呼吸書房

砂漠と旅の話を

夜が砂丘を登ってくる。追いつかれる前に登頂しようと、私は足を速めた。夜の歩幅は広い。高さ数百メートルに及ぶこの大砂丘も、まもなくすべて夜に沈むだろう。
 一足ごとに、美しい風紋を踏み崩す。安定を失った砂は音もなく斜面に沿って流れ落ちる。初めは急速に、やがて緩やかに、遥か下まで。それは小川のようにも見え、けれども入日の深い茜に照らされた今は、むしろ出血を連想させた。一呼吸のあと、振り返って見下ろせば、砂漠の底は既に夕闇に包まれていた。
 砂丘の頂上まであと僅かだった。私は両手も使い、四つ足の獣のような体勢で最後の数メートルを登りきったが、危うくそのまま転落するところだった。反対側の斜面は恐ろしく急勾配で、およそ自然のものには思えず、まるでどこかの巨人が砂丘の半分をそっくりバターナイフで切り取ってしまったかのようだった。私はうつ伏せになり、なんとか砂丘の尾根にしがみついた。砂がとめどなく崩れ、夜に落ちていった。
 乱れた息を整えるのにどれだけ掛かっただろうか。長い時間に感じたが、慎重に手足をずらし、後退し、緩やかな側の斜面で立ち上がると、太陽はまだ地平線の上にあった。どうやら一瞬のことだったらしい。思わず笑いが零れ、私は頬に貼りついた砂を払った。
 靴を脱ぎ、柔らかな砂を踏みしめながら、尾根伝いにしばらく歩く。太陽を左手に、夜を右手に見ながら、北へ。
 静かだ。
 周囲には誰もいない。
 私自身の呼吸と、砂に沈む素足の微かな足音ばかりが耳に響く。
 やがて、砂漠の西にぽつぽつと光が灯った。町の灯りだ。あの町から此処まで歩いてきたというのに、遠い対岸の風景のように思える。今から急いで戻れば、月が昇る前に帰り着けるかもしれないが、月も星も頼らずに夜の砂漠を渡るのは無理だ。少なくとも私には。
 東。地平線の地球影は刻一刻と深くなり、月の出はまだ遠い。空よりも地上の方が暗く、東に広がっているはずの砂漠は一続きの影に塗り潰され、一粒の光も見えなかった。あちらには町もない。
 私は月を待つことにした。腰を下ろし、伸ばした足を砂に沈め、砂中の冷たさを楽しんでいると、裸足の爪先に何かが触れた。骨でもなく、石でもなく、訝りながら摘みあげてみれば、それは一枚のカードだった。優美な金の箔押しに縁取られ、風化をまったく感じさせず、白々と夕闇に浮かぶ紙面にくっきりと印刷された文字を、私は読んだ。ほんの数文字。その単語を私は知っていた。町の名前だ。ここから遥か東方、海の向こうにある町の。
「どうしてこんなところに」
 絵葉書の差出人を確かめるような心持ちで、カードを裏返してみる。裏面は白紙だった。私はますます困惑した。どこかの旅行者が落としただけかもしれないが、それにしては脈絡がない。この不可思議なカードをもとどおり砂の波間に戻すべきか、しばらく考えて、僅かに好奇心が勝った。私はカードをポケットに滑りこませた。
 日没からおよそ二時間、僅かに欠けた丸い月が昇り、夜空から三等星以下の星灯をかき消した。
 砂丘の稜線が月光を反射し、仄かに光りはじめる。
 これなら足元もよく見えるだろう。
 私は大砂丘を下りた。それからおよそ三十八の、絶え間なく連なる大小さまざまな砂丘を上っては降り、降りては上り、西へ歩き続けた。砂丘の谷間では町の灯りも遮られてしまうので、頭上の星が示す方角だけが頼りだった。
 道すがら、私は何度もポケットを撫でた。夢ではないかと思ったのだ。夢ではなかった。遠方の名を記したカードは消えることなく、確かにそこにあった。触れる度、薄い布地の下に、硬い紙の輪郭がしっかりと感じられた。
 休み休み歩いたので、町に帰りつく頃にはすっかり夜が更けていた。
 遅い夕食を摂ろうと私は食堂に入った。開け放された入り口から、心地よい夜風がさらさらと吹いてくる。先客は一人。帽子を目深に被った老人が、扉近くの席で新聞を広げている。彼がちらりと視線を上げたので、微笑みと挨拶を返す。
「こんばんは」
「砂漠帰りかね。砂まみれだぞ」
「申し訳ない」
「楽しめたか?」
「はい」
 老人は頷き、かすかに微笑んだ。
「それは何より」
 手渡された静かな歓迎に、私は緊張を解き、老人の近くに座った。通路を挟んだ壁沿いの席だ。深夜にも関わらず、店員はすぐに注文を運んでくれた。
 私は、湯気の立つスープを食べながら、一匙ごとにぽつりぽつりと砂漠の話をした。砂と風と日没の話を。老人は黙ったまま、けれど身体はこちらに向けて、私の話を聞いてくれた。そして、私はカードのことを思い出した。ポケットから出して、蛍光灯の下で眺めてみても、紙片には何の変化もなく、如何にも現実らしかった。
「それは?」
「砂漠で拾いました」
「読んでくれ」
 私は記された文字を読みあげた。東の夜の果てにある、海の彼方の町の名を。
 老人は「ああ」と懐かしむような声で笑った。
「あの砂漠は、そこから来たのだよ」