呼吸書房

夢みる時差のために

骨董品屋の片隅で、わたしはその時計を見つけた。
 一目で芸術品だと知れた。
 埃にまみれ、蜘蛛の巣を纏い、それでも輝きを失わずに、ゆっくりと振り子を動かしつづけている。持ち上げてみれば、若い猫のような重みが腕に掛かった。優美な短針と長針を十二色のステンドグラスが彩り、時計盤の円周には飛び立つ鳥の姿が彫りこまれている。それは、こんな小さな町の小さな骨董品屋ではなく、異国のお屋敷か、小国の城に飾られているべき時計だった。
 当時、わたしの財布には少額の紙幣しか入っていなかったのに、気がついたときには値段を尋ねていた。尋ねないことはありえなかった。
「そいつは時計じゃない。ただの飾りだよ」
 店主はちらりと一瞥を向けただけで、ぶっきらぼうに二束三文の値をつけた。
「何故です、こんなに美しいのに」
「時間が合わないんだ。壊れてる。完全にな。何度修理しても、何度時間を合わせても、勝手にズレていっちまう。どこかに異常がある訳じゃない、作られたときからずっとおかしいのさ」
「それで売り飛ばされてきたんですか?」
 わたしの声には憤然の響きがあった。この時計の価値を、これまで誰も理解してこなかったというのか。この国の芸術愛好家どもは全員盲だ。
「買います」
 わたしは凛と宣言した。
 店主は明らかに呆れていた。物好きを眺める目で、わたしと、わたしに抱かれた時計とを見やった。
「あんた、どう見ても貧乏学生じゃないかい」
「そうです」
 わたしは古着屋で求めた五百円のシャツを着ていた。店主はますます呆れて言った。
「いいよ、半額で良い、持っていきなさい。もう六年も買い手がつかなかったんだ。あんた以外に買う奴はいないだろう」
「六年! この国の人間はみんな馬鹿なんですか?」
「あんたがちょっとおかしいのさ。その時計と同じに」
 店主は時計を包んでくれた。その指先は優しく、丁寧だった。
「ま、壁飾りにでも使いなさい」
「ちゃんと使いますよ」
「修理は出しても無駄だぞ。あと捻子はちゃんと巻くように。動かしておきたいならな」
 もちろん。
 わたしは、賜った宝物を捧げ持つようにして、早足で家に帰った。北向き五畳の和室ワンルームがわたしの住処だ。細い柱に釘を打ち(敷金?知ったことか)、そっと時計を掛けた。薄暗い部屋の中で、時計の針はきらきらと虹色に輝いた。
 六時二十分。
 わたしは腕時計を見る。そちらの針は三時十六分だった。
 わたしは笑って腕時計を外し、引き出しにしまいこんだ。
「正しいのは貴女だ」
 微かな軋みを立てる振り子の揺らぎが、この狭い部屋の空気をかき混ぜ、清々しくするかのようだった。わたしはその美しい時計の前に跪き、忠誠を誓いたいくらいだった。ここが擦りきれた畳の上でさえなければ。
 わたしは辺りをぐるりと見回した。日当たりの悪い部屋に差しこむ光は弱々しい。それでもなお、短針と長針にはめこまれたステンドグラスの色彩は、鮮やかな光を漆喰の壁の上に投げかけていた。薄く、柔らかく、霧の日の遠い外灯のように。それは美しかった。わたしは溜息をついた。
「貴女を飾るに相応しい部屋に、引っ越さなければいけませんね」
 それから夕飯の支度を始めた。何故なら今は六時二十分。作り終わる頃には七時だ。ちょうど良い時間になるだろう。

それからわたしは、あの時計の時間に従って、生きた。働いた。長い時間が経った。独り身なので、有り金はすべて理想の家のために注ぎこむことができた。
「さて」
 時計のための家。
 時計のための特別な部屋。
 美しく西日が差しこむように設計した部屋の、とっておきの桜材の柱が、わたしの時計の玉座だ。夕焼け満ちる部屋に、ステンドグラスの色が弾けた。一時三十二分。わたしはにっこりした。
「正しいのは貴女だ」
 さあ、食事にしよう。