呼吸書房

自由は罪も赦しも持たない

猫という生きものは、その毛先一本に至るまで、自らが自らの主である。誰の命令も聞かないし、誰の意思も通用しない。たとえ幾万の兵と家臣を従える広大な帝国の王であっても、一匹の猫を足元に侍らせることはできない。人の側が跪いて猫のご機嫌を取るか、殺して楽器の皮にでもするか、それ以外に、猫に言うことを聞かせる手段はない。
 だから、多くの国の王が、猫を愛した。
 国において、たったひとり、王に従わず、何の恐れも持たず、ただ自らと美味と遊びだけに関心を持つ、高貴な小さき生きもの。どんなに自由な女性であろうと、王の前で平然と振るまえる者は稀だ。だが猫ならば、平然としていない方が珍しい。
「さあ、おまえは逃げなさい」
 燃える城下を眺めながら、王は膝上に丸まっていた老齢の猫を床に下ろした。猫は急に動かされたので、不機嫌そうにふさふさの尾を振り、王を睨んだ。
「そんな顔をするな」
 王は笑い、咳きこんだ。風向きが変わったらしい。焦げくさい煙が部屋に吹きこみ、元の面影を失ったさまざまな灰を絨毯の上にばらまいた。窓を閉めたくとも、熱に晒された硝子はとうに砕けちっている。もうあまり時間がない。直に、城の門は破られるだろう。
 廊下から溢れる騒々しい怒号と足音、風になぶられる炎の唸りに飲みこまれて、眼下に煌めく兵たちの剣劇は音を失っていた。王はそれをぼんやり眺めていた。唯一の慰めは、妃と子どもたちを遠くへ逃がせたことだ。ついでに臣下の半分も逃げて行ったが、あげく反逆の側へついてしまったが、そんなことは別にどうでもいい。彼女らが無事に生き延びさえすれば、自分が世を去った後でも、まだこの国は何とでもなるだろう。王は死神の姿を探すように、身に馴染んだ私室を見回した。焦げ臭いにおいが立ちこめ、炎の赤い光に照らされている他は、普段とまったく変わりがないように見えた。廊下にはまだ、健気な兵が立っていることだろう。
 王は立ち上がり、扉を開けた。ぎょっとした顔つきの兵と眼があった。怯えと興奮に震える、年若い猟犬のような男だった。
 王がもう逃げるようにと諭すと、彼は激昂し、次いで恐縮し、ますます意固地になった。死の瞬間まで王を守ると言った。もう死ぬ他に道はないというのに。王はふいに疲れを感じ、部屋へ引っこんだ。孤独だけが静けさを連れてくる。扉に内側から閂を掛けようとして、王はふと猫のことを思い出した。
 もうとっくに逃げているはずだが、万が一ということがある。姿は見えないが——絨毯に膝をつき、豪華な寝台の下を覗くと、案の定、丸くふわふわした固まりがあった。耳をぺたりと伏せ尾を膨らませ、背中の毛をぴりぴりと逆立てている。
「それ見たことか」
 王は寝台の下に腕をつっこみ、猫を追いだそうとした。どこかへ。少なくとも城の外へ。荒れ狂った兵であろうと、戦いの中逃げる猫一匹を追いかけるほど暇ではないだろう。
 猫は全霊を以って王の腕を引っ掻くことで返事をした。豪奢な裾がひきつれて幾筋もの糸をこぼし、王は、自らの腕に深々と鮮やかな赤い線が走るのを見た。何て奴だ。外の兵を呼んで無理やりにでも逃がそうかと思ったが、こんな生死の瀬戸際で、兵の僅かな残り時間を戦い以外に使わせるのは躊躇われた。
「ここにいたら死ぬぞというに。とっとと逃げなさい」
 王は猫を宥めすかし、次には脅し、寝台の下に棒を突っこみもしたが、猫は頑として動かなかった。そんなことをしている間に、どうやら城の門は破られてしまったらしい。鬨の声に続き、豪雨のような足音が近づいてきた。
 王はほとほと困ってしまった。これでは自害する暇もないではないか。寝台に座りこみ、しばらく考えた。もうどうにもならないのだと思った。
「つきあわせてすまないね」
 王は寝台の下にうずくまる猫に言った。本当は、扉の外でがんばっている兵たちと、死んでしまったあらゆる民に言いたかったのだが、王が謝ることのできる者は限られている。その者たちは、もう誰も、城の中にはいないのだった。

それから王は死んだけれども、王の愛猫がどこへ行ってしまったのかは誰にも分からなかった。その猫が、王の死ぬときまで寝台の下にずっとうずくまっていたことさえ、王の他には誰も知らなかった。