すべての樹木は光|試し読み
真夜中の熱帯雨林に立ち尽くし、かつて人間だったその樹木は夢を見る。- 幻想
- 樹木変身譚
- 長編(冒頭)
夜が明けると、村に人間は一人もいなかった。少年は、昨日まで人間だった蛾や蝙蝠や蛙の群れを引き連れて、森の奥へ帰っていった。彼らを近くの水辺に放し、昨日まで人間だった様々な種は、すべて母の根元に蒔いた。やがて、その一帯は花が咲き乱れ、蜜に誘われた鳥や獣の歌声で、いつまでも賑わうようになったという。
何故そんなことを気にしたのか、夢の中のわたしは知らない。分からない。気づきもしない。口元を見せて笑いあう、お客たちの誰に聞いても答えは返ってこないだろう。
これは唯の夢、現実から遠く離れ、——すべてが自由であるはずの国。
枯れ葉に覆われた林床の小道は先へ進むほどに細くなり、曲がりくねり、薄暗くなっていった。日光を奪いあうように樹木たちは巨大化し、はるか頭上の樹冠からこぼれる千々の光は無数の銀河を抱く虚空のようにも見えた。足元から樹冠へ至るまでの長大な距離にあらゆる緑が氾濫している。
人間は扉が好きだ。扉の向こうに物語を夢見る。輝かしい夏への扉、魔法の国に通じる衣装箪笥の扉、扉の先にあるかもしれない、此処とは異なるどこかの世界。そんなものは存在しないと分かっていても、夢を見ずにはいられない——
いいや、違う、そんなものは存在しないと分かっているから、安心して物語を託せるのだ。
呼吸書房へようこそ。当サイトでは、私、風野湊による作品を公開しています。
路上で出会った本棚のように、どうぞゆっくりとお楽しみください。
書斎と書店、二つの意味を持つ「書房」の名のとおり、
一部の作品は書籍化し、販売を行っています。
出店イベントや委託販売先でもご購入頂けます。
書籍情報
これまでに執筆・制作した書籍の一覧です。
横スクロールで次の書籍を表示できます。表紙を選択すると書籍の詳細情報が表示されます。
【#novelmber企画短編集 / 文庫判 / オンデマンドフルカラー表紙 / 88P】
ごらんよ。入れ替わり立ち替わり、新たな物語がやってくるのを。
人間は扉が好きだ。扉の向こうに物語を夢見る。
輝かしい夏への扉、魔法の国に通じる衣装箪笥の扉、扉の先にあるかもしれない、此処とは異なるどこかの世界。
そんなものは存在しないと分かっていても、夢を見ずにはいられない——
いいや、違う、そんなものは存在しないと分かっているから、安心して物語を託せるのだ。
◇ ◆ ◇
2022年11月〜12月に掛けてTwitterへ投稿した「#novelmber」掌編の再録短編集です。
二つのお題を組みあわせ、その偶然性を楽しみながら書き綴った掌編18本。
幻想と魔法にすこしSFも乗せて、さまざまな文体でお届けします。
公開当時に読んでくれた方にも、未読の方にも、どうぞ楽しんでいただけますように。
※再録にあたって、全作品に加筆修正を加えています
投稿当時(加筆修正前)の掌編ツイート群はこちらからどうぞ。
「ここには作りものしかない。ほんとうの太陽を、ほんとうの風を、恋しいとは思わないの」
「ここにいれば、ほんとうの太陽に会えない者も、太陽に会えるのさ」
Special Thanks
#novelmber ハッシュタグ制作・お題提供:にけさん @nike_nkx
表紙装画:Photo by Evie S. on Unsplash
デザインアドバイザー:山川夜高さん https://libsy.net/
【個人連載雑誌 / 第6号 / A5 / オンデマンドフルカラー表紙 / 62ページ / 小部数・再版予定なし】
『walking postcard』は、呼吸書房が2018年11月から発行している小さな雑誌です。
書き手はひとまず私ひとり。
一冊の本にまとまる前の、小説や旅行記、短編や掌編、散文、詩、独り言などなどを、
旅先から送る便りのように、気の向くままに、自由に、お届けできたらと思っています。
既刊『すべての樹木は光』の30年後、ある町角での後日談。
大人になったチジュが、ニイジェと再会し、二人でひとときの旅行に出かけるお話です。
物語は既に幕を下ろした後。登場人物はチジュ、ニイジェ、本編未登場の新キャラクターのみ。
本編を読んでくださったあなたへ、ささやかな再会のひとときを楽しんでいただけますように。
※文字数はおよそ30,000字ほどです。
チジュはようやく、この二人旅がもうすぐ終わることを自覚した。気づけば言葉がこぼれおちていた。
「ニイ」
「なんだい」
「どうしてあのとき、いなくなってしまったの」
【幻想掌編集 / 文庫判 / オンデマンドフルカラー表紙 / 54ページ】
忘れがたい風景たちへ。
彼らは唯の夢だから、本当は何も語らない。
彼らは唯の夢であり、物語でも何でもない。
彼らは唯の夢だけど——
◇ ◆ ◇
本書は、著者の夢日記を元に創作された幻想掌編集です。
Twitterへ投稿した140字の夢日記から、当時見た夢を思い出し、ときには改変し、修飾して、忘れてしまった箇所は空想で繋ぎあわせながら、六つの掌編を書き起こしました。
いずれも厳密には夢そのものではなく、物語としては筋書きが曖昧で、詩と呼ぶには少々長すぎる。
おそらく最も近い言葉は「風景」なのだろうと思います。
※収録作品はすべて書き下ろしです。
何故そんなことを気にしたのか、夢の中のわたしは知らない。
分からない。気づきもしない。口元を見せて笑いあう、お客たちの誰に聞いても答えは返ってこないだろう。
これは唯の夢、現実から遠く離れ、——すべてが自由であるはずの国。
Special Thanks
表紙装画:ほがり仰夜さん https://rimmsrims.webnode.jp/
【長編小説 / 四六判 / オンデマンドフルカラー表紙 / 250ページ】
そのようにして、魔法は失われた。
透明な街、うつくしい街、ちょうど日付が変わる頃のこと。
一人の優しい娘が、唐突に、身に覚えもなく、一本の樹木に変えられてしまう。
真夜中の熱帯雨林に立ち尽くし、かつて人間だったその樹木は夢を見る。
そして思い出す。
子供のころ、すぐ間近に、樹木へ変身できる人間が居たことを。
◇ ◆ ◇
架空の熱帯雨林を舞台とした樹木変身譚です。
樹木に変わる/変えられる人々を描く幻想(ファンタジー)小説でもあります。
遠い異国の生活描写に没入したい方、迫り来る幻想に慄きたい方、答えのない問いかけに惹かれる方へ。
第一章 雨の歌う町
1 いつか帰る場所
2 相槌と挨拶
第二章 あなたは孤独ではない
3 鳥市場
4 雲と煙の兄弟
5 スコールと木々のダンス
第三章 言葉のない世界
6 木喰い蔓
7 カルス・メリステム
8 草木交信
9 彼らは人間じゃない
10 極相林
11 変身
第四章 楽園の善良な樹木
12 現実
13 魔法の杖
14 愛しいあなたのために
15 剪定鋏
16 楽園の優しき人々
樹木たちは語る
夜が明けると、村に人間は一人もいなかった。
少年は、昨日まで人間だった蛾や蝙蝠や蛙の群れを引き連れて、森の奥へ帰っていった。
彼らを近くの水辺に放し、昨日まで人間だった様々な種は、すべて母の根元に蒔いた。
やがて、その一帯は花が咲き乱れ、蜜に誘われた鳥や獣の歌声で、いつまでも賑わうようになったという。
【幻想短編集Ⅱ / 文庫版 / オンデマンドフルカラー表紙 / 114ページ】
あなたの不在を愛する。
きみはどこにもいない。
この世どころかあの世にも、あらゆる過去にも未来にも、きみは永遠に存在しない。
◇ ◆ ◇
「不在」をテーマにした、ふたつめの幻想短編集です。
何かを失い、あるいは投げ捨て、もしくは奪われたひとびとの、
永遠に埋まらない空席を眺めつづけるような短編と掌編を7編収録。
各編の舞台は、遠い未来、現代東京、天国と地獄、そして暗闇をめぐります。
登場人物たちに関連性はありません。
そもそも登場人物さえ不在かもしれません。
おかしな話だと思わないか。
存在しないきみの不在を、ぼくはなぜだか知っているのだ。その瞳を、声を、微笑を
まるで眼前に在るかのように
うつくしく克明に夢みながら
その不在を信じるがゆえに
ぼくはきみの実在を信じる。
【旅行記 / 新書版 / オンデマンドフルカラーカバー / 76ページ(内カラー10ページ)】
崩壊する空想に、どうか歓声を
本書はガイドブックではありません。
おそらく紀行文でもありません。
では小説か詩集かといえば、それも違うように思います。
「お話」、どうやらこれが一番近い。
これは、モロッコを旅したときのお話です。
◇ ◆ ◇
サハラ砂漠に憧れて、ひとりモロッコを訪ねたのが2014年春のこと。
その旅の記憶をもとに、八編のお話を書き下ろしました。
はたしてこれは旅行記なのか何なのか、
エッセイと詩と小説の間をふらふらと彷徨いつつ、
言葉の中でもう一度、モロッコを巡ってゆきます。
また、巻頭と本文中には、旅先で撮影したカラー写真10枚を収録。
巻末にはオマケとして、実際の旅行先で掛かった費用などをひっそりまとめています。
町の話Ⅰ
・古都メクネス、あなたを信じます
・ラララシャウエン、ブルーブルー
・ハシラビード砂漠の畔
砂漠の話
・無音にとどろく人間の声
町の話Ⅱ
・ワルザザートと境を越えて
・マラケシュが呼ぶ雨の音
・カサブランカに会えない
静寂の話
(サハラ砂漠にて)
巻末付記 旅支度のために
【長編小説 / 新書版 / オンデマンドフルカラー表紙 / 178ページ】
どうしても死にたくない。
守り神たる竜の在る世界。
最後に捧げられたのは、村でもっとも嫌われた娘。
野火のように激しく、荒々しく、彼女は村を憎んだ。
◇ ◆ ◇
風景幻想特化のハイファンタジー小説です。
起承転結よりも、世界の在り様やひとびとの仕草、感情、日常の手仕事を愛する方に、楽しんでいただけるように思います。
ファンタジーと銘打っているものの、明確な魔法は登場しません。
名もなき竜の宮Ⅰ
竜の花嫁
一章 嫁入りの日
二章 金の瞳、遠雷の声
三章 雨と眠りに安らぐもの
四章 かつて殺されたすべての私たちへ
五章 野火迫る
六章 竜の花嫁
名もなき竜の宮Ⅱ
なぜ、自分が殺されねばならないのか。
問うた娘に竜は答えた。「いいや私はもう人間を喰わない。おまえは村に帰っていいのだ」
【旅行記 / B6版 / オンデマンドフルカラーカバー / 128ページ(内カラー18ページ)】
旅人よ立ち止まれ。耳を澄ますために。
この本はガイドブックではありません。
もしかすると旅行記でもないのかもしれません。詩集と呼ぶにも何かが足りない。
2011年、半年間の一人旅の合間に書き継いできた言葉たちに、
新たに書きおろしたエッセイと言葉、旅先で撮影した写真を加え、一冊の本にまとめました。
巻頭にはカラー写真を四枚、各国ごとの章扉にもカラー写真を一枚ずつ掲載。
新装版発行にあたって、旅支度のおまけページを巻末に追加しました。
※作品は滞在国順に並んでいます。
シンガポール→ベトナム→インド→トルコ→ギリシア→エジプト→イタリア→オーストリア→ポーランド→チェコ→ドイツ→イギリス→カナダ→ハワイ
【幻想短編集 / 文庫版 / オンデマンドフルカラー表紙 / 134ページ】
※本書籍は販売を終了しました。今後の増刷予定はありませんが、電子書籍化を検討中です
それでも、君は飛べるんだ。本当は唯の紙切れだとしても。
紙飛行機の墜落率は100%だ。
ヒュッと宙返りして落ちる。いきなり直角に逆立ちする。
風に舞い上がったとしても、最後は大地に引き戻される。
◇ ◆ ◇
サイト上で公開してきた作品四編に加え、新たに書き下ろした短編・掌編を五編収録した幻想短編集です。
作品ジャンルはSF、寓話童話、ファンタジー、現代ものと様々ですが、
「幻想」を一本の軸に、様々な視点から切り取った物語をお届けできればと思います。
紙飛行機の中にはお月様が眠ってる
3,474kmを織り込んで僕の掌から飛んで行け
父が交通事故に巻き込まれて即死してしまった、と病院から呼び出しの電話が掛かってきたのが15分前のことだ。病室には、ベッドが二つ並べられていた。片方のベッドは、私にとっても馴染み深い、真っ白なシーツと清潔な布団、患者に優しいリクライニング仕様のもの。もう片方は、ベッドの枠組みが剥き出しになっており、どちらかと言えば唯の台座に近い。そのどちらにも、父の身体が横たえられているのを、私はしげしげと眺めた。
ドーリィは、その名が表すとおり、人形だった。陽光を反射し、きらきらと輝く化学繊維で作られた亜麻色の髪。唇は柔らかく、指先で触れればしっとりと吸い付くよう。瞳はとても精巧なガラス細工で、網膜における血管一筋一筋まで、丁寧に造り込まれていた。瞬きすら出来た。鼻筋は華奢で、呼吸の度に小さく膨らむ。白い首筋は、声を発すれば震え、撫でられれば赤くなる。指先の関節は全く目立たず、——いや、止そう。彼女の、あまりにも人形離れした美しさは、一言書き記すだけで事足りる。
冷たい風がきんきんと吹き荒ぶ、冬のある夜のことでした。田舎の冬は、風景が息を潜めるかわりに、星が煌々と輝く季節です。けれど、都会の冬は、凍えるばかり、夜空にはぽつりぽつりと、置き忘れたような二つ三つの星しかありません。その寂しさを埋めるように、都会はきらきらと光を灯します。その輝きがさらに星を遠ざけると分かっていても、光が減ることはありません。
あっ、ウィスキー割れた。転倒しながら、里沙はぼんやりと思った。なんてことだ。せっかく奮発して良いヤツを買ったのに。いや、そもそも、こんな年になって玄関前で転ぶとか……! 埃っぽいアパートの廊下に転がってさえいなければ、里沙はそこそこに綺麗で実年齢より数段は若く見える女性だった。だが、長い睫毛も、流行をしっかりと把握した髪型も、シンプルだが手を抜いていない服装も、砂埃にまみれてしまえば一様に魔法が解ける。
遠い未来、水は密猟の対象になった。宇宙に散らばる地球移民の子孫たちが、こぞって母星の水を欲したためだった。数光年の距離を越えて運ばれる地球の水は、たとえつまらない雨水でも、水たまりから掬ったような泥水でも、黄金以上の高値がついた。人工的に生成した水分では駄目なのだ、と彼らは口を揃えて言う。あの青い星、あの小さな青い星を満たしていた水でなければ駄目なのだと。それだけが本当の水なのだと。
骨董品屋の片隅で、わたしはその時計を見つけた。一目で芸術品だと知れた。埃にまみれ、蜘蛛の巣を纏い、それでも輝きを失わずに、ゆっくりと振り子を動かしつづけている。持ち上げてみれば、若い猫のような重みが腕に掛かった。優美な短針と長針を十二色のステンドグラスが彩り、時計盤の円周には飛び立つ鳥の姿が彫りこまれている。それは、こんな小さな町の小さな骨董品屋ではなく、異国のお屋敷か、小国の城に飾られているべき時計だった。
とある高名な作家が死んだ。地獄へ落とされた後、彼に科された刑罰は、火の味を描写せよというものだった。「火の味ですって?」「然り」地獄の官吏は作家の眼前に立ち、厳粛な面もちで頷いた。作家は呆れ混じりの微笑を浮かべた。椅子に拘束されていなければ、この生真面目な官吏の肩を叩き、もっとましな冗談を言うようにと諭すこともできるのだが。
天国の片隅には秘密のプラネタリウムがある。小ぶりなテントの中に設えられた座席の数は全部で六つ、上映回ごとにいつもあっという間に満席になる。プラネタリウムがオープンするのは、太陽の出ている間だけだ。夜明けとともにテントの入り口は開き、日没とともに閉じる。空に星が灯りはじめる頃には、テントは跡形もなく消えてしまう。
胸に抱えたままの兎からこぼれ落ちる血が、腕を伝い、ポタリポタリと落ちつづける。この暑さだ、早く血抜きと、然るべき解体の処理をしなければ、食べられなくなってしまうのに。花嫁は唇を噛んだ。空腹に蝕まれた空っぽの胃が、痛かった。花嫁には分からない。なぜ、あの竜は、私を食べようとしないのか。
寒い日には南国の物語を、暑い日には北国の物語を読みたいと思う。それはごく自然な願望だ。燃えあがる図書館の階段を上へ上へと登りながら、わたしは壁面書架に並ぶ本たちの背を撫でていった。もしかすると人生最後の一冊になるかもしれないのだから、最高の偶然が必要だ。
猫という生きものは、その毛先一本に至るまで、自らが自らの主である。誰の命令も聞かないし、誰の意思も通用しない。たとえ幾万の兵と家臣を従える広大な帝国の王であっても、一匹の猫を足元に侍らせることはできない。人の側が跪いて猫のご機嫌を取るか、殺して楽器の皮にでもするか、それ以外に、猫に言うことを聞かせる手段はない。
千年の昔から聳え続けていた眠り姫の茨の城が、過日の地震でとうとう崩壊したので、僕らの国は空前の観光ブームに見舞われていた。近隣諸国からの純朴な観光客はもちろん、歴史学者、民俗学者、考古学者、魔法学者、各国首脳、各国王家の末裔、どこぞのお忍びの王女様までが、現在に息づくお伽噺の化石を見ようと詰めかけた。
昨日伐採した梅の木が、変わらず庭に立っている。丹羽《にわ》は己の目を疑い、門扉に手を掛けたまま、夕星の灯る薄闇に滲み出る梅の枝振りを数えた。それは見紛うはずもない、丹羽が生まれる前からここにいた樹齢四十三年のあの梅と、そっくり同じ形だった。
夜が砂丘を登ってくる。追いつかれる前に登頂しようと、私は足を速めた。夜の歩幅は広い。高さ数百メートルに及ぶこの大砂丘も、まもなくすべて夜に沈むだろう。一足ごとに、美しい風紋を踏み崩す。安定を失った砂は音もなく斜面に沿って流れ落ちる。初めは急速に、やがて緩やかに、遥か下まで。それは小川のようにも見え、けれども入日の深い茜に照らされた今は、むしろ出血を連想させた。一呼吸のあと、振り返って見下ろせば、砂漠の底は既に夕闇に包まれていた。
妙に温かな洞窟だった。外は吐息が凍る寒さだというのに、春の夜のような暗闇がひたりと肌に触れてくる。緩く傾斜した滑りやすい地面に足を取られないよう、旅人は洞窟の壁面に手を沿えた。やはり仄かに温かい気がした。カンテラの光輪越しに、空気中の塵がゆっくりと移動するのが見える。洞窟の奥に向かって風が流れているのだ。外気を吸い込むように。吸い込まれるように、と旅人は自らに語り直し、風下へ、洞窟の奥へと降りていった。
周知の事実として、情動は伝染する。だから、彼らの狂乱がいったい誰から始まったのか、今となっては確かめようがないし、仮に分かったところで何の慰めにもならない。もはやどうでもいいことだ。唯の事実として、今このとき、群衆は狂気に呑まれた。人々はあらゆる武器を携え——拳銃、手斧、チェーンソー、猟銃、鉈、鋤、マチェーテ、包丁、納屋から引き出された工具に農具——破壊を尽くしながら一散に路上を駆けた。
ベンチに樹木が座っている。もちろんそんなはずはない。瞬きをして見つめれば、そこに見えるのは一人の青年だ。歩き疲れたように脱力し、膝に乗せたミネラルウォーターのボトルを手慰みに揺らしながら、正面の噴水を眺めている。ベンチはちょうど日向と木陰の狭間にあり、ボトルが角度を変える度、青年の指先に屈折光の淡い虹が散った。
旅先へギターを連れてゆくのが好きだ。それも一人旅のときに。海を見たい気分だった。仕事帰りに思い立ち、その場で宿を押さえた。海沿いにある小さなホテルだ。バルコニー付きのシングルルームが運良くひとつ空いていた。手早く旅支度を済ませ、車にギターを積んだ。日頃弾いているものよりも一回り小さなアコースティックギター。それと、数日分の着替えをおざなりに詰め込んだバックパック。車に乗せるべき荷物なんてこれだけあれば充分で、あとはもうどこにでも行ける。
人間は扉が好きだ。扉の向こうに物語を夢見る。輝かしい夏への扉、魔法の国に通じる衣装箪笥の扉、扉の先にあるかもしれない、此処とは異なるどこかの世界。そんなものは存在しないと分かっていても、夢を見ずにはいられない——いいや、違う、そんなものは存在しないと分かっているから、安心して物語を託せるのだ。もし、万が一、天文学的な確率だとしても、世界に存在する扉のどれかがランダムで異なる場所へ繋がってしまうとしたら、落ちついて風呂にも入れやしない。下着姿でくぐった脱衣所のドアが、真っ昼間のサン・マルコ広場に通じていたらどうする?
廊下の隅っこに、クラスメイトの生き霊がいた。半透明の身体、曖昧な輪郭線。私とおなじ制服の、紺色であるはずのプリーツスカートは水面のように透きとおり、朝の日差しを反射していた。きれいだった。思わず見惚れてしまうほどに。私は彼女と数えるほどにしか喋ったことがなかった。名前はかろうじて分かる、たしか、柳木さん。教室を覗いてみれば、柳木さん本人の姿が見えた。机に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、楽しげに談笑している。顔色も良好、廊下に生き霊を蹲らせているとはとても思えない。
物語は、とうとう最後の一曲に差し掛かった。西日の梯子が降りそそぐ小さな教会の壇上で、ひとりのリュート弾きが、ささやかなアリアを奏でようとしている。その一曲を奏で終えたら、物語には幕が降りる。彼もまた、物語とともに、読者の前から退場する。もし、この物語が書籍として綴られていたなら、残りページはほんの僅か。左手に感じる重みは薄れ、右手にばかり過去が重なり、窓から吹きこむ風のちょっとした悪戯で最後のページの最後の一行が露わになってしまう、そんな地点で、作家は続きが書けなくなってしまった。
透明な街、うつくしい街、ちょうど日付が変わる頃のこと。休日を前に、人々は浮き足だっていた。ショーウィンドウを楽しげに覗く二人連れ、大声で笑いあう仕事帰りの酔っ払い、クラクションに追い散らされる行儀の悪い学生たち。穏やかな夜風がビルとアスファルトと雑踏の匂いを運び去る。群衆の声に掻き消され、足音はよく聞こえないかもしれない。ただ、その音に土の気配がないことだけは分かるはずだ。
自己紹介
ペンネーム:風野 湊(かざの みなと)。1990年4月29日生。旅先で猫を愛でつつ読書に耽れたら幸福。
バックパックにかならず詰めるのは、宮沢賢治詩集、長田弘紀行文、P.ロスファス『風の名前』。
執筆のお供はポメラDM20からMacBook Airに変わりました。書きつづけています。
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