Believe it or not.
最初に話しはじめたのは誰だったか。仕事終わりの飲み会で、ひょんな話の流れから、怪談や都市伝説の話題になった。
どこそこのトンネルに出没する幽霊、存在しない駅に連れていく電車、三丁目の空きビルで夜中に聞こえる啜り泣き、まあそういう類の話だ。世代によって持ちネタが微妙に異なることが、また盛り上がりに拍車を掛けた。新入りかつ最年少の私は何も話せるネタがなく、リアクションと相槌役に回った。そもそもこっちに越してきたのが三ヶ月前なので、地名を言われてもピンと来ない。「へえ〜」「ヤバい」「怖い」「マジ」の活用形(「ヤバそう」「ヤバいっすね」「ヤバくないですか?」「それ絶対ヤバいですよ」etc.)をひたすら繰りかえし、ぼちぼち飽きてきたなと思いはじめた頃、一連の怪談を据わった目で拝聴していた隣席の先輩が、高らかにグラスをテーブルに置いた。
「幽霊は知らんけど、透明人間は『いる』よ、マジな話」
ええ、先輩も輪に入っちゃうんすか、と置き去りの気持ちを味わいつつ、ビールを口に含む。彼女がこういうネタを話すのは珍しいのか、場は一気に沸き立った。
「見たことあるんですかあ?」
「透明なんだから見るも何もないでしょ」
「それな」
「ふふん。信じようと、信じまいと——ってやつだねえ。私は『いる』って知ってんだ。実際に会ったんだから」
「嘘だあ」
「それいつの話よ?」
「んん? んー、今っていつだっけ? えーと、十年くらい……あれ、私っていま何歳だった?」
「だめだこりゃ」
「飲み過ぎですよお」
「こないだ、健康診断で肝臓の数値が……とか言ってませんでした?」
「なんの話か分っかんないなあ!」
先輩はケラケラと笑い、ハイボールの残りを一気に空けると「ウィスキー! ロックで!」と追加注文を述べた。あーあ、という顔になった店長が「お冷お願いします、ピッチャーで」とすかさず被せた。職場では頼りになるしっかりした先輩なのに、酒癖が悪いのがたまに傷だ。
透明人間ねえ。
言っちゃなんだけど、幽霊の方がまだ信じられるな。
声には出さずにひとりごちて、ピッチャーから水を注いだ。氷も一緒に流れおち、水面を揺らし、リズミカルにグラスを鳴らした。
「里沙さん、お水どうぞ」
差しだせば先輩は素直に受けとった。長く酷使され筋張った手。皺がうっすらと浮きあがり、鋏の持ち手が痕に残る指先。まだ鋏を持てない私の手は柔く、連日の洗髪業務でガサガサに荒れている。私もいずれ彼女のような手になるんだろうかと、グラスを渡す数秒のあいだに思う。彼女が笑う気配がした。
「あんたもいつか会えるかもよ」
ふふ、と楽しげにこぼれた吐息はお酒くさくて、私は適当な返事をした。
帰り道は電車で三十分。首尾よく端の席に座ることができた。
すっかり遅い時間だが、車内は煌々と明るく、酔っ払いのお喋りがよく響く。マスクを付ける人はずいぶん少なくなった。仕事終わりの人々はみな、くたびれた顔でスマートフォンに指を滑らせ、あるいは目を閉じ、あるいは文庫本を読み耽っている。脱毛とジムと転職サイトの広告、頭上で輝くサイネージモニタの主張が疲れた目に刺さる。イヤホンで耳を塞ぐ。Spotifyと迷ってから、YouTubeを選び、数日前に配信されたSIGNALREDSの新曲PVをタップした。聴くようになったのは最近だが、連日リピートするくらいには気に入っていた。世界から雑多な音が遠ざかり、隔てられた幕の内側で、記憶に刻まれたとおりの音楽が、轍に水の流れるように沁み入ってくる。安心する。そのまま目を閉じる。
「次は東京、東京。終点です」
ノイズキャンセリングを貫通するアナウンスに、はっと目が覚めた。
乗り過ごしにも程がある、どれだけ眠ってしまったのか、終電が——
「え……?」
車内に誰もいない。
とっさにイヤホンを外し、ドアに近づいた。東京駅近辺なら見えるはずの景色はどこにもなく、ただ黒々とした空が広がっていた。鏡のようになった車窓越し、呆然と立ち尽くす私と目が合う。見慣れた顔、手ずから入れたオレンジのメッシュカラー、冷たい窓に押しつけた手のささくれまで、私はなにも変わっていない。世界の方が私を置き去りに一変していた。足裏に伝わる電車の規則的な走行音さえ、どこか歪んで聞こえた。
左右の車両を覗いてみたが、そちらも完全に無人だった。広告ばかりがこちらを見ている。正直なところ半泣きだった。飲み会で怪談なんて聞いた後だから尚のことだ。乗客を異次元に連れこむ胡乱な電車の話なんかが脳裏にチラチラしてしまう。冷静になろう。たぶん夢だ。リアルな明晰夢。
そうだ、と思い出して座席を振り返った。私のiPhoneはそこに置かれていた。一瞬、いつ置いたっけ、と疑問が生じたが今はそれどころではない。もちろん電波は圏外、ではなく、普通に通じた。SNSを開けばいつものTLがあっさりと表示された。私は拍子抜けして、あんなに焦ったことが恥ずかしくなり、席に座りこんだ。
電車はゆるやかに走りつづけた。塗りつぶしたような夜空に遠く光が瞬いた。星よりも低い位置。街の灯りだ。身を捻って、背後の窓に頬を寄せれば、外がよく見えた。等間隔の光のライン。二層に重なった黒。電車は海に沿って走行していた。波の音が聞こえた。
思わず耳に手を添えたが、私はイヤホンを外したままだった。それでも音は聞こえた。それも上から。走行音に掻き消されそうな音量だが、たしかにそれは波音だった。不思議には思ったものの、現状が既に充分なほど不思議なので、謎がひとつ増えたくらいではもはや驚かない。日頃の癖でイヤホンを耳に嵌め、音楽でも聴いて落ちつこう、とYouTubeを開いた。画面は一時停止になっていた。知らない楽曲の動画だった。ミックスリストの途中で寝落ちしてしまったことを思い出しながら、概要欄を見た。
明らかな無断転載の気配が漂う、知らないバンドの楽曲。アップロードの日付は十五年以上前で、サムネイル画像はぼやけまくっていた。音質もきっとよくないだろう。それでも、この不思議な夜の底でタイトルに手を引かれたような気がして、シークバーを先頭まで戻し、画面に触れた。車内の照明が瞬いて消えた。なにも気にならないくらい、ごく自然に。
助走。
轟音。
離陸。
「東京、東京。終点です。開くドアにご注意ください」
一気に意識が浮上した。はっとして顔を上げれば、真っ白な光に満たされた車両から、にぎやかに人々が降りてゆくところだった。私も慌ててバッグを掴み、下車する人の流れに加わった。信じられないほど寝過ごした。発車メロディに追い立てられてプラットホームをダッシュで横切り、下り方面の電車に駆けこむ。既に零時を回っていた。こんな時間にもまだ電車が残っているなんて、大都会に感謝しかない。
電車はすぐに発車した。私は息を整えながら、車窓の向こうに遠ざかっていくビル群を眺めた。こんな真夜中にも明かりがついている。誰かが起きている。
不思議な夢を見たような感覚があった。
うまく思い出せないけれど、電車の夢だったような気がする。
誰もいない真夜中の電車にひとりで乗っていた。怖い夢のようでありながら、恐怖の名残はなかった。見えなくても誰かがいた。ひとりではなかった。誰かと一緒に飛んでいた。先輩が言うところの透明人間、とはちょっと違うけれど、すこし似ていたかもしれない。呼吸を聞いたような気がする。幽霊は息をしないよね?
イヤホンを耳に嵌める。YouTubeを開くと、一時停止の画面が目に入った。知らない動画だった。知らないはずなのに、奇妙なデジャビュがあった。首を傾げながら概要欄をまじまじと読む。いつかどこかで聞いたのかもしれない。ただ思い出せないだけで。記憶に打ち寄せる波が、砂を幾度も平らに均し、すべての痕跡を流し去っても、そこに連れ立って歩いた誰かがいたことは、足音が刻まれた事実は消えない。
シークバーを先頭に戻し、白いさんかくのボタンに触れる。
再生。