでたし、あの森は直になくなるね。どうしようもないから、ひとまず町に降りてこれからどうするか考えようと……チジュ、向こう百年くらいは残りそうな熱帯雨林、どこか知らない?」
「ええ……」
戸惑いつつ、チジュはスマートフォンを取り出した(また電話の形が変わってる、とニイジェが小声でぼやいた)。この国の地図を表示してみる。
「百年先のことなんてわからないけど、国立公園の自然保護区なら流石に残るんじゃないか」
「ここから近い?」
経路検索を掛けると、そこそこ無情な距離が出た。
「バスに乗れば近隣までは……」
チジュが最後まで言い終わる前に、ニイジェは深刻な声音で「知ってるだろ」と呻いた。
「僕は、とてつもなく、車が苦手だって」
そういえばそうだった。三十年前も、ニイジェは車をとことん避けていた。一度だけ試しに乗ってみたらひどい車酔いになった、と聞いたような記憶がある。
チジュは改めて検索結果の経路を眺めた。高速道路を避けた場合、車で片道およそ八時間の距離。思い浮かんだひとつの提案を、いくつかの方向から検討する。顎に手を添え、しばらく迷い、それでもチジュは言うことにした。
「……送っていこうか?」
「うん?」
「車で、国立公園まで。こまめに休憩しながら一日に少しずつ、何泊か掛けて。それも無理なら、ニイが樹木に変身してる間に一気に運んでも良い」
ニイジェは呆気に取られた様子で、グラスを持ちあげたまま静止した。やがてじわじわと、その眉間に皺が刻まれる。どうしてそこまで、と訝しむのも当然だろう。チジュは控えめに、両手を軽く挙げて「ついでだよ」と言った。
「さっき言ったとおり、僕は旅行中だ。それも行き当たりばったりのね。行先も期間も決めてない。だから一週間くらい寄り道したって何てことない。ニイを送った後で観光もできるし」
「それにしたって酔狂じゃないか」
「なにか良いことがしたいんだよ」
呟いてしまってから、チジュは片手で顔を覆った。もう遅い。自嘲めいて口の端が歪むのを、きっと見られてしまっただろう。目を合わせられないまま、ぼそぼそと内面を吐露する。
「ここ数年の仕事がさ、最悪だったんだ。別に激務だったわけじゃない、給料も悪くなかった、ただ会社の上層部がおかしくなって、詐欺みたいな商品を延々と作らされただけ。同僚は割りきれてたけど、僕は駄目だった、誰かを騙してる、毀損してる、何かしらに加担しつづける自分に耐えられなくて、何もかも嫌になって、辞めた」
「なるほどねえ」
「心底どうでもよさそうに言うな……」
「ごめんよ、働いたことなくて」
ニイジェはくくくと笑って、「でも、その感情はわかる」と頬杖をついた。
「なんでもいいから何か良いことがしたい、自分がすこしはマシな存在に思えるようなことを」
低く歌うように口ずさみ、ニイジェがこちらへ手を差し出してくる。
「どうやらお互いに利用できるみたいだし、それならお願いしようかな。言っておくけど、本当に少しずつしか進めないと思うぞ」
「変身してる間に一日で運ぶ案は却下?」
「怖いから嫌だ」
「了解」
握手を交わした後、チジュはさっそく長期レンタカーの予約を済ませた。もともと明日にはチェックアウトの予定だったので、午前中に宿の前で待ち合わせればちょうど良いだろう。チジュが操作するスマートフォンの画面をニイジェは興味深げに眺めていたが、ふいに「あっ」と声をあげた。
「そうだ、連絡を頼みたい友達がいるんだけど」
「友達?」
かなり大きな声で聞き返してしまった。ニイジェが片眉を上げた。
「いま何考えたか当てようか」
「ごめん、悪い、意外すぎて……てっきり、三十年ずっと樹木だったのかと思ってたから」
「このところは五年に一度くらい人間をやってるよ。僕にも色々あってね」
カメラマンであるという『友達』の名前で検索を掛けると、シンプルなポートフォリオサイトがヒットした。朝霧に輝く熱帯雨林の写真、鮮やかな色彩の鳥の接写、巨木の樹皮をびっしりと覆う血管のようなガジュマルの気根。なんとなく、彼とニイジェが友人になった経緯を想像できる気がした。サイトに記されたメールアドレスへ、ニイジェに言われた内容——久しぶり、起きたよ、森がなくなりそうだから国立公園に送ってもらう、しばらくはこっちに居る、等々——を、チジュの連絡先も併記して送る。これで準備は整った。
翌日、ニイジェは酔い止め薬の服用にも関わらず乗車してから十分で顔面蒼白になり、その日の走行時間は休憩込みで二時間もたなかった。当初の予定を諦めて早々に道路沿いの適当なホテルにチェックインする頃には、人間でいるのもやっとの様子で、口もきけずにベッドに倒れこんでしまった。心底気の毒だったがチジュにできることは何もなく、ニイジェの枕元に水を置いてから、旅程を練り直すことにした。予想よりも長い旅行になりそうだ。手のひらの中でスマートフォンが振動する。例の『友達』から返信が届いていた。
ニイジェが多少なりとも車に慣れるまで、数日かかった。こまめな休憩は必須だし、一日に進める距離も微々たるものだが、移動を終えた後に軽い雑談ができるようになっただけ大きな進歩だ。とはいえ疲労は大きいようで、しばしば明るいうちに「休憩してくる」と部屋を出ていってしまう。翌朝には髪に葉っぱをつけて戻ってくるから、宿の裏庭あたりで樹木になって休んでいるのだろう。
「人間の身体で眠るより、やっぱり樹木の方が楽なのか?」
チェックインを終え、客室のソファで休むニイジェに興味本位で尋ねてみると、曖昧な声が返ってきた。
「どうだろうなあ。最後に一晩ずっと人間のまま過ごしたのが……いつだったっけ」
チジュは二人分のお茶を淹れつつ、窓の向こうを見やった。天気予報どおり重たげな黒雲が広がり、木々の枝葉がざわついている。
「今夜は部屋にいたら。夜から強風と大雨らしい」
「そうする」
「……大丈夫?」
「目眩がやばい。でも初日よりは楽になった」
ソファの肘置きに顔を伏せたまま、ニイジェがひらひらと片手を振った。『そっとしておいてほしい』の意を汲み、チジュは窓辺に移動して読みかけの本を開いた。ページを捲り、文字を辿るごとに、周囲の風音は遠ざかる。言葉に沈んでいく。やがて、ふとした一節に遠い記憶を呼び起こされ、チジュは手を止めた。
ほんとうは、尋ねたいことがたくさんある。この三十年、どのように生きてきたのか。どうして急にいなくなってしまったのか。祖父——ニイジェの弟が死んだときにさえ、戻ってこなかったのはどうして。いなくなるその日まで、どんな思いを抱いて、あの家で暮らしていたのかを。
三十年は長い。樹木になれるニイジェには短い時間かもしれないが、チジュにとって三十年前は遥か彼方だ。立ちすくんでしまうほどに。ニイジェ自身もまったく昔のことに触れないし、あまり進んで話したくはないのかもしれない。どちらにせよ、すべてはもう過去の話だ。無理に尋ねて困らせるのも気が引けた。唯でさえニイジェは慣れない移動で疲れきっているのだから。チジュはひととき目を閉じ、開いて、視界から滑り落ちていた文字をふたたび拾い集めていった。
嵐は夜半には過ぎ去った。翌朝、チジュが眩しさに目を開けると、東向きの窓から朝日がいっぱいに差し込んでいた。今日の宿はカーテンが安物だったらしい。おまけに天井で回るシーリングファンが一定間隔の反射光を枕元に送ってよこしている。アラーム設定時刻の二時間前に目が覚めてしまうわけだ。チジュは手探りで眼鏡を掴み、隣のベッドを見やった。予想どおり、タオルケットに包まれた樹木が一本、ベッドに横たわっていた。
彼の変身を間近に見るのも久しぶりだ。幸い、対処はおおよそ覚えていた。シャワー共用の宿じゃなくて良かった、と思いつつ、樹木を抱えあげる。シャワーブース内に樹木を立てかけ、水勢を全開にして放置すること五分、剥きだしになった根の先々まで充分に水が行き渡ったのを確かめてからシャワーを止める。これでそのうち起きてくるだろう。
珈琲とトーストで朝食を摂りつつ、チジュはテーブルに地図を広げた。仕事を辞めた翌日に買ったもので、ここまでの道程が日付とともにマーカーで書き入れてある。働きはじめてから長らく訪れる機会もなかった国内各地の遺跡から遺跡へ、気の向くままに国土を横断していた線は、ニイジェと合流してから極端に速度を落とし、散歩のようにゆっくりと、着実に、国立公園へ近づいていた。距離としては今日にも辿りつけそうだが、到着は最短で明日になるだろう——今日は寄り道が決まっている。ニイジェの友人がこちらへやってくるのだ。
シャワーブースから人が足を滑らせたような物音と、鈍い悲鳴が聞こえた。やや置いて、バスタオルを羽織ったニイジェがよろよろと部屋に戻ってきた。
「おはよう。すごい音したな」
「滑っただけだよ……水やりありがとう。やっぱり朝まで人間でいるのは無理だったか」
ニイジェの前髪を伝って、地図の上に水滴が落ちてくる。チジュは地図が濡れないように庇いつつ、今日通るルートを指で示してみせた。
「海沿いの道だからだいぶ楽だと思う。ラトさんがこっちに着くのは夜らしいし、時間的にも余裕だな。のんびり走っても夕方には着く……ニイ、チョコレートだけじゃ朝食にならないだろ」
「変身直後の朝からなにか食べるのってきついんだよ」
「空腹で酔い止めを飲むのはやめた方がいい。やっぱり変身してる間に運ぼうか? 助手席に植木鉢とか置いてさ」
「遠慮しとく。移送される植木の気持ちがよくわかりそうだ」
ニイジェはトーストにチョコレートクリームを塗り広げ、一口ずつゆっくりと齧った。チジュは二杯目の珈琲を淹れた。急ぐことないよ、と誰にともなく呟く。時間だけは充分にあるのだから。
正午のすこし前に出発した。天気は晴れ、真っ白な積雲が風に流れ、気まぐれに太陽を遮ってゆく。ニイジェは相変わらず、車に乗る前から既に居心地が悪そうで、運転席まで緊張が伝わってきた。これでも初日より随分ましになった方だ。
「ゆっくり走るから。なるべく遠くを見てて」
ぽつぽつと短い雑談を交わしながら市街地を走った。全開にした車窓から風が吹きこみ、せわしなくシャツの袖をはためかせる。チジュはカーラジオのスイッチを入れ、誰とも知れない楽しげな声で車内の沈黙を薄めた。この数日の経験上、あと三十分も走ったらいったん休憩を挟む方が良いだろう。
「ちょっと」
などと考えていたら五分で苦情が入った。
「早くない? もう酔った?」
「いや、まだ大丈夫、たぶん。あのさ、なにか喋っててほしいんだけど。その方が気が紛れる」
「ラジオじゃ駄目だった?」
「ろくに知らない人たちのお喋りを楽しんで聞く才能がない」
「知ってると思うけど、僕もそんなに喋るの得意じゃないんだよ、運転しながらだと尚更。ニイも喋ってくれ」
ええ、うーん、というような苦悶の声が返ったので、「昔話とか話すの上手だっただろ」と励ましを送る。前方に据えた視界の端で、ニイジェが頭を抱えた。
「こんな高速で移動しながら昔話は無理」
「じゃあ今の話で良いから、そうだ、ラトさんのこと話してくれよ。今夜会うのに何も知らないんだぞ。いつどこで出会ったとかさ」
「いつだっけ……最近の気がするけど、たぶん違うんだろうな」
ニイジェはしばらく指折り数え、今日の暦を改めてチジュに尋ねてから「二十年ぐらい前だと思う」と頷いた。
「もう人間に戻るつもりはなかったから、」
世間話としての声音だった。ハンドルを握る手が強張ったが、チジュは動揺が顔に出ないように努め、言葉の先を待った。
「森のずいぶん奥にいたんだ。あの町から山ひとつ越えた辺りかな。それなりに居心地の良い森で、すっかり根を下ろしたつもりでいたんだけど、ラトに叩き起こされたんだよ。鉈で」
「鉈で?」
とっさに助手席を見てしまった。「ちゃんと前を見てくれ」と本気で怯えられたので、車道に視線を戻す。
「鉈って、あの鉈か? 薮や木の枝を薙ぎ払うのに使う……」
「その鉈だよ。当時のラトは駆け出しのカメラマンでね、熱帯雨林の撮影に来て、下生えを払いながら歩いてたら進路上に僕が生えてたってわけ」
「最悪じゃないか」
樹木に変身したニイジェは、それほど幹が太くなかったような覚えがある。鉈の勢い次第ではあっけなく真っ二つになっていたかもしれない。
「枝をいくつか切り落とされたあたりで飛び起きた。ラトも腰を抜かしてたな。進路を塞いでた唯の樹木がいきなり人間に変わるんだから」
想像して、チジュはカメラマンの彼にやや同情した。一歩何かが違ったら、樹木と思って人間を伐採していたかもしれないなんて、心臓に悪すぎる。
「何十年も樹木として生きたのに、やっぱり僕は人間なのかって思ったよ」
飴の包みを開けながら、ニイジェはため息をついた。
「身体の一部がいきなり無くなっても、樹木はどうしようもないけど、僕は目を開けられる。目を開けずにはいられなかった」
「——樹木に、痛覚って」
「無いよ。でも人間とは別の、違う感覚はある。人の感覚で喩えるなら……視界の一部がいきなり欠落するような……暗闇に喰われるみたいな。蝉の子どもに根っこ齧られたり、鳥に枝葉引きちぎられて巣材にされたり程度なら我慢できたんだけどなあ」
「その出会いで友人になってるのが凄いよ」
「僕もそう思う。数年に一度くらいしか会わないのに、どうして覚えててくれるんだろうな」
カーブに沿ってゆるやかにハンドルを切りつつ、チジュは腕時計に視線を落とした。普段なら休憩を挟むタイミングだが、ニイジェの様子を見る限りでは、まだ大丈夫そうだ。
小さなトンネルを抜ける。下ってゆく道の向こうに、水平線が見えた。
「海だ」
チジュは呟いた。海はまだ遠く、晴天の眩い青を映し、数えきれない光の粒がさざめくように揺れていた。あの反射光はすべて波のかたちだ。ニイジェが窓枠に腕を置き、軽く身を乗り出した。
「ニイ、危ないから腕引っこめて」
「初めて見た」
チジュは目を瞬いた。驚きの声をあげた訳ではないが、ニイジェはゆるりと振り向いて、また海に視線を戻した。
「僕が生まれたのは百年以上前なんだ、遠出の機会なんて無かったんだよ」
車道はやがて海岸沿いの幹線道路に合流した。ここからは平坦な道のりだ。ちょうど助手席が海側なので、しばらくは眺めるものにも困らないだろう。
「休憩は?」
「まだ大丈夫、遠くを見てるとだいぶ楽。しんどくなったら言うよ」
「よろしく」
カーラジオの音量をささやかに上げて、チジュは運転に集中した。ここまで、車酔いの対処だなんだで感慨に耽る余裕もなかったが、思えばこうして誰かを隣に乗せて運転するのはほんとうに久しぶりのことだ。二十年近く前、ニイジェがラトに伐採されかかっていた頃、チジュは学生のうちにと免許を取ったのだった。家族や友人、ときには恋人を乗せて、たくさんの場所に出かけた。記憶は年月に擦り減って、誰とどこに行ったのかは曖昧になり、混ざりあい、断片的な風景の印象と、楽しかったような感情の名残ばかりを覚えている。
会話が途絶えてしばらく経ち、ふと見るとニイジェは眠っていた。ようやく車内で気を抜けるようになったのなら良いことだ。チジュはそう考えて、海沿いのドライブを一人のんびりと楽しんでいたが、やがてニイジェの身体が樹木に変わりはじめたので、慌てて海岸の駐車場に車を停めた。
助手席に座る樹木はなかなかに目立つ。通行人の視線を感じつつ、チジュは『ちょっと植木を運んでるだけですよ』という顔を取り繕って、ニイジェを起こそうと試みた。幹を軽く叩いたり、枝葉を揺すったりしたあげく、水を浴びせないと駄目だという結論に至った。つまり無理だ。自分で起きるのを待つしかない。根が乾いてしまわないよう、濡らしたタオルを気休めに乗せる。今日の宿、つまり待ち合わせ場所まで、車であと一時間。
「変身してる間に運ばれるのは嫌だって言ったくせに……」
ぼやいてみるが返事はない。遠慮なくラジオの音量を上げ、チジュはエンジンをかけなおした。
幸い、宿の駐車場はすいていた。海岸沿いに位置しているためか、敷地の隅には御誂え向きにシャワーヘッド付きのホースリールもあった。本来はマリンスポーツに興じた宿泊客がサーフボードやなにかを洗えるように設置してあるのだろうが、ありがたく使わせてもらうことにする。存分に水を浴びせた樹木を、車の後部座席に横たわらせ、待つこと十五分。寝ぼけ眼でニイジェは人間に戻り、「ここどこ?」と宣ったので、チジュは笑ってしまった。戻ってきてくれて何よりだ。さすがに樹木を抱えながらチェックインするわけにもいかないだろう。
ニイジェの友人であるラトは、カメラマンの仕事で飛びまわる合間を縫って、今夜の時間を空けてくれたらしい。『夜明けから別所で撮影なんで、真夜中にはお暇します』とのメールが届き、チジュは思わず文面を二度見した。真夜中にここを発ち、車で数時間移動、そのまま撮影のスケジュールだ。どう考えても徹夜である。長く会社勤めだったチジュには想像できない世界だった。
ラトが到着する夜まで時間を潰すべく、ふたりは海岸に降りた。夕方の海は眠たげな色彩を帯び、真昼のようにまぶしく突き刺さってはこない。金色の西日が雲を淡く色づけ、そぞろ歩く生きものたちは砂浜に長い影を伸ばす。散歩中の犬とすれちがう度、みな一様に、ちょっと怪訝な顔でこちらを振り返るのが面白い。ニイジェから樹木の匂いでも感じたのだろうか。
ニイジェは波打ち際へ歩いてゆき、濡れた砂を裸足のかたちに窪ませた。時折り広く打ち寄せる波が、しゅわしゅわと泡立ちながらニイジェの足首に触れる。足跡が海に均される。笑いまじりの楽しげな悲鳴。チジュは靴が濡れないよう、数歩離れて隣を歩いた。こうして見ているとただの若者みたいだ、と思う。十八、十九歳かそこらの。子どもと言ったって良いくらいだ。百年前の十八歳は、扱いとしては大人だったのかもしれないが。
砂浜には、貝殻や珊瑚のかけらに混じって、流木もいくつか落ちていた。波に洗われ、うっすらと白く退色した樹木は、遺跡に転がる石柱とどこか似ていた。あるいは大きな生きものの骨——ふいにチジュは背筋が寒くなった。
「なあ、今ここでうっかり変身したら、そのまま枯死したりしないよな」
「いきなり怖いこと言うね……ふつうの樹木だって海水に浸かっただけで死んだりはしないよ、たぶん。根を真水でよく洗えばね。ここに根づくのはもちろん無理だけど、マングローブじゃあるまいし」
潮風に打たれ、ニイジェは目を細めて波打ち際に立ち止まった。チジュもまた、波の届かない位置から、彼方に傾いてゆく夕日を見つめた。太陽の下、海面に金色の帯が輝き、目を眩ませる。海を渡って吹きつける風に、肌がうっすらと塩気を纏いはじめていた。やがて、波をぱしゃぱしゃと踏んで引き返してきたニイジェに、チジュは「帰ろう」と声をかけた。
帰り道、遊歩道に植えられた椰子を見上げながら、すこしだけ雑談の続きをした。
「もし樹木になるなら椰子が良いな。砂浜で暮らすのは楽しいかもしれない」
チジュの軽口に、ニイジェが苦笑する。
「嵐の日にぜったい後悔するよ」
日没の残光が消える前に、ほんのひとときスコールがやってきて、通りすぎた。夜空に星が灯る。ラトは、約束の時間から三十分ほど遅れてやってきた。ノック音に扉を開けると、砂糖とバターの美味しそうな匂いがふわりと押し寄せた。
「申し訳ない、前の撮影が長引いてしまって」
よく日焼けした大柄な男性が、テイクアウトの紙袋を両手いっぱいに携え、戸口に立っていた。チジュとは同年代と聞いているが、体力の差か、彼の方が明らかに若々しい。チジュの肩越しに友人を見つけて、ラトはぱっと笑顔になった。
「ニイジェ! 六年ぶりだな。あなたがチジュさんですね、連絡をくださってありがとう。おれのことはラトと呼んでください」
「いやこちらこそ……初めまして。ニイの友人と会えて光栄です」
持ち前の人見知りを発揮しそうになったが、チジュはなんとか社交的な笑顔で握手を済ませた。ニイジェが面白がるような視線を向けてきた気がするが、確かめないままにしておく。チジュの隣をすりぬけて、ニイジェが足取り軽く前に出た。
「遠いところどうもね、ラト。無理に来なくても良かったのに」
「来るだろ、数年に一度しか機会ないんだから」
ラトはニイジェの肩を親しげに叩いてから、チジュに紙袋をぽんぽん手渡してきた。
「これお土産です。本当は夕飯までに到着したかったんですが、無理そうだったのでデザートとお菓子と、あとチーズとついでに酒も」
袋の中を覗いてみると、まだ温かなドーナツにワッフルに、キャラメルを絡ませたココナッツ菓子、ミックスナッツ、チーズアソートがたっぷり入っていた。思わず笑顔がこぼれる。
「メールで夕飯は先に食べててくださいって言うから食べましたけど、これは夕飯抜きでも良かったな」
「食べきれなかった分は明日おれの朝食になるんで大丈夫ですよ」
「……さっき酒って言いました?」
「おれの分はノンアルコールです。この後も運転するんでね。あ、もし苦手でしたら無理なさらずに」
「大丈夫です、特に強くもないですが。ニイはお酒飲めるんだっけ?」
「僕は飲まないよ。お茶とかで充分」
「珈琲でも良いか? チジュさん、ちょっとポット借りますね」
「どうぞ。冷蔵庫に牛乳も入ってます。あと冷凍庫に氷」
「こりゃ良い宿だ。ここ一階でしたっけ、テラスにテーブルとかありますか」
もちろん有る。チジュはからからと窓を開けて客室のテラスに出た。夜風に乗ってかすかな潮騒が聞こえる。二階か三階の客室であればきっと海が見えただろう。白塗りのアイアンテーブルに皿を並べていると、ニイジェがランタン片手に顔を出した。ランタンなんて部屋の備品にあっただろうか、と首を傾げるチジュに、ニイジェが「ラトの私物」と言った。
「僕が常識に疎いのかもしれないけど、ランタン持参で遊びに来るって今の時代じゃ普通なのかい」
「あんまり普通じゃないと思う」
「やっぱり? 彼も変わり者だからなあ」
ニイジェはくすくす笑って、テラスの桟にランタンを引っかけた。明かりに惹かれた蛾と甲虫が輪を描いて集まってくる。
「チジュ、人見知りなところは変わってないんだね」
「子どもの頃の話だろ、もう大分ましになったよ」
「何よりだ。ラトは変人だけど明るくて良いやつだよ、アジュにちょっと似てるかもしれないね」
チジュは手を止めた。再会してから初めて、ニイジェの口から当時に触れる言葉を聞いた。「ああ」と「うん」の中間のような、声だけの相槌で返事をする。今はそれ以上を話せる気がしなかった。
やがてラトが三人分の飲み物を運んできた。トレーを片手でうつくしく支える所作がやけに様になっている。「昔、レストランで働いてまして」とラトは片目を瞑ってみせた。
「チジュさんのアイスコーヒーは砂糖抜きです。お好みでウィスキーを足しても美味しいですよ」
「ウィスキーまで持ってきてくれたんですか」
「お恥ずかしながら、ビールを買ったあとで甘いものに合わないなと……」
ラトがグラスを掲げ持つ。チジュもそれに倣い、グラスの縁と縁とを合わせた。ニイジェは乾杯を横目に、湯気の立つマグカップに息を吹きかけている。
「ニイはなに飲んでるの?」
「珈琲に牛乳入れたやつ。なんて言うんだっけこれ」
「カフェラテな。牛乳たっぷりにしておいた」
ウィスキーを垂らしたアイスコーヒーは、仄かにバニラのような香りがした。澄みわたる苦味の後に、バターの沁みたワッフルをかりりと齧れば、砂糖の甘さがより際立って感じられる。夜もずいぶん遅い時間だが、三人とも遠慮なく手を伸ばし、テーブル上の甘いおやつたちは見る間に姿を消していった。ラトはごく自然にカメラを構え、何度かシャッターを切ったが、その間もお喋りは止めなかった。
「そういやチジュさんは長期旅行中だって聞きましたよ。どの辺を回ってるんですか?」
「国内のあちこちですね。遺跡巡りが好きなんです。仕事を辞めるまでなかなか行けなかったぶん、この機にと思って」
「良いですね! じゃあそのうち海外にも?」
「今はまだ……まずパスポートを作らなくちゃ。ラトさんは撮影で海外も行かれますか」
「依頼があれば喜んで行きますが、普段はほとんど国内にいます。この国は広いですからね、国中の熱帯雨林を存分に撮るだけでも何十年掛かるやら」
ふいにラトは手を打って客室に駆けてゆき、ハードカバーの本を抱えて戻ってきた。
「これをお見せしたかったんだった! おれが二十七のときに作った写真集です」
ニイジェが「わざわざ持ってきたのか」と苦笑するのを鮮やかに無視して、ラトはテーブルに本を広げ、ページを捲っていった。全ページフルカラーの、熱帯雨林ばかりを収めた写真集だ。あらゆる時間帯、あらゆる天候における森の変化を、すべて捉えようとするかのように、溢れる緑だけではなく、夜の漆黒、朝焼けの金、スコールと霧の柔らかな白、咲き乱れる赤い花々が、紙面に現れては次のページに色彩を譲る。ランタンが放つやわらかな暖色光の下でも、写真が伝える迫力はすこしも色褪せなかった。ページを捲るラトの手が止まる。チジュは改めて紙面を覗きこみ、目を瞠った。
「ニイジェだ!」
「ご名答!」
ラトが嬉しそうに拍手する。写っていたのは、熱帯雨林の只中、幾本も降りそそぐ朝日の光芒に照らされた一本の樹木だった。見上げるほどの板根を備えた周囲の巨木に比べれば、見落としてしまいそうなほどちっぽけで、どうしてこんな小さな樹木がクローズアップされているのか、きっと読者の誰にも分からなかっただろう——今日このときまでは。
「乾杯しましょう、チジュさん! まさか自分以外の誰かに伝わる日が来るとは思わなかった!」
ラトは新しいグラスにビールを注ぎ、チジュに手渡した。「おれはこっち」とノンアルコールの缶ビールを開ける。グラスとアルミ缶が合わさると軽やかな音がした。
「この本、まだ本屋で買えますか?」
「残念ながら絶版です。自宅には沢山あるから一冊さしあげますよ」
「いつ撮ったんだっけ? 僕ぜんぜん覚えてないんだけど」
「そりゃ覚えてないさ。ニイジェが森に帰った後、変身三年目ぐらいのときにこっそり撮った」
「きみってそういう奴だったな……」
ニイジェが目を眇めながら、空皿にナッツを出してゆく。と、足元から「にゃん」という鳴き声があがった。三人とも一斉にテーブルの下を覗きこんだ。野良にしてはやけに毛並みの良い、ふっくらとしたキジトラ猫がこちらを見上げていた。猫好きの人間が不意打ちで猫に出会ったとき特有の低く抑えた歓声を最初に上げたのは誰だったか、とにかく彼らは顔を見合わせ、早口で囁きあった。
「えっ、この宿の子? 飼い猫? めちゃめちゃ人馴れしてますが」
「この毛艶は野良じゃないでしょう、いや海辺の街だし、地域の人が可愛がってる可能性も」
「小魚食べる?」
ナッツの袋に入っていたらしい小魚を手に、ニイジェが地面に屈みこむ。猫は差し出された指先の匂いをふんふんと嗅いでから、小魚をゆっくりと噛み砕いた。ラトが小声で「良いなあ」と呻いた。
猫は満足げに尻尾を立てて、ニイジェの周りをくるくると回った。どこかへ誘うかのような素振りだった。ニイジェは猫を怖がらせないよう、そっと立ち上がった。
「ちょっと散歩してくるよ」
「おれも行……行かない。大の男が三人でぞろぞろ付いていったら逃げられそうだ……」
ラトはひらひらと手を振ったが、ニイジェが猫と一緒に歩き去ると、テーブルに頬をつけて歯噛みした。
「見ました? あいつの口元の緩みっぷり! くそっ羨ましい」
「かわいい子でしたねえ。夜だから目もまんまるで」
チジュは笑って、ビールを一息に呷った。頬にあたたかな血の巡りを感じる。先ほどから、どこかでギターを爪弾く音が聞こえるのは、宿泊客の誰かがベランダで弾いているのだろうか。
「ニイジェが猫を好きだなんて知らなかった。僕らの町は鳥がいっぱいで、猫を飼う人は少なかったんです」
「おれも出会った頃は知りませんでしたよ。いやあ、それにしても、ニイジェに友人を紹介してもらえる日が来るとはなあ。嬉しいったら無いです。チジュさんは、いつニイジェと知りあったんで?」
「もう三十年は前になります」
「へえ! じゃあ、まだ子どもの頃ですか」
「そうです。ニイジェは祖父の実兄で……彼が長い変身から戻ってきた後、ほんの数ヶ月ですが、同じ家で暮らしました。だから友人と言ってもいいものか……孫のように思われている気がしないでもありません。三十年ぶりの再会で、こちらには面影もないでしょうけど」
空いたグラスにビールを注ぎながら、ラトは「友人に見えましたけどねえ」と気遣うような声音で言った。
「おれのことは何かニイジェから聞いてます?」
「うっかり伐採されるところだったのは聞きました」
チジュの返答に、ラトが声をあげて笑う。
「あのときは肝を潰して死ぬかと思いましたよ! 想像してくださいよチジュさん、鉈を向けた樹木がいきなり人間に変わるだなんて、冗談にもなりゃしない。幻覚作用持ちの毒蛇にでも噛まれたかと思いましたね、まあ現実だったんですが。こんなこと、誰に話したって信じてもらえないと……二十年越しに話の通じる人に会えるとはなあ」
飲みかけの缶を傾け、額に添えるようにしながら、ラトはため息をついた。
「しかし、三十年か。三十年は長かったでしょう。子どもの頃の思い出として忘れてしまっても不思議じゃない。おれだって出会ったのは二十年前ですが、数年に一度は再会してたわけで……もし二十年いちども会えなかったら、夢だったと思ったかもしれない」
謙遜だ、とチジュは直感で悟った。彼もまた、何十年と会えなくても、樹木に変身できる青年の存在をけして忘れない類の人間だと思えてならなかった。自分や祖父と同じように。
ぬるくなりはじめたビールを一口含み、喉の奥で言葉を吟味する。長い間、誰にも話せなかった思い出を、躊躇いながらチジュは口にした。
「その……子どもの頃、僕も一度だけ樹木になったことがあるんです」
「えっ」
ラトは目を見開き、「良いなあ!」と今日一番の大声で叫んだ。夜の静寂を貫いて声は響きわたり、客室の誰かが弾いていたギターはびっくりしたように音を外した。チジュも肩を竦ませた拍子にちょっとビールを溢していた。
「失礼」
ラトは咳払いし、恥じ入った様子でテーブルを拭いた。
「なるほど、それは忘れられない。忘れられるはずがない。おれも、その、一度くらい樹木になってみたくて、ニイジェに何度か頼んだんですが、失敗したらまずいからって承諾してもらえなかった。……いや、もしかして、その『失敗』があなたのことだったのかな。聞いてもいいですか、どんな感じでした?」
「じつはほとんど忘れてしまった、んです。夢の記憶のようで。ただ眩しかったことしか覚えていません。樹木から人間に戻った後なら覚えてるんですけどね、足が土に埋もれて、感覚がめちゃくちゃで、ひたすら気持ち悪かったこととか」
「うわあ怖……でもやっぱり一度くらい、なんとか、また頼んでみるか」
ぶつぶつと真剣に呟きはじめたラトがおかしくて、チジュは笑った。酔いが回ってきたのか、胸元がとても温かい。
「ラトさん、変人だってよく言われませんか」
「言われます。言われると嬉しい。おれには褒め言葉です」
「ニイも言ってましたよ」
「あいつに言われたくはないが! まったく、……チジュさん、おれがニイジェと知りあったときのことも聞いてくれますか。
伐採未遂のあと、ニイジェは人に戻ってすぐ倒れちまいましてね、ひとまず森の拠点小屋に運んだんです。拠点小屋ってわかりますか、おれみたいなカメラマンや、熱帯雨林のツアーに参加する旅行者が使う家です。ニイジェはさっさと森に帰りたそうでしたけど、そのう、おれも若かったので、単純な好奇心と、こんなに熱帯雨林に詳しいガイドはいないだろうと思って、だって樹木そのものでもあるんですから、頼みこんで、給金払って三ヶ月くらいガイドをやってもらったんです。ニイジェについていけば森で迷うこともないし、歩きやすい道を先導してくれるし、毒蛇や毒蜘蛛にもすぐ気づいてくれて、最高だった、それからおれたちは友人になったんです。
当時のおれは二十歳そこらで、最初のうちはニイジェを同年代だと思ってました。すぐに何十年も前の生まれだと分かりましたけど、それでも、冗談を言って笑ったり、急なスコールにはしゃいだりする姿は、おれと同じような若者にしか見えなかった。だから……彼がもういちど人間の世界で生きていけるように、手助けした方が良いんじゃないかと思ったこともあります。それが友人の役目なんじゃないかと。でも、彼はたしかに人間で、でも同時に樹木でもあって、人間として生きろだなんて、彼に世界の半分を捨てろと言うようなものでしょう。おれは人間で、樹木の世界なんて想像したってわかりっこない、人間の側からしかものが言えないんだ。下手なこと言ったら二度と会えなくなりそうな気もして、だからおれは決めました、彼とは友人でいる、彼が望むなら手助けは惜しまない、でも、彼の世界には踏み入らないことを。
その選択が正しかったのかは分かりません。きっとこの先も分からんでしょう。でも、おれの他にも、ニイジェのことを覚えてるひとがいるのなら、こんなに心強いことはない。彼はおれの幻ではなく、存在しているんだ。樹木になれる不思議な人間、そして、おれたちの友人としてね」
「うわ。酔っ払いだ」
やがてニイジェが散歩から戻ってきた。胸元に、先ほどのキジトラ猫を抱いている。ラトはふやけた声で「ありゃあ」とか「ご機嫌だなあ」とか何とか言いながら、猫の喉元をくすぐった。低い鼻息のような、優しい振動が空気を揺らす。
「悪い、チジュさん潰れちまった」
ニイジェはチジュの肩をつついた。テーブルに突っ伏したままで、チジュがもごもごと喋る。酔ってません、と聞こえたような気がしないでもない。
「駄目だこりゃ。チジュ、水飲みなよ」
「うん……」
「時間はまだ大丈夫?」
ラトは手首のスマートウォッチに目をやった。
「あと三十分したら行くよ」
ニイジェは頷いて、椅子に腰を下ろした。真夜中の海風は涼しい。猫はもうすこし人間で暖を取ってゆこうと決めたようで、そのままニイジェの膝に居座っていた。
「次に会うのは何年後だろうなあ」
ノンアルコールの缶ビールを飲み干して、ラトがしみじみと言う。ニイジェは「さあね」と笑った。
「こんな遠い場所まで来たのは生まれて初めてだから、慣れるには時間が掛かりそうだ。ゆっくりできる森であることを願うよ」
「おれは何度か行ったことがあるが、豊かで良い森だったよ。将来的な気候変動の影響や火事の可能性には片目を瞑るとして……保全エリアまで行けば、少なくとも向こう数十年、開発の手は入らないと思う」
「そうあってほしいね。気づいたら隣人がぜんぶアブラヤシに変わってるなんて心臓に悪いから」
「森のどの辺に落ちつくか決めたら連絡くれよ」
「気が向いたらね」
チジュがぼんやり顔を上げて、ニイ、と呼んだ。
「なんだい」
「きみの寿命ってどれくらいなんだ」
「寿命?」
ニイジェは答えを求めるようにラトを見た。ラトも答えられず、ただ首を振る。ニイジェはしばらく考えこんだあと、猫を撫でながら、ぽつりぽつりと言葉を並べた。
「わからない。熱帯雨林の樹木は数十年で枯れるものが多いけれど、それは病気や怪我のせいだったりするし、土地によっては数千年と生きてる樹種もあるから……」
「少なくとも、もう百年近くは樹木をやってる計算だろ?」とラト。「その割に老木でもないし、人間になったり樹木になったりする度に、株の更新みたいな効果が起きてるのかもな。テロメアがどうなってるのか考えたら頭おかしくなりそうだが」
「テ……なに?」
「それでもいつかは終わりが来るだろうってこと」
「それはそうだろうね」
チジュは明瞭な返事ができないまま、二人の会話を聞いていた。水を飲むので精一杯だった。
ニイジェの膝でやわらかな寝息を奏でる猫は、あと十五年も経たずにいなくなる。自分とラトも、五十年後には死んでいるだろう。ニイジェの弟はとっくにこの世にいない。ニイジェがあとどれほど生きるのか知らないが、彼はもう人間の時間の外側にいて、後に生まれた者たちがあっという間に老いて死んでいくのを見続けるのだろう。樹木の傍らで、樹木と同じように。そして、やがて人間としてのニイジェを知る者が誰もいなくなったら——
「そろそろ時間だ」
名残惜しそうにしながら、ラトが立ちあがる。テラスのコンクリートに椅子が擦れて静寂を乱し、目を覚ました猫がニイジェの膝から飛び降りた。チジュは「見送りを」と呟いたが、頭がぐらぐらして椅子から動けなかった。
「どうぞそのままで。チジュさん、お会いできて嬉しかった。また飲みましょう」
見送りにはニイジェがついていった。真夜中の海辺には眠りが打ち寄せてきていた。他の客室の明かりは消え、ギターの音ももう聞こえない。かすかな潮騒と、樹木のざわめきに、ガラスの鈴を震わせるような虫たちの歌声ばかりが響く。チジュはテーブルに伏し、腕を枕にしながら、夜に耳を傾けた。それは幼子の頃、子守唄のように慣れ親しんだ夜風の囁きにすこし似ていた。
「チジュ、こんなところで寝ないでくれよ。ほら起きて」
うっすらと目を開けると、眼前に、ニイジェが水のボトルを差し出していた。
「おかえり……」
「どうしてここまで飲んじゃったかなあ。そんなに楽しかったのかい」
なんだか懐かしいような気がして、チジュは酔いに霞む頭で記憶を辿った。思い出したのは、鳥市場の帰り道、眠くてまっすぐ歩けない自分のために、ニイジェが手を繋いでくれた朧げな記憶だった。あの日はアジュと、ユハも一緒だった。とても楽しかった。はしゃぎ疲れてくたくたになる程に。
ニイジェは向かいの椅子に背を預けて、ぼんやりと海の方を眺めていた。にぎやかなパーティの後に訪れる沈黙は、どことなく気怠く物寂しい。酔いを水で薄めてゆきながら、チジュはようやく、この二人旅がもうすぐ終わることを自覚した。気づけば言葉がこぼれおちていた。
「ニイ」
「なんだい」
「どうしてあのとき、いなくなってしまったの」
テーブルを温かく照らしていたランタンは既に無い。客室のランプと、夜空の月明かりだけでは、ニイジェの表情もよく見えない。ただ、困ったような気配だけが伝わってくる。しばらく待っても答えは返らず、チジュはさらに言葉を重ねた。
「あのあと、あの変身のあと、僕らは家から引き離されて、よく分からないうちにきみは姿を消してしまった。ずっと思ってた、あの日、僕らが森に行かなければ、ニイは最後までお爺ちゃんの傍にいられたんじゃないかって」
「考えすぎだよ。きみも分かってただろ、僕はそのうち森に帰るって」
「弟の死に際にも立ち会わずに?」
「……」
「初雨の日にも戻ってこなかった」
「あまりこの話は……」
「今もときどき夢に見るんだ。樹木に変身したときの夢を」
ニイジェがかすかにこちらを見て、瞬きをした、ような気がした。チジュは小さく笑った。
「……悪い夢じゃないよ。僕は森にいて、気づいたら樹木に変わっている。何も見えないのに眩しくて、動けないのに怖くなくて、声が出ないのに歌えるんだ。本当にそうだったのかも覚えていないのに」
自分は喋るのが苦手だ。感情を言葉にするのも上手くない。それでもどうか伝わってほしいと思う。
ニイジェは緩慢に腕を伸ばし、テーブルにこぼれ落ちたワッフルの欠片や、飲みさしのグラスを片づけはじめた。空皿の端に残されていた個包装のチョコレートを摘みあげ、「もう一個あるよ」と呟く。チジュは最後のひとつになったチョコレートを口に含んだ。アルコールの余韻が甘く変わってゆく。チジュはそれ以上なにも言わずに、ただ待った。待つことには慣れていた。
やがて、ニイジェはため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「もう此処にはいない方が良いと思ったんだ」
「どうして」
「いなくなってほしいと望まれてるのが、はっきり分かったから」
誰に、とチジュは尋ねなかった。自分たちの変身を境に、家を取りまく空気が変わったことは、当時から気づいていたから。ニイジェは否定も肯定もしなかったが、母は、ニイジェが子どもたちを樹木に変身させたのだと信じた。母だけじゃない、彼をルグと呼ぶ町の人々もみんな信じた。じゃあやっぱり、ニイジェがあの家にいられなくなった切っかけは僕らじゃないか、と喉元まで出かかった声をチジュは飲みこんだ。酩酊は言葉の堰を緩めてしまう。ただ静かに相槌を打つ。
ニイジェはしばらく黙っていたが、チジュが何も言わないので、またぽつぽつと話しはじめた。
「たしかに僕は、ゲアに会うために六十七年の変身から戻ってきたよ。かつて置き去りにした僕の弟に、もういちど会いたかった。身勝手な話さ。恨まれるどころか忘れられていてもおかしくなかったのに。ゲアはどうしてか変わらずに僕を兄と呼んで、傍にいることを許してくれたけど。
人間でいるのはすごく大変だった。僕はもう樹木として生きた時間の方がずっと長かったから、人間の感覚を思い出すまでは、五感から押し寄せるすべてに押し潰されそうだった。どうやって森から歩いてあの家まで辿りつけたのか自分でもわからない。土壌との繋がりを失って、僕の根に住んでいたものたちの囁きもお喋りも聞こえない、ただ水と光が恋しくて、喉が渇いて仕方なかった。喉、そう、声が出せるってことさえも、最初は気持ち悪かったな。……でも、あの家でゲアと君たちと暮らすのは、楽しかったよ。もう誰にもぶたれないし、戦争に行かされる心配もない、日がな一日のんびり散歩したり昼寝したり、鉢植えに水をやったりしてさ。ゲアは老齢だ、ゲアを看取ったら森に帰ろう、それまでは此処にいようと思ってた。
ねえ、チジュ、覚えてるかい。あの変身のあと、きみとアジュは遠くの街へ療養に行ってしまって、なかなか会う機会がなくなったろう。何週間後だったか、久しぶりに会えたと思ったら、きみ、僕を裏庭に引っ張っていってさ。きみとアジュからの手紙をどうやら僕だけ渡されてないって、こっそり教えてくれたね。きみもよく気づいたよなあ、僕は呑気に、ふたりとも手紙に飽きたのかなとか思ってたのに。アジュを悲しませないよう、僕が筆不精だったってことにしたんだよな。
それでも僕はあの家に居続けた。ゲアが心配で、その他のことは、正直言ってあまり視界に入っていなかった。まあ、キアウィに避けられてるのは、うっすら分かってたけど」
どこか他人事めいた、穏やかな声音で語り終え、ニイジェは席を立った。慌てるチジュを「待っておいで」と制し、客室に引っこんだあと、マグカップをふたつ携えて戻ってくる。
「体が冷えちゃったよ。今はティーバッグですぐお茶が飲めるから便利だよなあ」
チジュの隣の椅子に腰かけながら、ニイジェは笑った。食卓の団欒で浮かべるような、やわらかな笑顔だった。
「あの家のひとたちは皆やさしかったね。僕をきみたちから遠ざけようとはしたけど、直接、出て行けとは一度も言わなかった。あの家はゲアだけの家じゃないって、僕もゲアもそれを忘れてたのさ」
チジュは唇を噛んだ。気の利いたことのひとつでも言えれば良いのに、喉の奥が渦巻くばかりで、なにも言葉が出てこない。マグカップに長いこと息を吹きかけてから、ようやっと呟く。
「……ニイが本当に僕らを変身させたかなんて、誰にも分からないのに」
「そうだよ。誰にも分からない、僕にさえも。人間の僕が覚えてないだけで、樹木の僕はきみたちをうっかり変身に巻きこんだのかもしれない。もしそうなら、キアウィがきみたちを守ろうと必死になるのも当然だと思わないかい。唯でさえ不可解な、本当にゲアの兄なのかも怪しい、おまけに人当たりの悪い、人間じゃない何かが家に居座ってるんだぞ」
「ニイは人間だよ」
声が掠れてしまう。酩酊が感情の堰をほどく。
「きみがいなくなって良かっただなんて、僕は思えなかった、思いたくなかった、わかりたくなかった、大人たちみんながそう思っていても」
ニイジェは眉を下げて、マグカップをことりとテーブルに置いた。そして、戸惑いの隠せない手つきで、チジュの背中をやわく叩いた。くりかえし、ゆっくりと、寝かしつけるかのように。
「気にすることなかったのに。きみは小さな子どもだったんだから」
「きみってそんな殊勝な性格じゃないだろ」
「ええ、なに? ひどいこと言うなあ」
「ニイは、自分が周囲にどう見えるかなんて興味ない、ただ大事な人のそばにいられれば良い、知らない人間のことなんてどうでもいい、そんな感じだったじゃないか、それなのにどうして大人しく立ち去ったりしたんだ」
「わかったぞ、チジュ、酔ってるんだな。それも劇的に」
ニイジェは長々とため息をつき、気が抜けたのか、椅子にゆるりと肩を預けた。
「周囲にどう思われてるか、ねえ。たしかにどうでもよかったよ。そんなこと気にしてたら生きていられない。でも、だからって、べつに誰かを脅かしたかったわけじゃないんだ。……ユハには悪いことをした。ずいぶん怖がらせてしまった」
チジュはようやく顔を上げて、ニイジェを見た。
「僕らの変身のこと?」
「いいや。ゲアが帰ってこなかった日に、ちょっとね」
ニイジェは言葉を濁した後、沈みかけた空気を混ぜるように、顔の傍で明るく片手を振ってみせた。
「まあ、単純に、あの家にいるのが辛くなったのもあるさ。ゲアは記憶の混濁が進んで六十七年後の僕のことを忘れはじめてた。やがて忘れられた日には、家中のどこにももう僕の居場所はない。そんな時分に、僕はここに居るだけで周囲を怯えさせてる、いなくなれって思われてるのもどうやら気のせいじゃないと分かったら、そりゃ、こたえるよ」
「……ごめん」
「きみが謝ることじゃないさ」
「今のは無神経な発言の方を謝ったんだ」
「ああそっちか。許してあげよう。きみは孫みたいなものだから」
ニイジェの朗らかな冗談に、チジュは笑顔を返したかったのに、どうしてもできなかった。古く沈殿した子どもの悲しみが、言葉を与えられたことで揺れ動き、水底を濁らせる。喉から呻き声がこぼれた。
「なにか良いことがしたい」
「わかるよ」
取り返しのつかない、既に失われたものを回顧するとき、涙に咽んでいたゲアとは対照的に、ニイジェの声は静かだった。体温を持たない滑らかな樹皮の下で、ひそかに流れる水音のように。チジュの背に手を添えたまま、ニイジェは彼方を見やった。
「僕も、ゲアになにか良いことをしてやりたかった。僕の身代わりに戦争へ行かせてしまった弟に、最後に、なにか一度だけでも。それで許されるはずもないのに。僕はゲアを置いてひとりだけ森に逃げのびたんだ」
「……お爺ちゃんは、僕らのことも、ニイが戻ってきたことも忘れたけれど、自分に兄さんがいたってことは死ぬまで覚えていたよ」
背中越しに、ニイジェの腕が強張るのを感じて、チジュは目を閉じた。いまニイジェの顔を見てはいけないと思った。木の虚を吹き抜けるような、細く長い呼吸音のあと、ニイジェは小さな声で、ありがとう、と言った。
車窓から海が遠ざかる。潮風から距離を置くにつれて植生も移り変わってゆき、いつしか沿道には熱帯雨林が樹勢豊かに枝葉を広げていた。日差しは柔らかく遮られ、車内に吹き抜ける風も涼しい。木陰から木陰へと車を走らせながら、チジュは視界の端に道路標識を捉えた。国立公園への案内板だった。
「ニイ、もうすぐだ。あと二十分ぐらい」
「了解。なんとか大丈夫そうだ」
「樹木になってても良いけど……」
「二十分くらいならもつよ。それより、本当に途中までついてくる気かい」
「わざわざ遠方の国立公園まで来て、入り口で帰れって? せっかくなんだから、観光くらいさせてくれよ」
「僕がガイドしなきゃいけないやつじゃないか」
ニイジェは顔をしかめてみせたが、語尾には楽しげな響きが滲んだ。
真夜中の茶会の翌日、まだ早朝のうちにラトから送られてきたメールには、国立公園の地図に加え、保全エリアまでの詳しい道のりが記されていた。
『周縁部や居住地の近くは避けた方が良い。公園との境界が曖昧な土地はいつのまにか農地転換されることもあるから、できれば森の中心へ。研究者や酔狂な観光客が利用できる宿泊棟が中心部の保全エリア近くにある。駐車場から徒歩で二時間半』
「簡単に言うけど、往復で徒歩五時間だぞ」とニイジェ。
「帰りは一人で大丈夫だから」
「不安だなあ……。昨日、半日もベッドで寝込んでたくせに」
チジュは咳払いで返事をごまかした。本来なら昨日のうちに国立公園まで到着してもおかしくなかったのだが、盛大な二日酔いに見舞われたために宿を延泊したのだ。ニイジェは朝から頭痛薬と果物を買いに行かされ、ほとほと呆れた顔をしていた。ついウィスキーを飲みすぎたのが原因なのは分かっている。それほどにあの夜は楽しかった。記憶まで飛ばずに済んで良かった。
「最後にもう一回だけ聞いておくけど」
チジュはフロントミラー越しにちらりとニイジェを見た。二日酔いで寝込んでいる間に何度か尋ねた問いかけを、もういちど口に上らせる。
「ほんとうに、アジュとユハには会ってゆかなくて良いんだね」
「良いんだよ」
昨日と同じ返事を穏やかな声音で繰りかえし、ニイジェは口元にゆるく笑みを浮かべた。遠回しな聞き方しかできない心情を見透かされているようで、チジュはそっと視線を逸らした。ニイジェが窓枠に頬杖をつく。
「アジュはせっかく変身の記憶を忘れられたのに、僕と再会した拍子に思い出さないとも限らないし。ユハも……たぶん僕に会いたいとは思わないだろう。今回のことも、ふたりには言わないままにしてくれよ」
「ニイがそう言うなら、言わないけどさ」
「そもそも三十年前の知り合いなんて忘れる方が当たり前だからな。きみやラトがおかしいんだよ」
「褒めてくれてどうも」
からかう声を受け流して、チジュは目を細めた。
「わかった、僕からは言わない。でも、もし、ふたりと会う機会があって、向こうからニイの話を振ってきたら、きっと話すと思う」
「それで良いよ。どっちみち、もう長く会ってないんだろ?」
「まあね……」
互いに家を出てから、ユハとはいつのまにか疎遠になってしまい、もう何年も交流がない。アジュはときどき連絡をくれるが、仕事と学業と母親の掛け持ちをしている彼女は多忙すぎて、このところは電話でしか話せていなかった。
「ふたりが元気だって聞けただけで充分だよ。ユハの近況には驚いたけど」
「ああ、うん。僕も直に会った訳じゃないから、アジュから聞いた話でしかないけど……働きはじめてしばらく経った頃だったかな、いきなり人が変わったみたいに溌剌として、やりたいことを我慢しなくなったらしい。起業した会社もそれなりに上手くいってるみたいだ。先月テレビに出てるのを見たよ」
「いつも心細そうにしてたあの子が……人の成長と変化は早いな。正直、ユハは見てて心配になるというか、そのうち魔法に拐われるんじゃないかと思ってたんだけど、杞憂だったみたいで安心した」
ニイジェのしみじみとした呟きに、チジュは首を傾げた。無言の問いかけを察したらしいニイジェが、ああ、と口の端で微笑む。
「チジュは覚えてるかな。昔の僕が話した、ソテツと変身の物語。昔に比べれば少なくなったかもしれないけど、ああいう魔法はどこにでもいるもので、出会ってしまうかどうかは偶然でしかないんだ。説明のつかない、因果も関係ない、理不尽さで言えば事故や病気とほとんど同じ。出会った後にどうなるかは人それぞれなところもね」
「これから熱帯雨林を散歩しに行くってのに、楽しそうに脅してくるの止めてくれないか……?」
「きみもラトも、もうすこし人でないものを怖がった方が良いんだよ」
チジュは曖昧な相槌を返すに留めた。その口ぶりからして、『人でないもの』にはニイジェ自身も含まれているのだろうが、一昨日の真夜中に聞いた『誰かを脅かしたかったわけじゃない』もきっと彼の本心なのだ。怖がられることの哀しみを語りながら、怖がった方が良いと言ってのける、その不思議な心境を理解するのは難しかった。
国立公園近くの駐車場へ車を滑りこませたときには、太陽はすでに北の空高くへ昇っていた。子どもの頃は普段着のような格好で遺跡の森をうろついたものだが、今はもうアウトドア用品の快適さを手放せない。長袖のシャツに、撥水素材のレッグカバー、歩きやすいトレッキングシューズを身につけながら、チジュは横目でニイジェを見た。ほとんど軽装である。本人が「いらない」と言うので特に買い足さなかったのだが、改めて見るとまあまあ不安になった。
「半袖……サンダル……」
「チジュも昔は似たような格好で森に入ってたじゃないか」
「せめて虫除けは念入りに塗ってくれ」
そういえば、ニイジェと一緒に森を歩いたことはあっただろうか。チジュは記憶を辿ってみたが、すぐには思い出せなかった。
入口の事務所で簡単な入園手続きを済ませ、ふたりは森に踏み入った。この辺りはまだ森の浅瀬に過ぎない。半袖シャツにサンダルの観光客でも楽しく散策できるよう、遊歩道が中空に架けられ、旅行者の賑やかなお喋りが森のざわめきを遠ざけている。ニイジェはそわそわと周囲を見回しながら、早足で先へ進んでいった。人混みの間にその背中を見失いそうになって、チジュは慌てて後を追いかけた。
「ニイ、ちょっと、ちょっと待って」
呼びかけると、我に返ったらしいニイジェが振り返った。「ごめんよ」と歩調を緩めてくれる。
「気が逸ってた。やっと帰れると思ったら、つい。やっぱり人里より森にいる方がずっと落ちつくよ」
「長旅だったものな。気に入りそう?」
「まだ分からない。もっと奥に行こう」
遊歩道の上には樹冠が存在しない。光は遮られることなく降り注ぎ、森の底へ直に口づける。ニイジェは深緑の瞳をきらめかせ、チジュが背負うバックパックに触れて、道行きを急かした。
ほとんどの観光客はガイドの先導のもと、踏み固められた周縁部の安全な道を歩くだけだが、ふたりが目指す宿泊棟は森の中心近くにある。枯れ葉に覆われた林床の小道は先へ進むほどに細くなり、曲がりくねり、薄暗くなっていった。日光を奪いあうように樹木たちは巨大化し、はるか頭上の樹冠からこぼれる千々の光は無数の銀河を抱く虚空のようにも見えた。足元から樹冠へ至るまでの長大な距離にあらゆる緑が氾濫している。樹木の幹に気根を絡ませ天へ駆け上がるモンステラ、翼のような胞子葉を広げて枝上に着生するビカクシダ、放射状の葉を噴水めいて掲げるアスプレニウム。肌に触れてくるかのような湿度は、周囲でさざめく無数の葉のひとつひとつに散りばめられたさらに無数の気孔から蒸散された植物の呼気だ。はるかな太古、数多の生物を滅ぼした光合成をその身に受け継ぎ、連綿たる数億年、星の大気を作り変えてまで、樹木たちは光に触れようと鮮烈に枝葉を伸ばしてきた。その苛烈さは人の目に留まりにくい。人間の時間は、樹木に比べ、あまりに速く短すぎる。
行手を塞ぐ板根に足を取られそうになり、チジュは額の汗を拭った。常に日陰なので暑くはないが、湿度のために汗がちっとも乾かない。道の歩きやすさは通る足の数に比例する。ここまで歩いてくるのは研究者か、ラトのようなカメラマンか、熱帯雨林に魅せられた酔狂な観光客くらいだ。チジュの足音が乱れたことに気づいたのか、数歩先を歩いていたニイジェが引き返してきた。
「休憩が必要かな」
「なんでニイは汗ひとつ掻いてないんだ……」
大人の背丈よりも高く聳える板根に凭れ、チジュはこわばった足首を回した。これでも平均よりは森歩きの経験を積んでいるはずだが、熱帯雨林の中心まで踏み入るのはやはり大変だ。腕時計を見ると、歩きはじめてから一時間半が経過していた。地図によれば宿泊棟までは一本道なので、道を外れなければ迷う心配はない。頼りない小道であっても、獣ではなく人のための道であることを裏付けるように、小道の脇の枝葉には一定間隔で赤いリボンが巻かれていた。あれを辿ればひとりでも入り口まで帰れるはずだ。
チジュが休んでいる間、ニイジェはじっと樹冠を見上げていた。こぼれおちた僅かな木漏れ日が、額の上でちらちらと揺れる。瞬きも忘れて光に見入る横顔に、チジュは「そろそろ行こうか」の一言が掛けられなくて、しばらく一緒にぼんやりと佇んだ。けたたましく尾を引いて鳴き交わす鳥の声に、重ねるような高音のホイッスルが響きわたる。あれも鳥の声なのだろう。囀りひとつから鳥の種類を同定してみせるアジュなら、もっと多くの音が聞き分けられるのだろうが、チジュの耳には難しかった。そういえば子どもの頃には、ひとの声そっくりな鳥の呼びかけを聞いたこともあった気がする。
「チジュ、ちょっと移動して。反対側に」
手招かれ、チジュは言われるままにニイジェを挟んだ反対側の板根へと移った。
「どうかした?」
「そっちの板根に向かって蛇が降りてきてた」
「うわ」
見れば、先ほどまで自分が凭れていた辺りを、赤と黒の鮮やかな縞蛇がするすると滑り降りてゆくところだった。あのまま立っていたら鱗と牙の感触を首筋で味わう羽目になったかもしれない。チジュは早口で礼を述べた。ニイジェは頷いたが、すこし反応が鈍かった。瞳の焦点も微妙にぶれている気がする。チジュは眉をひそめた。
「ニイ、なんか脱水症状でてないか」
「ああ、違うよ、そう見えるだけ。やっぱり目と耳だけだとちょっと……」
ニイジェはなにかぶつぶつ言って、瞼を手のひらで押さえた。「周りに人いなかったよね?」と問われ、チジュは首を傾げた。
「だいぶ前に、フィールドワーク中の研究者グループを追い抜いたのが最後じゃないか。あれこれ採集しながらゆっくり進んでたから、まだ追いつかれることはないと思うけど」
「じゃあ良いか。誰か近づいてきたら教えてくれ」
「うん? うん」
改めて周囲を見回せば、植物たちが静止した滝のように視界を阻んだ。その向こうに何がいたとしても、注意深く意識を凝らさなければ気づけないだろう。それでも、どうやら、周囲に人の気配はなさそうだった。視線を戻し、チジュは息を呑んだ。
ニイジェの顔からふうと表情が抜け落ち、どこか遠くを見据えるように目が伏せられる。自身の肘から指先にかけてを、ゆっくりと手のひらで撫ぜるにつれて、肌の質感が変わってゆく。林床の薄闇では見落としてしまいそうなほど、緩やかに、褐色の皮膚から滑らかな樹皮へ。蝋で固められたようにぎこちなく指を曲げ伸ばしすると、節々から白く根が萌え出で、絡みあい、たちまちに爪を隠してしまった。ニイジェは土に膝をつき、降り積もったラワンの枯れ葉の底へ、その手のひらを差し入れた。目は開いているが、機能を忘れたかのように微動だにせず、瞳孔も散大している。そのまま輪郭がほどけて樹木へ変わってしまうのではないかとチジュは思ったが、ニイジェは人のかたちを保ち、静かに呼吸を続けた。見守ることしかできなかった。チジュは息をひそめて、小道の両端へ交互に目を配った。幸い、ふたりの周囲には誰も近づいてはこなかった。時折、ひとの顔よりも大きい落葉が、ばたりと、数十メートルの高みから落ちてくるだけだ。
十分か、十五分も待っただろうか。やがてニイジェは土壌からずるりと腕を引き抜いた。土の欠片が落ちる手のひらから、明らかに先ほどよりも長く生長した根が尾を引いている。チジュはおそるおそる「おかえり」と声をかけた。ニイジェは不思議そうに「ただいま」と言った。
「色々と分かったよ。土壌の味とか、水の具合とか、ここらに住んでるものたちの顔ぶれとか」
「器用なんだな……」
器用と言うのもなんとなく違う気はしたが、他にうまい表現も見当たらなかった。
「ここで全身を樹木に変えたら大変だろ。根を張った僕をどうやって引っこ抜くつもり?」
「ああ、なるほど」
たしかに困る。チジュは得心して頷き、まだ変わったままのニイジェの腕をしげしげと眺めた。樹木への変身は見慣れたものだが、人間と樹木を混ぜたような変質は初めて目の当たりにした。ニイジェが腕をさすると、樹皮や根が剥がれおち、ようやくもとどおりの肌が現れた。
「きみは僕を人間だと言ってくれたね」
呟いて、ニイジェは人間のかたちに戻った手をそっと擦りあわせた。
「枝を伐られれば飛び起きてしまう、僕はほんとうの樹木ではない。それなら人間なんだろうけど、実のところ、あまり自信はないんだ。ほんとうは、人間でも樹木でもないのかもしれない。人間でしかなかった頃の自分と、いまの自分が同じ存在なのかも疑わしい」
「どちらもニイジェなんだと思うよ」
「そうかな。そうかもしれない。そうだったら良いね」
吐息に笑みを混じらせ、ニイジェは「さて」と手を払って立ちあがった。
「森に教えてもらった良い知らせと悪い知らせがある。ここはたしかに良い森だ、昔話に語られるような強い魔法が、今も色濃く息づいてるぐらいに。長く暮らしてゆくにも申し分ない」
意味ありげな一拍の沈黙が挟まれ、チジュは思わず背後を振り返った。誰もいない。
「……悪い方は? 僕らの後を魔法がついてきてるとか言わないでくれよ」
「あと五分でスコールが来る。僕にとっては良い知らせだけど」
チジュは無言で天を仰いだ。ニイジェはその肩をぽんと叩いて「雨具を着といた方がいいよ」と言った。
はたして、きっかり五分後に熱帯雨林は土砂降りになった。多くの雨粒は樹冠の傘に遮られるものの、葉を伝い、枝を伝い、幹上で一本の流れとなって、やがては地上へ流れ降る。地面は泥濘に変わり、容赦なくトレッキングシューズにこびりついた。枝葉を伝う途中で落下した大粒の雫が、ひっきりなしにレインコートを叩く。チジュは一足ごとに「うわあ」とか「あー」とか諦めのこもった悲鳴をあげ、そのたびにニイジェは声をあげて笑った。ニイジェは雨具どころかサンダルも脱いでいた。額に張りつく巻き毛から水を滴らせ、踊るようにその場で回る。林床に現れた雨の小川に、ぱっと細波が立った。
「チジュ、いつかきみが雨になったら、僕のところにも遊びにきてくれよ」
「なに、なんだって? ぜんぜん聞こえない!」
「なんでもないよ!」
滝のような雨音にかき消され、大声で叫ばなければ半分も聞こえないのだ。ニイジェもそれは分かっているはずなのに、晴れやかな顔をしていた。
スコールは局地的に森を横切っただけだったようで、三十分も歩くと日が差し込んできた。この辺りは土壌もそれほど濡れていない。チジュはほっと息をつき、水滴まみれの眼鏡を拭った。
雨に濡れた熱帯雨林は、太陽に照らされると宝石のようにかがやく。枝葉の先々に灯った水滴のひとつひとつに太陽が反射している。まばらに降りそそぐ光の粒は、樹冠から遅れて落ちてくる雨の名残だ。チジュは不慣れな手つきで写真を一枚撮った。あとでラトに送ろうと思う。
やがて、小道の先に宿泊棟が見えてきた。おそらく湿度を避けるためだろう、高床式に造られた木造建築で、うっすらと苔むしている。けれど軒先には洗濯物が揺れ、ひとの気配を伝えていた。二階のテラスには人影も見えた。周囲の下草も短く切り払われて、熱帯雨林の只中にぽつりと明るい庭が現れたかのようだった。
「見送りはここまでだね」
樹木の影に隠れるようにして、ニイジェが立ち止まった。チジュも足を止め、立ち去り難くて、うろうろと視線をさまよわせた。きっと長い別れになるのだろうと思うと、言葉が出てこなかった。数年か、数十年か——もしかしたら今生で会うことはもう無いのかもしれない。ニイジェはひとときチジュを見上げて待っていたが、仕方ないなというように目元を和らげ、先に口を開いた。
「ここまで連れてきてくれてありがとう。楽しかった」
「うん」
「帰り道も気をつけて。道を外れたりしないように……」
言葉の途中でニイジェは黙りこみ、何を思いついたのか、傍に生えていた樹木の枝を「ちょっと貰うよ」と手折った。ほっそりとした鉛筆ほどの一枝を、指先で包み、なぞってゆく。端から端まで。くりかえし。ニイジェの手の中で枝はわずかに震え、まだ樹木と繋がっているかのように、生長をはじめた。光に透ける柔い若葉が枝先に生じ、続けて、明らかに異なる樹種の新芽が枝の途中から萌え出た。さまざまなかたちの葉が一本の枝を包み、花を咲かせ、そして枯れていった。十も数えきれない間の出来事だった。最後に余分な脇芽を落とし、ニイジェはゆるく枝を払った。
「できた。お守り。ちゃんと無事に帰れるように」
ぽんと手渡され、思わず受け取ってしまう。チジュは呆気に取られてものも言えなかった。眼前にかざせば、唯の枯れ枝に見える。樹皮の模様が変わったような気もするが、一瞬のことでよく見えなかった。チジュの沈黙に、ニイジェはやや自信なさげに首を傾げた。
「まあ、旅行の御礼には少ないかもしれないけど」
「前にも貰ったことがある」
「うん?」
「いま思い出した。子どものころ、魔法の杖だよって、こんなふうに」
樹木に変身してしまった後、アジュほどではないが、チジュにもまた眠れない日があった。街で暮らしていても、公園の木立がすこし怖かった。そんな折、久しぶりの一時帰宅で、ニイジェに一本の枝を渡された。ただの枝にしか見えなかった。魔法の杖だよ、なんて、子どもじみたことを言われて、おかしかった。でも本当に、それからは、樹木へ変わる夢を見ても恐ろしくはなくなったのだ。
「そんなことあったっけ?」
「嘘だろ、なんでそっちが忘れてるんだ」
「冗談だよ。あげたかも、たしかに、言われてみれば」
ニイジェは両手をひらひらさせて、懐かしむような目で微笑んだ。
「僕も子どものころ、近所に住んでたお姉さんにこうして貰ったんだ。樹木に変わるようになったばかりのときだった。この魔法の杖をあげよう、きみを守ってくれる、だから変身を恐れないでって。やさしい人だった、彼女は樹木ではなく、鳥に変身できたんだ。それからすぐに嫁ぎ先で亡くなっちゃったけど」
「たぶんだけど、僕、まだ貰った杖持ってるな。引き出しの奥に入れたまま……」
「ええ……」
「なんでだよ、良いだろ、捨てられなかったんだよ」
「はは」
ニイジェは顔をくしゃくしゃにして、「ねえチジュ」と呼んだ。
「もし君が、いつか、人間をやめる方がましだって心底から思うような何かに巻きこまれて、逃げ出したくて、それなのにどこにも逃げられなかったら、この森においで。たぶん逃してやれると思う」
「なにかって、なに、戦争みたいな?」
「そうだよ」
大真面目に返事をされて、チジュは頭を掻いた。
「そう思う日が来ないように祈るよ。少なくとも今はまだ、人間でいる方が性に合ってる。……でも、ありがとう。覚えておくよ」
宿泊棟の方から、風に乗って、かすかなお喋りが聞こえてきた。スタッフらしき誰かが箒で地面を履いている。楽しげに吠えながら、犬が箒の後について走る。なんでもない日常の風景を、ふたりはどちらともなく眺めやった。
「チジュはこれからどうするんだい」
「まだ迷ってる。もうすこし旅行を続けようか、そろそろ帰ろうか……次の働き口も考えないとな」
「何にせよ楽しんで。せっかくの休暇なんだから——なんて言うんだっけ、昔ラトに言われたんだよ、休暇のなんか洒落た言い方」
「バカンス?」
「そうそれ。『樹木にもバカンスがあったって良いだろ、たまには人間のところへ遊びに来てくれ』って」
たしかにラトなら言いそうだ。ニイジェの下手くそな声真似も相まり、笑った拍子に肩の力が抜けた。チジュは一歩身じろぎし、かつて共に暮らした友人へ、ささやかな抱擁を贈った。別れの言葉を呟き、すぐに身を離し、バックパックを背負い直す。宿泊棟の明るい庭へと歩き出しながら、チジュは振り返った。
「ニイ。良い休暇だった?」
「まあね。友達と旅行もできたし、海も見られたし」
「次はカヤックでも乗ろうよ。マングローブの浅瀬を見てみたいんだ」
「また遠出かい。もう車は遠慮したいんだけど」
「大丈夫。ここのすぐ近くだよ」
木陰でひらりと手が揺れる。ニイジェは笑っていた。次にチジュが振り向いたとき、熱帯雨林の林床には、もう誰もいなかった。
チジュは長くその場に佇んだ。木漏れ日に揺れるうつくしい樹木の囁きを、目に焼きつけておきたかった。手のひらの中には一本の杖があった。ニイジェの、他者を樹木に変える力で以て、ささやかな伝言を刻まれた杖が。その伝言は人間には読めない。森の気まぐれな魔法たちは気づく。彼らは、明日ひとりで森を歩くチジュの道行きにけっして手は出さないだろう。致命的な蛇の毒牙も、道を迷わせる声も、人間を森に拐う風も、チジュに触れることはないだろう。そんな魔法の存在をチジュは夢にも思わない。気づくこともない。まともな説明もなしに手渡されたちょっと不思議な枯れ枝を、それでもチジュは手元に置きつづける。魔法が掛かっていようといまいと、友人が作ってくれた贈りものであることは分かっていたから。
魔法はそこにある。かつても、今も。その魔法は長く続く。自ら手折りでもしない限り。人間の目には見えない、ほんとうにささやかな、失っても気づかないほどの、たった一言の魔法。
『僕の友人に幸いを』。